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2005年1月30日

《大祭司イエス》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヘブル書3:1〜6

わたしたちは、日常の生活で何を見上げているだろうか。さまざまなものや、事柄が私たちの心の中を占領している、という状態ではないだろうか。私自身のことで考えると、そのようになる。よく「気がかり、心掛かり」などと言うが、それは将に文字通りのことなのです。心がそのことでいっぱいになって、ほかの事に気付かない。睡眠すら十分に取れないようになる。夢か現か幻か。白昼夢を見ているような状態になる。

私達のために大祭司イエスが居られる、というのはどのような意味なのだろうか。
アルキヒエリュウス、第一の祭司。モーセの兄アロンの血統(血筋)を引く者の職。
モーセは口が重く、民衆に語ることを不得手としたので、神はモーセに代わって神の言葉を民衆に告知するものとした。その後、この血筋の者がこの職を継承した。アロン系の祭司。ほかにもあるが最も重要なことであろう。大祭司は神の言葉を告げる者です。

執り成してくださる。仲保媒介者。神と人との間に立ってくださっている。
罪の贖い主、唯一のまことの大祭司は、自らを捧げて永遠の贖いを成し遂げられた。
たとえば9:26「ただ一度、罪を取り去るために・・・」とあるが、この罪は単数形が用いられる。それに対して旧約の大祭司に関しては、複数形の罪が語られる。
旧約の大祭司は、自分のものではない血を携えて聖所に入り、それを生贄として捧げ、イスラエルの、諸々の罪の贖いを果たします(9:25)。この大祭司は、まず自分自身のため、次に民の罪のために毎日生贄を捧げる必要があります。
しかし、今や顕れた大祭司イエスは、全く違います。ただ一度、ご自身を捧げ、その流された血潮によって、すべての人間の根源的な罪を贖われたのです。
 
バビロン捕囚から帰還したイスラエルには、再び大きな災厄が襲い来たった。マケドニアのアレキサンダーの遠征である。宿敵ペルシャのダリウス三世を制圧し、更に東はインドを目指し、南はシリアからエジプトまで征服する。その時エルサレムも屈服せざるを得なかった。将軍アンティオコスは神殿を汚す。ついにイスラエルは祭司マカベヤの指導のもと立ち上がる。その子供の一人が有名な戦士「マカベヤのユダ」である。この独立運動、戦争は成功し、イスラエルは独立を取り戻す。その後のイスラエルは、ヘロデが王位に就くまで、マカベヤ家の祭司が王位に就く祭司公国であった。祭司はまた王でもありました。
大祭司としてのイエスは、やはり王でした。そのあり方は、世俗の王とは違います。力をもって支配する王に対し、愛をもって統治します。仕える者を求める王に対し、自ら仕えることをもって王の徴とされました。


裁き手として立たれるのではない。裁きかつ赦すお方である。
東神大、熊沢教授の説教かな? 
「裁きが即赦し・救いであるところに福音の福音たるゆえんがある」。
今日風に言えば、癒やし手なのです。

教会の牧師職、説教職の存在は、さまざまに理解されている。ある意味では独立、自立した検察官、裁判官と同じであろう。しかしそこには最小限要求されるものがあるはずです。それは会衆が福音を聞き、喜び、賛美するものとされることです。

戦前、戦後の教育を比較すると、その違いがあまりにも大きくて簡単に論じることができません。憲法が変わったのだから当然と言えましょう。そうした中で、どうしても一つのことだけ取り上げておきます。それは、かつてはよく努力した天才、偉人の生涯、その伝記を学んだのに、近年は過去の人として省みないということです。理由はたくさんあるでしょう。時代が違う、個人崇拝だ、個人差がある、才能が違うので圧力をかけることになるだろう、などなどです。私は、本を読めるようになると、貧しい生活の中で本は潤沢に与えられました。選択は、戦前からの図書館員が付いていました。この方は、私が中学生の頃には、麻布南山図書館の館長になられました。選ばれたものは、少年向きですが、世界の古典文学と偉人伝でした。宗教的、思想的なものは入っていませんでした。
最近どなたかが書いておられました。「子供たちに偉人伝を読ませるべきだ」。
我が意を得たり、と感じました。絵本は大切です。想像力、イマジネイションを育てます。
偉人伝は、人生への前向きな姿勢、理想図を描かせます。幕末、明治期の日本人は、「西国立志編」(自助論)を驚くほどよく読みました。これは、要するに偉人伝で、彼らが如何に努力したか記すものです。徳川幕府が英国に派遣した留学生たちのために、更に彼らから学ぶであろう人達のために選ばれた一書です。中村正直・敬宇は年長でしたが、幕府留学生の監督として選ばれました。昌平コウで儒学を学び、数え31歳でお儒者(教授)となった秀才です。傍ら、ひそかに蘭学、英学を学びました。英国で、彼も学びました。帰国のとき、お世話をしていた英国人が、一書を選び与えました。現在イギリスが盛んであるのは、この書によるところ大なり、貴国においても有益なるべし、と。中村は、他の者より遅く英学を学び始めたのですが、帰国の船中から、この書の翻訳を始め、やがて公刊しました。多くの若者たちがこの書を読み発奮し、勉励努力して、国家有用の人となりました。人生到る所青山あり、業ならずんば国に帰らず。
中村は、その後キリスト教徒となり、明治期キリスト教会で、一級人物の一人となりました。71年ごろには、上書して、明治天皇にキリスト教徒になるよう勧めています。文部大臣の委嘱で「教育勅語」の草案を作りましたが採用されませんでした。元老院議官、貴族院議員などを歴任、1891年6月7日死去。


江原素六(1842年1月29日生まれ、1922年逝去)
 彼が校長をしていた麻布中学校は、カナダ・メソジスト派のミッションスクールであった。政教分離教育を狙う文部省訓令第12号に、苦悩の末従った。キリスト教を標榜しないでも、キリスト者の人格によって、聖書の本質へ導くことができると考えた。
 ある時、一人の教師が素行の悪い生徒に手を焼いて、「見込みがない、顔つきを見ただけでもだめです」と彼に訴えた。彼は「寛大に面倒を見ておやりなさい。精神が治れば、顔つきも良くなるものです」と答えた。その教師は納得いかなかったが、後に江原の言葉通りになって、その高邁な見識に感服した。
 彼は、二度も洗礼を受けた。二度目に、「神に献ぐ」決意をした。その後、外務大臣、文部大臣や衆議院議長になるよう請われたが、「仕えるため」(マタイ20:28)といって断った。
江原素六は、メソジスト派沼津教会創設時の信徒の一人。1877年1月15日、ミーチャム宣教師より受洗。1881年暮れ、沼津教会牧師橋本睦之から再度の洗礼を受ける。駿東郡長、沼津中学校長、殖産推進などの激務から結核を発病、喀血。翌年から一切の公職を辞する。後東京に移り、メソジスト中央会堂の信徒、また福音士となる。
1890年7月、静岡県第七区より第一回衆議院選挙に立候補して当選。以来七回連続当選。その後、勅選議員として貴族院へ移ります。
東京では、東洋英和学校の校長を依頼されて勤めます。12号訓令に対処して、校内に普通学校を作り、やがてそれを独立させ麻布中学とします。80歳のとき、生徒と共に箱根へ強歩遠足を試み、その三日後、脳溢血のため亡くなります。最後まで生徒と共にあり、生徒から敬愛された先生でした。先生が学寮から校庭を横切って校舎へ向かう姿を見ると、遊んでいた生徒は先を争うように行く手に列をなし、敬礼して先生のお顔を仰ぐのが常であったと聞きます。干天に慈雨を見るが如く、また慈父のみ顔を仰ぐが如し、と言われます。
これこそキリスト教教育である、教育者である、と思わしめられます。

私たちに必要なことは理論ではありません。律法でもありません。強圧でもありません。
キリスト・イエスの名による薫陶です。

今私たちは、このような人を見ることが大事なのではないでしょうか。
謙遜になることを教えられるような人物。更にその人を見る時、キリスト・家素顔請いだされるような人物。そうです、大祭司イエスを仰ぎ、慰めを、希望を堅くしようではありませんか。