讃美歌545、322,142、541、交読文6(詩23篇)
旧約聖書日課 エレミヤ50:4〜7、ヨハネ10:1〜6、詩編23:1〜6、
早いものです、この歳も八月末。夏も終わりと言いたいころになりました。
大阪は大変暑い夏でした。過去形で申し上げたのは、このところ気温が低い、と言っても35度までは上がらないという程度ですが、凌ぎやすくなっているためです。体が暑さに慣れたせいもあるでしょう。それでも急に気温が下がりました。このまま秋になってくれる、と錯覚しそうです。そんなはずはありません。期待しすぎると、暑さのぶり返しにしっぺ返しを受けそうです。近年の気象環境は、残暑が長いことです。そして、そのまま冬に成ってしまうことです。春、秋の期間が非常に短くなりました。
御殿場では如何でしょうか。夏の終わりごろ、ちょうど今頃、空は早くも秋の気配。
大気が澄んで、夜中に、富士山の稜線に、登山客のライトが連なって線を結ぶのが見える。
よく眺めたものでした。
その懐かしい御殿場で、ご一緒に礼拝を守る事が出来ることを感謝しています。
本日の日課に基づく主題は『上に立つ人々』となっておりましたが、私の勝手な思いで変更いたしました。聖書は同じでも、主題は玉出教会その他とは違っている、とご理解いただければ幸いです。
初めに、旧約の日課を読みましょう。エレミヤ50章です。4〜7節ですが、何かおかしな切り方だ、と感じます。実は、このところ1〜3節は詩の形(韻文)であり、4〜7節は散文の形です。全体はバビロンに対する滅亡の預言です。2節
「バビロンは陥落し、ベルは辱められた。マルドゥクは砕かれ、その像は辱められ、
偶像は砕かれた。」
イザヤ書46章を思い出される方が多いことでしょう。
「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ、
お前たちの担いでいたものは重荷となって 疲れた動物に負わされる。」
ベルは、バビロンの国家神であるマルドゥク神の別名、ベルはとりわけ創造神として礼拝され、混沌の水と戦って勝利し、神々の王と認められていました。
3節では、バビロンが攻め滅ぼされ、荒廃すると預言されます。かつてエルサレムが、バビロンによって荒廃させられたように。紀元前562年、ネブカドネザロ王が死にます。その後暫くして現実に、バビロンはペルシャによって滅ぼされます。
新バビロニア帝国はその最後期、王位を巡り混乱していました。最後の王ナボニドウス(紀元前556〜539)が即位するころには、東方にクロス王のペルシャが台頭し、全域の支配を狙っていました。紀元前539年には、戦うことなくバビロン市に入城しました。
此処には大変興味深い事があります。預言の内容は、争乱であって、実際には戦いなしで征服された事実と異なります。しばしば、出来事があった後の時代に予言が書かれた、というようなこともありますが、これはバビロンの無血開城を知らないそれ以前の時代の預言である、と考えるのが妥当でしょう。
そして捕囚のイスラエルもユダも共に、シオンへ帰ろうと道を尋ねます。
6節は、「わが民は迷える羊の群れ。羊飼いたちが彼らを迷わせ 山の中を行き巡らせた。」これは悪しき羊飼い、上に立つ人々です。これは王たちを指しますが、祭司たち、預言者たちにも関わりがあります。彼らも背信を容認し、奨励したのです。
これはエゼキエル書34章の預言と同じです。羊飼いが羊を養うのではなく、食い物にする姿です。本来、羊飼いは羊を青草と水のあるところに導き、養うものです。詩編23編がそのことを示します。主イエスご自身、ヨハネ福音書10章で教えられました。
「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」
「知る」と言う語は、ヘレニズム世界では認識、識別、認知というように理解されます。しかし、ヘブライズム世界では、もっと人格的に理解され、全人格的な交わりにまで至ります。むしろ「愛する」と訳されるでしょう。その故に、良い羊飼いは羊のために命を捨てるのです。無能、怠慢な羊飼いのために散らされ、苦境に置かれた羊たちのためであっても、主は命を捨てられます。それほどに羊を愛しておられます。
そして7節「彼らを見つける者は、彼らを喰らった。
敵は言った。『我々に罪はない。彼らが、まことの牧場である主に
先祖の希望であった主に罪を犯したからだ』と。」
この部分は「わが民」イスラエルの人々に関して語っているようです。バビロンの君たちは罪を犯した。同様にイスラエルの王たちも、その先祖の神に背いた。先祖の希望であった主に罪を犯した、と言われます。敵対する者たちも、神に用いられ、働きました。
羊飼いは責任があります。ペトロはそれを上に立つ人々、と呼びます。
?ペトロ2:11〜25です。この手紙は、大使徒ペトロが書いたものと、おおよそ認められています。パウロが書いた手紙の数と較べると信じがたいほど少ないものです。この時代、書くということは、今日とはだいぶ違って、むしろ珍しいことだったでしょう。ペトロも使徒にならなかったなら、その生涯を通じて、一度も手紙を書くこともなく終わったでしょう。エルサレム教会の指導者、復活の証人、主の生涯を直接、見聞きしている証人、しかも主イエスを否認した裏切り者、そして愛され委ねられた者、その立場が、彼に手紙を書く機会を与えました。
この手紙の第1章を読むと、そうしたペトロの自負、使命感が伺えます。
半世紀も前になるでしょうか。母教会でアドニラム・ジャドソンという人のことを聞き、記憶に残っています。アメリカの人、大変優れた才能の人物で、政治、行政、経営、学問、あらゆる面で期待されたようです。彼は、立身出世の道を捨て、宣教師となり、ビルマ、今日のミャンマーへ赴任しました。仏教国であり、キリスト教を宣教することは赦されず、信徒もいない。艱難辛苦、ようやく一人の改宗者を得た頃、母国へ帰ります。その宣教の冒険談を聞こうとして多くの教会が招きました。
かれは、「最も素晴らしい出来事」を話しました。キリスト・イエスの愛を語りました。教会の指導者、宣教会の幹部は彼に語りました。
「もっとビルマの苦労話をしなさい。もっと献金が集まりますよ」
「私にとって、もっとも素晴らしいことはキリストの出来事です。これを話さないでいられましょうか」とジャドソンは答えたそうです。
ペトロと全く同じ心を感じます。
このところでペトロが語ることはたくさんあります。その中心におかれているのは、13〜17節です。「主のために、人間の立てた制度に従いなさい」ということ。主のために従う。
これはパウロがローマ書13章で書いていることと共通します。
その直前12:17はペトロ2:11〜12と共通、と言えるでしょう。良い立派な生活をしなさい。それによって多くの人が神をあがめるようになります。
近代の社会思想の中では異論のあるところです。
制度は王侯貴族を想定していました。今日では、殆んどそういうことはなくなり、人間は生まれながらに平等である、と主張されます。現実は不平等と不自由な社会と言えるかもしれません。その中で多くの人が悲しみ、苦しみを経験しました。
そうした中でも多くの人は、キリストによって自由になったから、と言って、自由に仕えることを選ばれました。
今、大事なことは、「上に立つ人々」をどの様に理解するか、ということでしょう。
日課、或は聖書では、それを民の指導者、王侯貴族、政治家と考えるようです。
それは、当然のことです。
しかし、そのように解釈するだけであれば、このところは、またその預言は、彼らだけのものとなり、私たち下々のものには関係のないものと成ります。
もう少し広く、『良い生き方を求めるすべての人々』と考えることは出来ないでしょうか。
主を崇め、礼拝者であると辞任しているすべての者たちです。
世の中で上位にある人たち、いわゆるお偉いさんたちのことではない、良い生き方を求める立派な人たちのことではないでしょうか。
私たちは、政治家や官僚、経営者、投資家を批判します。彼こそ上に立つものであって、それが食い尽くすものになっている、と。
その通りです。しかし、それで私たちは免責なのでしょうか。責任を免れるのでしょうか。良いことを求めながらも私たちは自らをごまかし、その道を離れ、主に背いてはいないでしょうか。まさにそれこそが、エレミヤが預言する状況そのものです。
私たちは、何事も「主のために」を基準とするように求められます。誰も、自分のために、自らを誇るために、その地位、職権、立場を利用してはなりません。
私たちの主は、闇に捉えられた人々を解き放ち、生かすために命を捨てられました。そのことを喜び、今も生きて働きたもう主と共に歩むのがクリスチャンです。主の使命完遂を目指して進むのです。
2:20「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。
私は今、皆様にお勧めしようとは思いません。むしろご一緒に喜び、感謝したいと願っています。なぜなら、皆様が、苦しみ、痛み、悲しみを、主の御名のために耐えてこられたからです。自己満足や自分の功績としてではなく、他の多くの人たちがそのことによって神をあがめるようになることを、願ってこられたからです。