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2005年10月30日

《信仰の交わり》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
使徒言行録2:43〜47

明日は宗教改革記念日です。この頃はたいてい改革の話が多くなります。少し違うことから始めましょう。数年前には、沼津の偉大なキリスト者、江原素六のことをお話しました。
今日は土佐、高知の偉大なキリスト者片岡健吉のことにします。
片岡健吉は1903年10月31日に逝去しています。
彼は1843年の生まれ。高知城下中島町の馬廻り役 渋谷俊平の長男。幼名寅五郎。
戊辰戦争では、迅衛隊左半大隊長兼大軍監として戦功をあげました。帰藩後は藩の軍政に携わりました。1871(明治4)年、藩の権大参事となり、藩より選ばれて軍事研究のため国費で欧米への旅に出す。2年後、帰国した片岡は海軍中佐となりますが、征韓論に敗れて下野。高知に帰り、1874年板垣退助らと共に立志社を創立。自由民権運動の指導者として活躍すします。1877(明治10)年、民選議院設立建白の総代となり、京都行在所に提出しますが、受理されませんでした。
1880(明治13)年には、河野広中と共に、国会期成同盟代表として、国会開設請願書を太政官に提出しますが、これも受理されませんでした。明治政府は、民意による開設ではなく、天皇の意思による、恩寵として下賜する形の国会開設を狙っていたのです。その明確な形が明治憲法です。欽定憲法と呼ばれるのはその意味です。
翌年には、高知新聞社長となり、10月の自由党結成に参画、板垣と共に遊説活動を展開。
1887(明治20)年12月26日、建白運動のため上京するが、保安条例により、首都退去命令が出される。これに応じず逮捕され軽禁固2年6ヶ月に処されます。
1889(明治22年)憲法発布の大赦により出獄。
1890(明治23)年、板垣退助に勧められ、日本最初の衆議院総選挙に立候補、当選します。そして初代の議長に選出されます。以来8回連続当選。1898(明治31)年第12議会から第18議会まで連続して議長をつとめています。
 晩年には、日本基督教会伝道局総裁、基督教青年会理事長、同志社社長兼校長を勤める。
1903(明治36)年10月31日、長岡郡種崎(現高知市)の浅井家別邸で病没。
61歳。信望高き政治家、敬虔なクリスチャンの生涯であった。

この間、彼はキリスト教に親しみ、宣教師ナックスに導かれ、1885年5月15日、受洗しました。10月には、高知教会長老に任じられます。
最初の総選挙の折、板垣は基督教会の役員を辞めて、立候補するように勧められます。それに対して片岡は答えました。「それではキリストの十字架を負って、人々の役に立つ、という信念にそむく」。「私はキリスト信者であるがために、国のため、土佐のために働きたい」。
彼は高知教会の長老でしたが、進んで教会の入り口に立ち、履物の世話までした。下足番です。
また議会においても、議長席に着くと、頭を下げて、暫し黙祷を捧げた。議員の中には、初めは冷笑する者も居ましたが、やがて、そうしたことは全くなくなり、彼が議長席に着くと、議場は全く静かな雰囲気に包まれるようになったと言われています。
十字架の苦しみは、人のために負う時、困難を乗り越える知恵と力が、神からその人の心に注がれ、創造的な生き方となります。

今朝の聖書は、初代教会の様子を記したものとしてよく知られています。
ある人にとっては、ここに教会の理想像を見出すところです。ある人は時代状況が局限されているので、理想とは言い得ない、と主張されます。更に、これは聖書記者が書いたフィクションだ、として退ける人もあります。

 多くの信者が、自分の持ち物を持ち寄り、分け合った、ということは素晴らしい事です。
信仰の交わりとはこういうものだ、と言われると、はてな?と感じるはずです。何時まで続けられるだろうか。そのためには、際限なく信徒の数が増えてゆかねばならない。素晴らしいことでも、今は行われていないじゃないか。
 第5章にはアナニアとサッピラの物語があります。分かち合いが、早くも失敗した、と考えられます。消費共同体はうまく行かないのです。修道院は自給自足の生産共同体の形をとりました。曲がりなりにもうまく営まれています。

この背景には、主は近い、という信仰が働いています。主イエスが再び地上に戻って来られる時が近い、間もなくだ、という確信です。
ところが再臨は、教会の人々が考えるように早くは来ませんでした。しかしこれは、考え方ではないでしょうか。一人びとりにとって再臨は限りなく近づいているのです。日一日と近づいてきます。昨日よりは今日、今日よりは明日。私たちが死に向かって歩いている、というのはこうした意味なのでしょう。
つひに往く道とはかねて聞きしかど  きのふ けふとはおもはざりしを
                  在原業平

昨日まで人のことかと思いしが  俺が死ぬのかこれはたまらん
太田直次郎、南畝、蜀山人。江戸時代中期の徳川の御家人、十代にはすでに文化人として名が知られる。幕府の役人としては、40歳代後半から役付きとなり、大阪銅座勤めも経験しています。70歳過ぎで亡くなっています。たいへん才能豊かな人でした。

死が見えてくる、というのは自分の命の果てが見える事です。
死を眼前に置くことで、初代のキリスト者は、神の恵みによって生かされていること、死は新しい命の初めであることを実感しました。創造的な生き方が生まれてきました。それは本当に分かち合い、支えあうことを喜びとする事です。

片岡健吉の生き方がそれでした。そして療養所教会の皆様にとっても同じことであろうか、と存じます。25年?ほど、この教会と交わらせていただき、そのことを教えられてきました。わたしは、この頃良く神山教会のことを考えます。しばらく前から、終末期を迎えた療養所教会と言われるようになりました。聞きながら、読みながら、まだ先だ、と考えている自分にこの頃は気が付きます。人の死はほとんどの場合突然やって来る。長い病気のときでも、「まだまだ」と思っているときにやって来るのです。神山は、守られ、導かれ、私のような者にも楽しい教会、逞しい信仰の在り方を教えてくださいました。感謝をしています。今や終焉のときが近づきました。最後のときを見事に迎えようではありませんか。多くの恵みを分かち合う教会として、あの初代の教会を髣髴とさせる交わりを示しましょう。