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2005年7月31日

《義と平和と喜びを》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ローマ書14:13〜23

今のときは、国内的にも国際的にも日本中が混乱している、と私は考えています。日本人自身が、この国が何処へ行こうとしているのか、判らないで居るのです。その大元は政治家が自分の利得や名声、野心を満たすことに現を抜かし、国民、社会のことを考えていないからです。党利党略、私利私欲に駆られて、考え、判断し、決断して行動している。そのような政治家の存在を許している国民、有権者にも責任があります。

混乱は、無秩序という事です。これは平和がないことなのです。「神は無秩序の神ではなく、平和の神である」?コリント14:33。
約束された平和、しかし、何処に平和があるのでしょうか。

世界史の中でも、画期的な法律があります。バビロニアのハムラビ王時代の同態報復法、REX TARIONIS、これはそれ以前の状況からすれば大きな進化でした。「目には目を、歯には歯を」。人々は不法な力の行使に耐えることを求められなくなりました。
報復は、神のことであることを忘れた世界。
貧富の格差、豊かなものがそれを維持しようとする。だいぶ以前の統計ですが、持ち家で七部屋以上の人は必ず保守的になる。変化することを好まなくなる、といいます。三DK程度だと、変革を求めます。持たざる者の中に恨みと憎しみが生じ、更に拡大再生産されます。これは際限なく続き、今日のテロの横行となりました。その鍵となった言葉は十字軍でしょう。

中東諸国への経済援助も、その実欧米が石油を確保するためのもの、条件付とわかっています。イスラム諸国への民主化要求もばかげたものです。イスラムという宗教はそれなりの政治理念を持っており、唯一神アッラーのみ旨を徹底的に守るのです。キリスト教のような妥協はありません。神を主とする者に、人間のご都合を第一にするように求めて、受け入れられるでしょうか。キリストが私の主である、と信仰している者は、妥協して他のものを主とすることも出来るでしょう。しかし、厳しい砂漠の宗教はそれを許しません。
28日(木)は土用の丑の日。うなぎを食べられず、ハムエッグと付けラーメンの夕食をとりました。そのときテレビをつけると、「砂漠の都 ペトラ」が放映されていました。現代のヨルダン領、シナイ半島の付け根辺りにあった都の遺跡です。ローマ帝国時代、アラビヤの香料をラクダの隊商(キャラヴァン)を使って交易したベドウイン人たちの都でした。映画「インディ・ジョーンズ」にもその姿が観られました。細い谷底を縫うように進むと、神殿のようなファサードが目に入ります。その前を右手に折れて進むと、墓地を経て、町の中心部に出ます。ペトラは、ギリシャ語で岩を意味します。
この町の入り口には、「サラーム」と書かれています。ナバテヤ語で「平和」を意味します。ヒブル語のシャロームと同じです。争いも抗争もない、調和を重んじるナバテヤ王国は繁栄しました。
豊かさを分かち合ったからでしょう。
彼らは客人を心からもてなしました。無条件で、三日間ご接待したそうです。
与えられたものの中に憎しみや恨みのもとを見出すのではなく、愛と恵みを見出し、喜び楽しむ。ここに平和がある。心の中の平和、キリストの平和がある。

河野進牧師の詩集『カナの婚宴の葡萄酒』を手に取りました。金曜日のことです。時々手に取ることがあります。どのような方か知らなかった。今でも知らないが、少し判りました。田中芳三さんと仲良し、この方は賀川豊彦さんの弟子、クリスチャングラフという雑誌を10年間発行した。田中さんのお嫁さんは大阪南部の教会幼稚園の教師。川尻?お目にかかって、親しくお話している。
河野牧師の人となりを表す詩が、幾つもありました。
西田天香さんのお話に深く感動した若い日満州教育専門学校へ入学し、毎朝早く寄宿舎のトイレの掃除をした。戦後別府で同窓会があり、真っ先に言われた。「隠れて便所掃除をしていたな」。見ている人があるものだ。
火事になったら、祈りながらポンプを押します。何もしないで祈っているのでは火は消えませんから。

「ますます病院が大きくなり 医療機関が完備する 
それで病がなおり 幸せになるか かんじんの心を 
忘れていないか 病だけでなく人をいやす 祈りが 
信仰がいよいよ必要である」

よく知られている詩がある。この詩は「病」という分類になっています。その最初に小さい字で書いてあります。「病まなければ」と題されています。
  病まなければ捧げ得ない悔改めの祈りがあり
病まなければ聞き得ない救いのみ言葉があり
  病まなければ負い得ない恵みの十字架があり
  病まなければ信じ得ないいやしの奇跡があり
  病まなければ受け得ないいたわりの愛があり
  病まなければ近づき得ない清い聖壇があり
  病まなければ仰ぎ得ない輝く御顔がある
  おお 病まなければ人間でさえあり得なかった

これは考えてみるとおかしなものです。「人間でさえあり得なかった」。
病気になる前は人間ではなかったというのです。私などは、短気ですから、罵りたくなります。けんかしたくなります。
「馬鹿にするな、人間だからこそ病気にもなるのだし、治療を受けるのだ。何言ってやがる、ふざけんな」。
そう言いながら、ふと考えさせられます。俺って本当に人間だったのかな、と。
高校生の頃から考え続けていることがあります。文学とは何か、という問題です。一応、「人間とは何か、生きるとはどういうことか」を問いかけ、答える営み、と回答していますが、まだ終わっていません。自分という人間すら判らないからです。

主イエスは、平和ではなく剣を投じるために来た(マタイ10:34)、とおっしゃいます。それはイエスを我が主と信じ仰ぐゆえの戦いがある、とお話になったのです。迫害が起こりますよ、という事です。

聖書は全体として見るなら、明らかに平和の到来を告げ知らせるものです。
降誕物語では、天には栄え、地には平和、とみ使いの群れに讃美されました。
宣教の第一声は、「神の国は近づいた」というものでした。国は主権の浸透、確立、秩序を指します。
エルサレム入城では、ロバの子に乗った平和の王として歓呼を受けられました。
十字架の上では、「彼らをお赦しください。知らないのですから」と祈られました。
ここで読むべきものは、本当の人間とは何か、という問いへの答えでしょう。
イエスの父なる神が主と崇められ、仰がれる。それは創造の秩序です。その中では、人は互いに助け合い、人間となってゆきます。一人よがりは人間ではありません。

人間の悪行、罪悪、たとえば戦争や飢えは創造主の責任だ、という人があります。
人間の悪も罪も、神の責任ではありません。神は、人を創られたとき、ご自身の似姿を与えられました(創世記1:27)。それは目に見える外側の形ではなく、眼には見えない内側のものに違いありません。私たちは、それを愛と自由である、と考えています。残念ながら人はそれを自分の都合に合わせて使うようになりました。自己中心的に、欲望を満足させるために、利用したのです。そのために神の本来の求めと異なる歩みが生まれることになったのです。

人間の分立分争、対立抗争、貧富の格差、力の違い、羨望と嫉妬、怨恨と憎悪、そして殺意。力と富の豊かさを誇り、弱く貧しい者たちを蔑み、利用し捨て去るとき、これらを神の責任であると言うとき、私たちは、紀元前10世紀のイスラエルと同じレベルなのです。

パウロは、キリストの出来事の目撃証人でした。
同時に出来事の解釈者にもなりました。更に伝達者にもなりました。ローマの教会宛の手紙で、彼は平和を語っています。あれほどユダヤ人たちから、十二弟子の中からも攻撃されたのに、出来る限り多くの人と平和に過ごしなさい、と勧めています(ローマ12:18)。
「平和に暮らさせるために召されたのである」?コリント7:15.
争うことを勧める様な牧師は正しくはありません。離婚を勧めるような牧師は批判されて当然でしょう。私は二つともしたことがあります。もちろん正当化する理由はあります。しかし、その無理解と不和を固定化させてしまいました。失敗です。

対立、不和、抗争は、人の心の中で悪い部分が働いた結果です。
これを他の人の中に見つけていると、他者を裁き、復讐することになってしまいます。
むしろ私たちは、こうしたものを自分の中に見出し、神の許しを濃い求めるものになりたいものです。これが、聖霊の働く実りです。理解し、赦し、和解するとき、神の義が顕されます。人の喜びが溢れます。讃美しましょう。


欄外  八木重吉の詩集から
もえなければ
かがやかない
かがやかなければ
あたりはうつくしくはない
わたしが死ななければ
せかいはうつくしくはない

〈ゆるし〉 
神のごとくゆるしたい
ひとが投ぐるにくしみをむねにあたため
花のようになったらば神のまえにささげたい

玉木愛子『真夜の祈り』 目をささげ手足をささげ降誕祭
明石海人  深海の魚族のように自ら燃えなければ、何処にも光はない。

地雷ではなく、花をください
差別ではなく対等な人格として見てください。
憐憫ではなく自由に歩ける環境を、自由にもの言える場をください。