聖霊降臨節第八主日、讃美歌545,6,332,541、交読文23(詩96篇)
聖書日課ミカ7:14〜20、使徒24:10〜21、詩編96:7〜13、
本日の主題は《復活の希望》です。玉出教会でも同じ主題で柴田牧師が説教し、礼拝が守られています。所は変わっても、遠く離れていても一つの教会、一つ主を拝する教会であることが強く意識されます。
この主題は、通常なら、四月、イースターの頃に登場するものです。今頃何故この主題なのだろうか、という疑問を感じます。そのことを頭の片隅に置きながら、ご一緒に聖書を読みましょう。
はじめは、ヨハネ福音書5:19〜36です。
「御子の権威」という小見出しが付けられています。この小見出しは、新共同訳が出版されるに際し、読者の便宜を考えて付けられました。本来の聖書本文ではありません。礼拝のような公式の朗読では、これを読まないようにしています。せつかくあるのだから読みましょう、と考える向きもあるかもしれません。ここではもったいないと考えてはなりません。聖書は一点一画も加えたり、削ったりしてはならないのです。もったいないで、もったいない結果になります。
此処で語られていることは、子も命を与えること(21節)と父を信じる者は死から命へ移っている(24節)、ということではないでしょうか。両方の箇所に「命」という言葉があります。これは、共に『永遠の命』を意味しています。
そして28節です。驚いてはならない、と前置きしてから告げられます。
「時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ。」
驚いてはならない、と言われても驚いてしまうでしょう。もっとも、驚くこと間違いなしだからこそ、主は驚くなと言われたのでしょう。驚いて当たり前、と考えましょう。
何よりも大きな驚きは、善を行なった者も、悪を行なった者も復活すると語られていることではありませんか。差別も区別もありません。
善悪に関してはいささかの知識があります。主なる神の御心に従い歩むことは善であり、その反対に、神のみ旨に背き、他のものを主と拝することが悪である、ということです。そして私たちはいつの間にか、信仰深く生き、死んだ者は復活して永遠の命に与る、と考えてきたのではないでしょうか。悪を行なうものは不信仰者であり、陰府に下り、永遠の死に渡される、と聞いてきました。解り易いかも知れません。しかし主イエスの言葉ではありません。主の言葉は、当時のユダヤ教徒たちの耳を疑わせるほど、驚きに満ちていました。
ユダヤ教徒は律法を細部に至るまで学び、それを守ることが良いこと、正しいことと考えていました。そこにも派閥がありました。祭司など富裕な支配層に属するサドカイ派は、復活を認めていません。中流層の多いファリサイ派の人々は、律法を守ることに熱心で、その細目に至るまで学び、守ることを誇りました。そして復活を支持しました。
主イエスの言葉は、両派の人々にどの様に受け取られたでしょうか。
サドカイ派は、自分たちが認めていない考えをイエスが支持するので反感を強めたことが想像されます。殺意を燃やす大きな原因となるでしょう。
ファリサイ派の場合、少々複雑です。自分たちが支持する復活を語ってくれたので受け入れやすい、しかし善を行う人も悪を行なう人も皆同じように復活する、と語られたことには驚かされます。律法を学び、守り行なうことに命をかけてきた者たちです。守らない者たちと同列に置かれることに腹立たしさを覚えたに違いありません。
そもそも復活とは何でしょうか。
玉出教会の役員が入院されました。良くなりかけた所で、心臓が崩壊、北野から赤十字病院へ急送、心臓再建手術。取り掛かるまでに90分。心停止は5分なら何とか、それ以上心停止で血液が脳へ行かないと、脳細胞は次々に崩壊する、15分過ぎると難しい、と言われます。優れた技術とチームワークがありました。緊急手術は成功、生き返りました。
本当に、一旦死んだ状態になっていたのです。
心肺停止後蘇生・後遺症候群という診断書・病名だったと記憶します。
病院の医師、看護師たちが「この人は奇跡の人です」というほどです。
聖書が告げる復活とはこのことでしょうか。それは、医学・医術の進歩発達のおかげで可能になったことです。その陰には両次の世界大戦、朝鮮戦争、中東戦争、ヴェトナムその他の地域紛争が影響しているそうです。とりわけアメリカ軍で有力な考えですが、兵士を死なせるわけに行かない、と言います。負傷兵をどの様に命永らえさせるか、医学は進歩したそうです。殺すための戦場が活かす技術の進歩をもたらした、というのは皮肉なものです。医術の奇跡的な進歩によってもたらされた復活は、今世界中で起こっています。
確かに奇跡の復活があります。
此処で旧約の日課を拝見しましょう。
ミカ書7:14〜20は『あなたの杖をもって 御自分の民を牧してください あなたの嗣業である羊の群れを。彼らが豊かな牧場の森に ただひとり守られて住み 遠い昔のように、バシャンとギレアドで 草をはむことが出来るように。』で始まります。
バシャンはキンネレト(ガリラヤ湖)の東方、ヤムルク川の中・下流の肥沃で広大な平野。豊かな牧草地と家畜が多いことで知られていた。ギレアドはヨルダン川東岸のヤルムク川とヤボク川に挟まれた地域。牧草が豊富で牧畜が盛んであった。スタディバイブル。
イスラエルの神は、自ら羊飼いとなり、その民を羊のように導かれ、守り、養われます。
18節『あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が。・・・』
罪に深く染まり、神の怒りを受ける民が、神の慈しみの豊かさにより赦される。
この神は、罪を憎み、罪を海の底に投げ込まれる。
こうして人は生きることが出来るようになります。
古代イスラエル人は、死後の命に関心を持ってはいませんでした。それが旧約聖書の基本です。ミカ書もその時代に書かれたものです。
したがって、ミカ書から新約聖書の復活信仰を読むことは困難でしょう。それにも拘らずこのミカ7章が日課とされています。
罪人が、その罪を赦され、新しく生きることができるようになることこそ復活、甦り。
罪の淵から立ち上がり、出て行くことが復活です。
新約のもう一つの日課は使徒言行録24:10〜21。ここはパウロが総督フェリクスの前で弁明する場面です。
クラウディウス帝はアントニウス・フェリクスをユダヤの総督に任命した(AD52)。フェリクスは8年間統治し、荒れ野でメシアを待ち望む一派を鎮圧して、ユダヤ人を怒らせた。しかしローマ寄りの人々を殺したシカリ派と呼ばれた暗殺者集団を阻止することが出来なかった。フェリクスはキリスト教についてかなり詳しく知っており(24:22)、パウロと語ることを好んだが彼を投獄したままにしていた(25:14)。
ここにはパウロの演説が書きとめられています。
その中心にはこのような言葉が、見られます。15節
『更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。』そして21節
『彼らの中に立って、「死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判に掛けられているのだ」と叫んだだけなのです。』
パウロはキリスト・イエスの復活を事実として語っています。
この時代、ローマ帝国は政教分離政策により諸民族を統合していました。宗教に関する事柄は民族の自治に委ねられています。パウロが訴えられていることは宗教・信仰の問題であって、総督は介入しません。こうして裁判は延期されました。
これら聖書日課を読むとき、私たちはこの主日の主題である《復活の希望》が何を指し示すのか分ってくるのではないでしょうか。
主イエスが甦らされた事実によって、永遠の命が与えられる望が与えられました。
私たちにとっては、まだ見てはいない事実である故にこれは希望となり、信仰の事実となります。
パウロや、ある人々にとっては、すでに目にした事実です。目にした事実をなお望みとすることはありません。《復活の希望》は自分自身が地上の生を終えた後、獲得する新しい命を指していると言えましょう。
希望には、少々違う意味も含まれます。罪の淵から立ち上がり、生きることもまた望み見ることが出来るのです。ただしこれは、その罪の力が、私たちを捕らえて、深刻な状態にしていることを認識できないと、決して望み見ようとはしないものです。罪からの甦りはキリストの十字架によりすでに私たちに与えられています。
これを希望とし、確信として心に抱き、私たちの地上での命の営みが繰り広げられます。
それは罪赦された罪人の歩みです。
ハレルヤと歌いつつ歩まん、と詩人は歌います(?編136)。
わたしたちも讃美しましょう。