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2007年9月30日

《金持ちと貧者》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ16:19〜31

自民党の新しい政権がスタートしました。福田さんも老骨に鞭打ってのご出馬、と感じます。少しは大人の政治を見せてくれるだろうか、という期待はありますが、今の保守政権では無理でしょう。せめて戦争をする国へ進まないように舵取りをして欲しい、と願います。戦争をすることで利得を得る人がいるのです。死の商人だけではありません。産軍複合共同体と呼ばれるものは当然ですが、医療技術、通信映像技術なども喜びます。戦後の長い歴史の中を自民党は産業界寄りの姿勢を貫いてきました。今こそ市民よりの姿勢に転じ、平和国家を築き、世界に貢献すべきでしょう。

本日の聖書は、教団の聖書日課から採りました。玉出教会も同じ箇所、同じ主題で礼拝がもたれたはずです。わたしには、この説教主題は、何かしっくりこないものを感じさせられます。心のどこかが食い違っているのです。きっと双方の側からの差別ということではないかと思います。まず旧約聖書から読むことにしましょう。

アモス6:1〜7、「驕れる人々への審判」
前主日もこのアモス書が日課となっていました。そのときは8:4〜7で「商人たちの不正」という小見出しでした。
ご存知のように、アモスは南ユダ、テコアの牧者またイチジク桑の栽培者です。職業的預言者ではない、宗教家ですらありません。自然の大地と取り組み、その恵みを受け入れている人です。
アモスが活躍した時代、北王国イスラエルはヤラベアム王が統治し、大変繁栄していました。その国の聖所では、ヤハウェではなく、異教の偶像が礼拝されていました。支配者、権力者、商人たちは不正を重ねて富を蓄積し、贅沢な暮らしをしていました。民衆は搾取を受け、貧しさの中で苦しみました。この6章はそうした状況をよく描いています。
カルネはシリア北部の主要な都市です。ハマトも、同じシリア中部にあるハマト王国の首都で、オロンテス川流域の町です。イスラエルがどれほど繁栄していたかが分ります。
アモスが活動した最後の年、紀元前738年、この二つの町はアッシリア王ティグラト・ピレセル3世により征服されています。
イスラエルの豊かさは、「象牙の寝台」が象徴します。一般市民は寝台を用いることもなかった頃に、象牙製の寝台。エジプト展で見た覚えがあります。象牙に金箔を施したものです。存外小型の寝台ですが、富と権力を象徴しているのです。そこに横たわり、豪勢な宴会を楽しみました。子羊、子牛、酒、香油。賓客を招き、贅を凝らした宴会が夜毎に開かれる。その一方で、市民はその日の食物にも事欠いています。
今やアモスの告発は、商人だけではありません。王侯貴族、軍人、宮廷の役人たちに広がりました。今日なら官民格差がある、と言われるようなことでしょうか。

ミャンマーでは、仏教の僧侶をはじめとする大衆デモが行なわれました。
20年に及ぶ軍事独裁政権に対する民主化要求デモでした。日本人を含む犠牲者がでました。
国民の大部分が貧しい中で、軍事政権に近い者だけが豊かさと自由を謳歌しています。

昨日の朝刊に一つの記事がありました。新総理大臣の福田さんは、渋谷から恵比寿に向かった代官山にあるレストラン小川軒のフレンチがお好みで、しばしば外交関係者を招いてお食事。ヒレ肉のシャトーブリアンステーキ150グラムを毎度注文される、とありました。このお店のレーズンウイッチも評判で、戴いたことがあります。とてもレベルが高い店ですが、もっと高級な店が流行っています。値段の問題なのか、と考えてしまいます。
 この記事を書いた記者がどのような意図をお持ちか分りません。「握り飯を食いたい」と書いて死んで行った人がいました。その事を考えると、いかにも無神経な感じがします。
福田さんが贅沢だ、と告発する積りはなさそうです。
芸能人たちは、特別な食材を使用した料理を食べる遊びを繰り返しています。それでたくさんのギャラを得ています。貧富の差が広がっています。これでも欧米と較べると格差は小さいと言う人があります。

 アモスが預言活動したイスラエルの状況とよく似ているのではないでしょうか。アモスは7節で、「それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行き
   寝そべって酒宴を楽しむことはなくなる。」と語ります。
酒宴を楽しむことが出来た人たちも、やがて食する物もなく、飢えと渇きに苦しみながら、異国へと連行される身となります。
 これは、繁栄する日本の政治家、実業家、官僚と無関係ではありません。私利私欲、党利党略はあっても、国益、民意、民生を無視する、軽視する人々は災いです。

 新約聖書の日課は、その事を一点に絞るように記します。
ヤコブ2:1〜9、「人を分け隔てしてはならない」ということです。
「分け隔て」と言うのは、差別のことです。その人の皮膚の色や、生まれ、血筋、家柄、才能、見掛けの良し悪しなどでその人の値打ちを決めてしまうことです。
ヤコブ書の特徴の一つは、具体的に書かれていることです。そのために深みに欠けることも確かです。判り易いことは歓迎すべきです。ヤコブはいつでも信仰を前提に語ります。
福音とは何か、信じるとはどういうことか、という論議には入ろうと致しません。それはパウロ書簡に任せているのでしょう。違いがある故に、私たちは豊かさを感じます。
 神の選びは誰に向けられているのでしょうか。
ヤコブは、世の貧しい人たちこそ神に選ばれ、救いを与えられた、と語ります。貧しい人を軽んじるなら、神の選びを軽んじることになります。
 それに対し豊かな者たち、有力な者たちが何をしてきたか、何が出来るかを考えなさい、と書きます。裁判所へ引っ張ってゆく。酷い目にあわせる。そうです、金を貸すときには優しく、返せないと催促し、訴えるのです。

 何のための豊かさでしょうか。宗教や民族の枠を超えて考えるべきであり、考えられるべきことです。イスラムはコーランを正典とします。その教えの中からバクシーシという言葉が生まれました。貧しい人が豊かな人に物乞いをするときに言う言葉です。豊かな人はその富を分かつことで善行をすることが出来る、その機会を与えるバクシーシ。誇らしげに、堂堂と言うのだそうです。これは現実。しかし正典の教えは違うはずです。神の御旨は異なるはずです。
 オイルマネーで潤っているアラブの王侯貴族や商人たち、官僚たちが、その富のホンの一部を施して自己満足している事を求め、許しているとは考えられません。それでコーランや聖書の教えに従っている積りで良いのでしょうか。いや、神がそれで良しとされるのでしょうか。神の御旨は何処に行ったのでしょうか。
 神が大事にされ、救いを与えたもうた事実こそ、私たちが重んじることのはずです。
ところが、教会の中でも、主なる神の御旨よりも言い伝えや教義や誰かのご都合などが大事にされ、優先されたりするのです。神の御意志は霞んでしまうのです。

そのことは福音書日課でより明確に語られています。
 ルカ16:19〜31、「金持ちとラザロ」、これも大変有名なルカ福音書特有の譬話です。
或は「金持ちと貧乏人のラザロ」とも呼ばれます。
不思議なことに、金持ちには名前がありません。貧乏人には名前があります。決して忘れたわけではないでしょう。ないことに意味があります。
名前があるということは、人々からも神からも覚えられていることです。金持ちこそ名を持つ人のはずだ、と考えるでしょう。
名前がないことは、呼びかけられることもなく、憶えられることなく、交わりもなく、愛されることもないのです。無力な人、貧しい者こそ名無しの権米、名もなく貧しく美しく、というのは我々の考え。それに対し、神の考えは全く逆です。

19節から26節までは、分り易いでしょう。しかし、この逆転は、貧乏人の復讐の宗教と呼ばれる元にもなります。ニーチエのような超人がそれを言う。貧しい者がこれを言うのではなく、神がそのように扱われるのです。
27節から31節は、救いの教えを何処で、誰から聞くか、という問題です。答えは、モーセと預言者となります。それは「律法」と「預言者の書」を指します。
復活した主イエスも、モーセ五書と預言者の書から教えられました(24:26、27,44)。この主イエスに耳を傾けなさい、と答えられたことになるでしょう。
ファリサイ派を含む多くの人は、イエスの復活後も、イエスの言葉を悟らず、認めませんでした。自らを悔い改めることはありませんでした。拠り頼む自分がありました。

何を持っていても、それは自分の命の価には不足なのです。詩編49:7〜9をお読みください。
何がなくても、神の愛は、それだけで命の価に充分です。
富に依り頼むことなく、何もない事を哀しむことなく、神の愛の言葉に耳を傾けましょう。

『心の歌』アントニー・デ・メロ、女子パウロ会
 娘が10日ほど大阪に来ていました。彼女が結婚の時、皆様に差し上げた小冊子です。
その中の素敵な愛の言葉を見つけました。
「精一杯生きる日が  もう一日  与えられているとは、
なんと幸いなことだろう。」

「神は、  実り豊かな人生を  愛されるように、
何の実も  結ばなかった人生をも  お愛しになる。」

神の愛を共に喜びましょう。