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2002年6月30日

《神は真実である》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
1コリント10:6〜14(1:9)

伝道者パウロは、随分いろいろな苦労をした人です。
何故あれほどの労苦に耐える事が出来たのでしょうか。
それは、何と言ってもパウロの語る言葉を信じてくれる人たちがいたからではないでしょうか。「ナザレの大工の息子、十字架に付けられ3日目に死から甦ったユダヤの人、イエスこそこの世界の救い主である」、と言うパウロの宣教の言葉は、なかなか受け入れられ難いものに違いありません。それなのに受け入れ信じてくれる人がいる。これは、励まされ力付けられることに違いありません。
 然し、昔も今も変わることなく、信じることを邪魔する力が至る所、至る時に働いているのです。最近の出来事を見てくださいTV番組の中で語りました。町を行く群集の一人です。「またですか。一体何を信じることが出来ると言うのでしょうか」。これは、とても悲痛な叫び声であると言わなければならないのです。ところが、私達のほうがこの事に慣れっこになってしまい、びっくりもしない驚きも悲しみもしないのです。
どんな事でしょうか。政治化の不正、腐敗。「国民は自分に相応しい政治家を持つことしか出来ない」のです。宗教と言いながら人を生かすよりも、人を殺すことを主としているような団体。官僚の自己保身、自分の利益を求め国民を忘れている姿。企業のなりふりかまわぬ利益追求の姿勢。超大国が自分の国益を追求し、小国を見下げている姿。
ハワイ沖のアメリカ原潜による水産実習船「愛媛丸」撃沈事件。テロと同じこと。
そして同時多発テロとそれに対するアメリカの態度、日本の姿勢。尻尾を振っている犬みたいで、とても見ていられない。有事法制も同じこと。沖縄と同じように、国民を守るべき政府が国家国民を裏切り、売り渡しているのです。一体何を信じることが出来ましょうか。

私事を申し上げますが、誇るためではないのでお許しください。
岩槻教会に就任して祝会がありました。一人の牧師が祝辞の中で「岩槻教会は
いわくつき教会である)と繰り返された。最初の教会総会でその言葉の意味に就いて質問があった。知らないものは知らないとしか答えられなかった。次の年の総会、あの言葉がトラウマのように傷つけていることを覚えて、「たとえその意味がどうあろうともいわくつきなどではない事を証明してきたのが皆さんだ」と書いた。「どうあろうといわくつきと書いたのがけしからん」という意見が出された。忘れられないことだ。
それこそがこの教会のいわくなんだ、とは言わなかった。牧師いびり、
 もう一つ、私はこれまで自分の思い通りに事が運べたためしがない。神学校を出た最初の任地の事からずーッとそうだった。岩槻に来る時も来たくて来たわけではない。この事をあるところに書いたら、反発があった。言葉が足らないことはお詫びするといいました。思い通りではなくとも、それを使命として受け止め、全力投球して来たと言っている事が理解されない。あの牧師いびりと同じものがある。
 それは、始めに自分ありき と言うことだ。自分の感情、ものの考え方や経験を絶対化することだ。こういう方は確かに能力的には非常に高い。そして他のものが自分の考えに従うことを求める。好悪の感情も非常にはっきりしていてそれを抑えることが出来ない。自分の感情が満足すれば良しとする。これは偶像礼拝の一つの形なのだ。自分で自分を神としていることに気付かない。
ピリピ2:4 「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」。
この言葉は、しばしば他の人やこの私のことを覚えてくれ、援助や祈ってくれというように解釈されて来ました。パウロはもっと深く、ピリピの人々を偶像礼拝に陥ることから救う言葉として語っているのです。真の意味で助け合い、共に生きようとするなら誰かが神となることは許容できないのです。自己神化の道は、裏切りの道に外なりません。自分を信じ、他の者を裏切り踏みにじるものです。
 小学校を卒業する時、級友と一緒に一人の女の子に手紙を書きました。初恋のラブレターです。「あなたを信じています」。信じるということは、愛することに他ならないのです。伝道することはその相手を愛することであり、信じる行為なのです。営みなのです。だからこそ、仕えることになるのです。
 パウロの内には篤い信頼と愛があったからこそ、様々な労苦にも耐えて伝道の生涯をまっとう出来たのです。パウロの生涯は、その労苦を通して語ります。
召し出された方は真実であって、必要を必ず満たしてくださる と。
創り、生かしてくださる方は、この生涯に恵みを満たしてくださると。
そして私は、敬愛する療養所の皆さんから学ばせていただきました。
「試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えてくださるのである」と。
私どもは一緒にこの道を感謝し、ハレルヤと歌いつつ歩もうではありませんか。
注意深く偶像礼拝への道を避けながらです。