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神山教会 説教ライブラリ [一覧へ戻る]

2010年5月30日

《神の子とする霊》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ローマ8:12〜17

  聖霊降臨節第二主日、讃美歌16、344、交読文14(詩50篇)
  聖書日課 申命記6:4〜9、マルコ1:9〜13、詩編97:1〜12、ローマ8:12〜17、

 久し振りの御殿場、神山教会です。丸一年間、のご無沙汰でした。昨年5月29日が予定されていましたが、インフルエンザの流行のため外部からの入構を自粛するよう求められました。再会を危ぶみました。

 四半世紀、30年超続いているのだから、一年ぐらい大した事ないさ、という人も世の中にはいるでしょう。わたしの頭の中に浮かんできます。そうした人は、物事を計算することのできる賢い人です。合理的に考える人です。頭が切れて、回転が速くて、決断が出来る。人当たりもよろしい。しかし私たちは、一期一会、今日ありて、明日なきもの、と考えています。

 昨日お電話がありました。玉出教会から東神大へ行き牧師になった大庭牧師の奥様からでした。四国高知の佐川教会です。佐川教会の役員に田村さんという方がいらっしゃいます。私たちがお訪ねした時、たいへんよくおもてなししてくださった方です。

 その方のお嬢様は、先日、この教会の礼拝においでくださったのですよ、ということでした。児玉さんと仰る方、岡山から、三島にこられているそうです。現在、ご実家におられて、いろいろお話があり、神山のことも話に出てびっくりしました、とのことでした。
何時も、何処かで、覚えられていることを感謝しましょう。

 神山教会の一年はどのようなものだったでしょうか。
伊藤さん、荻野さんの帰天、入室者が増えた。代務教師・高橋先生の転任。宮本先生の代務復帰。もっとたくさんのことがあったことでしょう。

 私と玉出教会の一年もお話しましょう。
しかし、礼拝説教ですから、その範囲内になるよう気を付けながら。

福音宣教に関わることを二つ。

 先ず私事を。7月末、痛みに襲われました。体幹部の筋肉、関節のこわばり。
週末、病院へ、次週初めを予約。
8月2日の礼拝、まずいなあ、と思いながら、講壇につかまって、席に戻る。
目ざとい人がいるものです。役員会の冒頭、質問、「牧師の健康はどうなっていますか」
現状をお話したところ、役員会は1ヶ月間を病気治療の休養期間と決定。その場から休暇に入りました。丁度娘一家が来ていましたので、翌日の病院行きは車に乗せてもらいました。大阪市立大病院の紹介で近くの金山クリニックへ行く。「薬を試してみましょう」。
治療診断を試みる。ステロイド剤投与。帰宅後すぐ飲んでみた。効きました。痛みが氷解する感じ。病名は『リューマチ性多発筋痛症』、しかしリューマノイド因子はなし、リューマチではありません、とのこと。病因は全く不明。60歳代から発症が多くなる。
薬の副作用とやめ方が難しい。やめると再発。

健康に関しては、密かに自信を持っていました。それが崩れたのは、この時です。実際、このときから出億劫、出不精になりました。感染が怖い、ということもあり、外出せずに過ごすことが多くなりました。これでは教会に迷惑をかけているのではないだろうか。とても気になっています。これまでにない感じ方です。

 9月15日は日曜日。いつも通り朝7時に礼拝堂へ行きました。牧師室から講壇へ出る戸を開けました。なんだか暗い感じ。講壇から会衆席を見る。やはり暗い、9月の朝はもっと明るいはずなのに、自分の目がおかしいのだろうか、視力が落ちてきたことは感じていたけど、これほど悪くなったのか?
多発筋痛症、ステロイド剤の影響か?

 その時、ハッと気付きました。床が白い、それが光を吸収して暗く感じている。
何だ、これは何事か、異常に静まった感じの中で、様子を伺いました。聖餐卓の脇まで降りました。なんと椅子の下に消火器があります。これは消火剤かもしれない。
その時は、消火器投げ込み事件のことは聞いていませんでした。それでも、これは警察に届ける、と腹を決めました。現場保存が何時までか解からない、礼拝は教育会館ホールでしましょう。午後の記念会は、どうしても礼拝堂、これは間に合うだろう。
礼拝後、大勢のご奉仕で綺麗になり、古谷洋さんの記念会も無事終了。

 後になり、いろいろ判明。教会堂への投げ込みは、春頃、近くの姫松教会で起こっていたことを聞いていました。それ以外にも、それまでの一年間ほどの間に70件ほど起きている。大阪教区はそのことを掌握しながら周知していない。その後も止むことなく連続しました。11月末まで100件超、一旦中断しますが、最近再開されました。
ミニバイクに乗った男が、防犯カメラにその姿をとらえられています。パンダのような防寒衣類です。大阪府警本部が扱い、阿倍野警察に本部が置かれています。
捜査は進展していません。

 プロテスタント教会だけが対象となっています。自戒を要します。
単なる嫌がらせ、愉快犯でしょうか。現代日本の中にある異物排除の気質、傾向と関わりがあるのではないでしょうか。この事件を許容しようとする社会の雰囲気が、連続させているかもしれない、とするととても恐ろしいことです。ナチ・ドイツのユダヤ人虐殺も、ドイツ人社会のナチの対する許容、反ユダヤ人の雰囲気が、可能にさせた、と認識されています。

 日本社会は、思想・信条・信教の自由に関して、意識が低いと考えます。そうしたことは、自分に関わりのないこととして遠ざける。そのために、それらのことには、積極的な関わりを持たないようにする、ということになります。

 これらは、人間が何よりも人間であることを証明するはずのものです。例えば、パスカルは言いました。『人間は、考える葦である』。本能のままに行動するのは動物です。人間は、考える事でなすべきことを、優先順序と共に選び取り、それを実行することが出来ます。考えることで、本能的な欲求であっても、それを抑制することが出来ます。

 人は、多くの被造物と同じようなものです。生物、動物、哺乳類、霊長類、ヒト科ヒト。分類学上の存在。他の生き物と分かれるのは、人は本能だけでは動かない、という点です。 
人間は情緒、感情的な存在です。同時に理性的であることによって人間になってきました。
理性を働かせるヒト、社会的存在であることを示して人間と呼びます。

 どのように呼んでも、依然として人間は固有の問題を抱いたままでした。社会的になれば、社会において罪を犯し、神を裏切るようにもなりました。個人的には、思い通りにならないことを知り、他者と争い、絆を絶ち、他者に対して嫌悪の思いを抱き、思い上がり、罪を犯しました。多くの者が自分一個の利益を求め、奔走しています。利益を確保し、その分量に満足することもなく、更に求めます。財貨を集めることに失敗し、窮乏している者たちを軽蔑し、侮辱します。

 これが肉の人間です。ありのままの人間は、それほど優れた存在ではありません。むしろ小悪党、小悪魔と言いたくなるものです。ローマ書7章が語るように、解かっちゃいるけどやめられない、腐れ魂です。

    かくすればかくなるものと知りつつも
       止むに止まれぬ腐れ魂

 人間同士で見詰めあっていても、その善し悪しは、なかなか判りません。鏡に自分を映し出して見ているようなものだからです。
罪や悪に捕らえられ、支配されている奴隷の状態です。
この一年間は、肉の弱さと、それに縛られていることを感じさせられたときでした。
またまた新しく罪人であることを知った時でもありました。

 このような人間だからこそ、一年ぶりに神山教会のご奉仕に招かれたのではないか、と感じています。もともと教会や、分句が、これからは分区内だけでお世話しよう、持田は不要、と言われても当然、と考えていました。サドンデスになっても、文句は言えない、という思いでした。

 療養所は、多くの病を抱えた方たちが、その弱さを知り、支えあって生きているところです。昨年の発病と、97年のくも膜下出血の経験は、同じ病気でも随分違うものがある、ということを感じさせられました。
昨年は、大阪感染症センターへも行かされました。家族や、玉出の方たちには申し訳ありませんが、ハンセン病に感染していたらよろしい、ということを考えました。少しは、申し訳が立つかな、と感じたものです。痛みにしても苦しみにしても、全く違うことを感じます。

 本日の福音書日課は、ヨルダン川でのイエスへのバプテスマです。

 聖霊、鳩のように下り、
 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、」という声が響いてきます。
ナザレのイエス、マリヤの息子、たかが大工でないか、と言われるひとりが、神の子として認証された、不思議な出来事です。しかも、愛する子です。イエスは愛された者です。
これに対応する、愛された者、イエスの祈りは、「アッバ・父よ」です(マルコ14:36)。
アラム語とギリシャ語が併記されています。アッバは、父よですが、もっと日常的に「とうちゃん」というくらいの言葉だ、と聞きました。
イエスと父なる神との一体性、深い信頼の姿を映し出す麗しい言葉です。

 イエスは、神の子と認められました。世の初めから神の愛子であったことが、知らされたのです。同じように、私たちも神の子と呼ばれます。
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えて見なさい」。一ヨハネ3:1、口語訳

不思議なことに、昨年3月8日の説教は、この箇所でした。

《御子に似た者になる》一ヨハネ3:1〜10、

 ガラテヤ4:1〜7、これはパウロによる『御子の降誕物語』です。
この6節にも、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊、とあります。同じ人が書いた手紙であり、ローマ書とその内容がよく共通しています。支配する諸霊、奴隷、相続人、単語だけ取り上げても、よく似ています。
もはや私たちは、肉の支配、拘束を受ける奴隷ではなく、神の子・相続人とされました。ローマの法律は、契約によって相続人とされた者は、生まれながらの相続人と全く変わらない権利を有する、と定めています。私たちは、イエスと全く同じ神の相続人とされました。神の愛の意志に基づくご計画と力により、養子とされたのです。

子たる身分を授ける聖霊を受けたのである。 聖霊降臨節の福音です。 感謝しましょう。