降誕前第8主日、宗教改革記念日(1517年)、
讃美歌54、355、交読文9(詩29篇)
聖書日課 創世記9:1〜17、ローマ5:12〜21、ルカ11:33〜41、詩編1:1〜6、
大阪では、10月下旬になっても依然、半袖の夏支度でした。それが26日になると急に冷たい北風が吹いて、午後になっても気温は上がらず、一気に冬のモードとなり、翌27日は朝から寒い一日でした。12月の気温となった、と聞きました。といっても冬物は出していないので、どうにもならず、夏場も置いてあったジャンパーを引っ掛けて我慢の日でした。玄関の出入りのたびに、僅かに残った金木犀が香ります。百日紅も、最後の花が天辺に一塊あるだけです。ニセアカシアは黄色みをまし、落ちてきます。御堂筋の銀杏並木も色づき始めました。
東京も木枯らし一号とか。大阪もそうでしたが、10月に木枯らしと言うのは7・8年ぶりのようです。今年の猛暑を思い出すと、この冬の急接近振りが嘘のように思えます。
26日は午後、海遊館へ息子を連れて行きました。水族館です。朝日山動物園のように、生態展示とでも言うのでしょうか、独自の展示法にびっくりしていました。この頃は、これが全国的な標準になっているようです。
前週は、奄美大島が大雨の被害を受けました。集中豪雨によるものでした。
海沿いの集落が、山崩れのため押し流される、幹線道路が消える、電話、電気、水道、生活基盤が崩壊。家屋の破壊は各人の生活を根底から覆すものとなりました。
ひと月遅れの台風災害、これも猛暑と同系列の自然災害。
雲仙・普賢岳の噴火による土石流を思い出しました。まだ新しい家々が、土石流、火砕流に飲み込まれてしまった。熊本から島原へ行ったことがあり、その時、見て来ました。
1991・平成3年5月24日、初めて火砕流発生26日負傷者発生。6月3日、大火砕流発生使者43名、家屋焼失・倒壊179棟、6月8日大火砕流発生、家屋207棟焼失・倒壊。先端は国道57号に達する。6月30日、土石流発生、148棟が飲み込まれる。9月15日、最大規模の火砕流発生、218棟が焼失。その翌4年、5年には台風もあり、更に土石流が発生、被害は拡大。1995・平成7年に至ってようやく溶岩ドームの成長が止まり、「噴火活動はほぼ停止した」と発表される。95年5月25日のことである。
1996・平成8年6月3日「噴火活動の終息宣言」、災害対策本部を解散。
人はだれもが生活の基盤として家を持とうと致します。男にとっては城に匹敵するものです。それが壊滅してしまう。奄美の男性は言いました。「もう一度、一からやり直しだ」。
何歳なの、大丈夫なの、それでもやるっきゃないよな、頑張れ、としか言えない。
生活基盤の崩壊は、チリの鉱山で起きた落盤事故にも見られる。またその後、インドネシアの津波にもあったことです。行政が手を引いた後、個人の生活復興があります。
本日の聖書は、ノアの洪水直後の箇所となっています。洪水が歴史的事実であるか否かは、多くの人々によって論じられているようです。その証拠を求めて、黒海とその周辺の山々が考古学者たちの関心を集めています。私も興味があります。
然し、そこまでです。現実にノアの洪水があったか否か、それは問題になりません。
現代社会の只中に、ノアの時代と同じようなことが起きているからです。生活基盤の突然の崩壊、喪失が相次いで起きています。ノアの洪水は、昔の出来事ではなく、現代の、現実の出来事として読まれなければなりません。
ノアの物語は、6章に始まります。対照的な二つの文章があります。
5節、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」
9節、「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」。
矛盾に満ち、相容れないように見える二つの文章ですが、その間に小さな文があり、二つを結び付けるように見えます。8節です。
「しかし、ノアは主の好意を得た」。
その前7節は、創造主が、「人だけでなく、家畜の這うものも空の鳥も、わたしはこれらを造ったことを後悔する」と言い、「これを地上から拭い去ろう」と決断しておられます。
地上の全ての被造物は、主の後悔の対象でした。ノアといえども例外ではありません。
ノアも悪しき被造物でした。何ら功績はありません。それでも主の好意を得て、そのままで、救いの対象と認められ、次の世代の、はじめの父親とされたのです。
救われてひとりだけ生き延びることは、苦しいことです。一人だけ好意を得たその苦しみや、多くの悲しみと戦い、神との契約を生きる者とされたのがノアでした。
人類を一掃する大洪水は、ノアが600歳の時に起きます。40日40夜、雨が地上に降り続けます。以来、どのような雨も二月も降り続くことはありません。
洪水は40日間、地上を覆いました。箱舟の中の者たちを除いて、全ての生き物は、息を絶ちました。150日後、水の勢いは静まり、箱舟はアララト山の上に止まります。
地の表から水が引いたかどうか、慎重に探るノアです。鳩が、オリーブの若葉を咥えて帰ってきたので、ようやく納得し、船から下りることにします。
ノアが601歳の最初の月の1日に、地上の水が乾きます。第2の月の27日にすっかり乾きました。こうして神の仰せのままに、地上に降り立つノアとその家族、生き残った生きものたちでした。
彼らが、地上で最初にしたことは、祭壇を築き、捧げものをすること、礼拝をすることでした(8:20)。主は、その香りをかいで言われます。
8:21,22節と形を変えて9:1〜17です。これは、『保存の契約』と呼ばれます。主が、ノアとその末裔を祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われます。その言葉は、殆んど創造の祝福と同じです。地上の全てのものはお前たちの手に委ねられる。食糧とせよ。但し、命である血を含んだまま肉を食べてはならない。人の血を流すものからは、賠償を求める。・・・今、箱舟から出た全てのもの、またその末と契約を立てる。もはや洪水があなたがたを滅ぼすことはない。この契約の徴に、天に虹を置く。これを見て私は、あなたがたとの契約を心に留める。 というわけで、勝手にこれを『虹の契約』としました。
英語の聖書は、ここを次のように訳しています。
? set my bow in the clouds, 虹と訳される言葉はbowです。これは英語でもヘブライ語でも大体、「弓」という意味も持っています。弓の形をした虹が、雲の中に置かれた、ということです。私は、ここでいつも大相撲の弓取り式を思い出します。
一日の取り組みの最後に、戦いの武器である弓を勝利の賞品として頂いた力士が力強く、美しく舞う。その最後に、土俵に弓を置き、戦いが全て終わったことを内外に知らせる。国家。民族の違いはあるが、精神は全く同じです。
イスラエルの神は、被造物との戦いを終わりとするために、またそのことを知らせるために、天に虹を置かれました。神が平和の誓いを立てられました。そのことを思い出し、確認する、と言われます。私たちも、神が決して滅ぼさないといわれたことを、感謝をもって思い起こすべきです。
ノアの物語は、洪水と箱舟が大きな関心事となります。ある時、生徒から質問が出ました。「先生、これは洪水の物語ですか、それとも箱舟の物語ですか?」
14・5歳の少女です。なかなか鋭いですね。答えました。
「この物語は、絵本にもなっていて、大変面白いものです。有名な絵本作家も書いています。個性的な画家の絵もあります。その標題、タイトルを見ると両方ありますけれど,『箱舟』の方が多いことが分かりました。『洪水』は裁き、『箱舟』は救いを象徴します。幼児、少年少女が対象である、ことも影響しているようです。作家たちは、裁きによる滅びよりも救いの物語を書きたかったのでしょう」。
現代の作家の関心は分かりました。当時の聖書記者は何を伝えようとしたのでしょうか。
ノアの洪水は、その時の人間の罪への裁きでした。
むしろ、古代ユダヤ人たちにとって、自分たちの罪が裁かれている、と受け止められたのです。これはノアの洪水物語です。
それだけではありません。この裁かれる自分たちへも、神の憐れみは注がれている、と信じることが出来たのです。箱舟物語です。
私たちは、自然災害によって大きな被害を受け、壊滅した集落があることを知ると、彼らは何か罪を犯したのだろうか。その裁きであろうか、と疑います。心ひそかに疑問を投げかけます。なかなか公にはしません。恐らく心中奥深くで、彼らはその罪を裁かれた、私は違う、という思いがある為ではないでしょうか。そんなことは絶対にない、と断言できたら素晴らしいことです。
被害を受けた彼らと、遠く離れたところに居る私たちと、どこが違うのでしょうか。何も違うことはない、とあの阪神淡路大震災の時(1995年1月17日発生)に確認したはずです。
多くの者が息を引き取って行きました。まだまだこれからの人生だった人もいるでしょう。 私自身、生後ひと月にならない嬰児の葬儀をしたことがあります。何を語ることが出来るか,悩み、苦しみました。この世の悪に染まないよう、天に移された、としか言えませんでした。今、同じことを申し上げましょう。
そして生きている私たち、それは誇ることではありません。ことによると、感謝することも出来ないかもしれません。生きることは苦しみの多いことだからです。
そうであっても主は、生きよ、と言われ、生きる力と意味を与えてくださっています。
他の人のために、他の人を励まし、その力となるために生きなさい、と。
私たちも皆、主の好意を得て生きることが許されています。
これこそ私たちの感謝と讃美の根源です。