四旬節第二主日讃美歌545,24,241,541、交読文31(詩130篇)
聖書日課 イザヤ35:?〜10、?ヨハネ3:?〜10、マタイ12:22〜32、詩130:1〜8、
昨日、大阪は気温が上がりました。庭の西側、路面電車の軌道が走る側にラッパスイセンが植えられています。その黄色い花が膨らみ、今にも開きそうになりました。
寒波が戻ってくることもあるでしょう。でも啓蟄を過ぎました。穴から首を出した虫たちは、充分暖かい、と感じているでしょう。後1週間で15日、東京の頃は、この日に卒業式。謝恩会の帰り、冬支度のままだと、足元から暖かさが伝わってきたことを思い出します。今年は暖冬だったようで、桜の開花予報は1週間ほど繰り上がりになっています。
もう春です。世界中が春になると嬉しいのですが、なかなかそうは行きません。
世界的な不景気、金融恐慌、失業時代、大学院は勿論、大学、高校卒業者の就職も難しそうです。国内では、住まいを失い、仕事もなく、刑務所暮らしを願ってわざと逮捕されるような犯罪を惹き起こす人が増えているそうです。それは世界的な傾向で、どの国も刑務所が一杯で、困っているそうです。政治の失敗、失政は、国民の失敗です。
世界を見ると、自然災害の後、困窮している人々もいます。戦渦に苦しむ人たちもいます。
その陰で、富と権力を追求し、繁栄している者たちもいます。悪い奴ほどよく眠る、を地で行くような人たちです。世界全体が格差社会となり、力弱く、優しい人達は、ますます貧しくなり、苦しむようになりました。
本日の教会暦による主題は『悪と戦うキリスト』、聖書はマタイ福音書12:22〜32です。
小見出しは『ベルゼブル論争』となっています。マルコ、ルカ両福音書も同じように記しています。22ページです。
最近、驚かされたことがありました。2月26日、ニニ六事件のことです。あの大事件は、戦後日本では毎年、新聞ラヂオなどで取り上げられてきました。戦争への歩みを止められなかった苦い経過を振り返り、反省の材料としたものです。
ところが今年は事件に触れるものは目に付きませんでした。戦争への歩みを振り返る必要がなくなったのでしょうか。
1936年(昭和11)2月26日早暁、降り積もる雪をついて青年将校20数名に率いられた陸軍兵士約1500名が、桜田門から九段、赤坂、永田町一帯を占拠しました。首相、蔵相官邸、警視庁を襲撃、斉藤實内大臣(前総理)、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監は殺害されました。斉藤内相をかばった夫人も重傷。渡辺総監は娘和子を隠した直後で、娘は後年カソリックの女子修道院長、教育者となりました。
岡田啓介総理、元老牧野伸顕は脱出に成功。この時、吉田茂の娘で、牧野の孫に当たる麻生和子が来合わせたが共に脱出。侍従長鈴木貫太郎(元連合艦隊司令長官)は重傷を負いますが回復、終戦時に総理となります。
1932(昭和7)年3月1日、満州国建国宣言。
同年5月15日、海軍軍人によって、犬養首相暗殺。首謀者は禁固15年。
翌33年、国際連盟脱退、日独接近、
1937(昭和12)年7月7日盧溝橋事件、日中戦争始まる。太平洋戦争へ進む。
二二六事件を契機に日本は急速に右傾化し、軍国主義、ファッシズムの道を歩みます。
将校の指揮下出動した兵士たちは大陸の戦場へ送られ、生き残りは少数。指揮した将校たちは死刑となりました。五一五事件との対処の違いが問題となったはずです。
政府は、軍部大臣現役制を復活させ、事件の再発を防ぎます。それが逆に軍部の発言力を強めました。陸・海軍大臣を出さない、と脅しをかけることが可能となったのです。
一般の議員にとっては発言することは命がけになりました。そのため論議は低調になりました。中途半端で終わるようになります。
『国政の場で非常に粗雑な議論が繰り広げられているのを見て、』あの頃と似ていると感じています。現代日本史を発掘した方の言葉です。
大恐慌に対し、アメリカは総合開発計画を打ち出しますが、好転しませんでした。産業活動の前回は、戦争まで待つしかありませんでした。日本も、大東亜共栄圏を抗争しますが、実体は侵略と搾取による経済繁栄の求めでした。
長々と聖書と関係のないようなことをお話しました。私にとってベルゼブル論争との関わりなのです。国全体がおかしなことになっていると感じます。悪のただなかに落ちているのではないでしょうか。
悪とは何を指しているのでしょうか。さまざまな悪があります。
その資格のない者が、一国を指導しようとすることなどは最大の悪でしょう。
しかしそれを断罪することの出来るほどの者もいないのです。国民は自分にふさわしい政治家を選ぶものです。日本国民は底なしの淵に落ちています。
英雄は大衆が待望すれば、出てくるかもしれません。
しかし、英雄を待望するような時代には、ならないほうが良いのです。
法令に則って処理されているが、悪と断じられるものもあります。
倫理道徳的な悪、大きな悪、恥ずべき悪、破廉恥な悪、確信犯的な悪。
税の公平を語りながら、富める者と貧しい者から同じ税率で消費税を徴収する悪。
電車やバスのシルバーシートを占拠するような悪。同じ運賃を払っていると主張する。
マタイ24:12「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」。これは、終末はいつ来るか、どのようなことが起きるのか、という弟子の質問に答えたものです。神殿崩壊を予告したことによって惹き起こされました。
私たちは、愛が冷えると不法がはびこると考えてはいないでしょうか。主イエスは反対のことを語られました。人々は、不法とか悪事、罪を意識せずにそれらを働きます。小さな琴田、それくらい良いじゃないか、という位の気持ちです。その積み重ねが人と人の間から愛を奪い取って行くのです。
福音書は、イエスの生涯を独特な形で語ります。
主イエスの生涯には、善し悪し共に、もっといろいろな事件もあったことでしょう。
ヨハネ福音書の記者は、最後21:25にこのようなことを書いています。
「イエスのなさったことは、このほかにも、まだまだたくさんある。私は思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」
世界の広さについては見解の違いがあろうかと存じます。後半は誇張された例えと理解し、前半に関しては承認できるのです。
現代の私たちが読む以上にたくさんのことを教えられ、奇跡を行ない、人々に勇気と慰め、慰めと力をお与えになられました。これは公式の感想文。
大勢の人の中には、随分違った背景の人もいました。
そうした人達は、イエス様と出会って何を、どの様に感じたでしょうか。
悪霊に取り憑かれた人がイエスのもとにに連れて来られました。イエスがいやされたので、ものが見え、口がきけるようになりました。ファリサイの人々は、これを聞き、このいやしは、悪霊の頭ベルゼブルの力によるものだ、と言ってイエスを貶めようとします。
イエスはその考えを見抜いて、「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。
それでは国は成り立たない」と言われました。
ベルゼブルはカナンの神の名であるとも、「蝿の王」の意味であるとも言われます。
ファリサイの人たちにとっては、素晴らしい働きをするイエス、群衆の歓呼を受けているイエスこそベルゼブルだったのです。
何か一つのことが起こると、それを喜ぶ人がいます。そして必ず、それを喜ばない人が出てきます。不平不満を漏らす人もいます。
喜んでいる人、神に感謝と讃美を捧げる人がいる時、それらを共有できない人が必ずいるものです。喜んだ人、感動する人、自分にはイエス様に求めるものがないので残念に感じる人。
その時まで、多くの人たちの敬意を集めていた人々、彼らは自分たちの権威が危うくされたことに気付いたでしょう。そこで、何とかしてイエス様を傷付けようとします。
そのためには、自分たちと考えが違い、これまで反目しあっていた人々とも気脈を通じます。
敵の敵は味方、という考えで一致するのです。そして、あのイエスのおかげで自分たちがアホに見える、馬鹿に見えてしまうのだから、罠に掛け、誹謗・中傷して傷付けようとします。
うまく行かないと、何とかしてイエスを殺そうとします。自分には権威、権力があると思う人達は、一生懸命それを守ろうとします。
《悪と戦うキリスト》は愛をもって戦いました。機関銃や小銃ではありません。政治献金や建設工事の発注件数でもありません。
愛をもって戦い、私たちを神の子と呼んでくださったのです。正しい生活をする者たちです。
罪を犯す者たちは悪魔に属します。この悪魔の働きを滅ぼすためにイエスは現れました。
神の子とは言っても先在のみ子と同格ではありません。ヨハネは「似た者」と言います。
資格を与えられ、認められたもの、すなわち養子です。実子同様の権能をもちました。そして責任も。私たち養子もみ子イエスと共に、その戦いに参加します。
この戦いでは、先ずこの敵を見極めることが必要です。
悪の力は、自分が頭になろうとします。神の座に座り、その権威を真似ます。
自分が賞賛されることを求めます。共に賛美・礼拝しない者、させない力、嘲弄するもの、これこそ敵です。
戦いの方法があります。神の武具を身につけなさい。エフェソ6をご覧ください。
そして、敵を憎むのではなく、愛しながら戦います。共に讃美・礼拝する者になろうとして、戦うのです。
神と人に仕える者となり、神が賞賛されることを喜ぶのが神の民、神の子です。
共に讃美、感謝を捧げましょう。