集会のご案内
所在地・交通
教会のあゆみ
牧師紹介
教会カレンダー
教会暦・行事
説教ライブラリー
フォト
リンク集
神山教会 説教ライブラリ [一覧へ戻る]

2007年7月29日

《苦難の共同体》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書9:51〜62

今朝玉出教会では、柴田牧師が?ペトロ3:13〜22により《苦難の共同体》と題して説教しています。キリスト・イエスのみ体なるひとつの教会として礼拝できる徴であろうか、と存じます。感謝いたします。10日ほど前、玉出の信徒の方が、ご自分が繁殖させている鈴虫をお持ちくださいました。綺麗な声で鳴いています。心が洗われて、こちらまで綺麗になった、と言いたいのですが、余りにも穢れているため、綺麗になるには程遠いようです。ざんねん! 今日は参院議員選挙の投票日、政治を志す方々には、是非あの鈴虫の鳴き声を聞いていただき、綺麗な心になっていただきたいものです。ちなみに、私は木曜日午後、期日前投票を済ませてきました。

本日も、教会暦に従って、多くの教会と同じ聖書から学びましょう。初めは福音書です。
ルカ9:51〜62、決然とエルサレムを目指す主イエス、その弟子たち。使者を先行させ、先触れさせました。しかし、サマリアの人々は歓迎しなかった。それは、主がエルサレムを目指していたから、と説明される。サマリア滞在、活動なら歓迎したのでしょう。
人間のご都合主義が顔をのぞかせているように感じます。どれ程素晴らしい人であっても、自分たちの利益にならないなら歓迎することはないし、喜ぶことも出来ないのです。
最近は「不都合な真実」という言葉が流行しました。環境問題に関わるものでした。
アメリカ合衆国の前副大統領ゴアさんが書いた本の題名です。自分の国に不都合なことは見えない振りをしたり、ないことにしたりする。政府や大企業の環境問題に対する姿勢を批判したものです。ところがゴアさんの自宅の大変大きな光熱水費が明らかになって、これも不都合な真実か、と揶揄されました。別段隠していたのではありませんから、批判は当たらないのです。恐らく政府、大企業側が、不愉快に感じている事を示そうとしたメッセージでしょう。アメリカ政府は、地球温暖化の問題は認めながらも、自国民の生活スタイルの変化や、大企業の利益を減少させることには反対します。
これは別段新しいものではなく、内容的には「総論反対、各論反対」と共通のものです。
自分の利益を追求するだけだと、慎み深い人や、力弱い人、思いやり深い人たちなどは不利益を蒙らざるを得なくなります。

 このサマリア人たちの態度・姿勢は私たちに、主イエスとの関わり方を考えさせてくれます。自分の利益になる間は、イエスに従い、主よ、主よと叫び求める。満たされ、求めが少なくなると同時に距離をとり始める。既得の利益が損なわれるようになると離れるようになる。よく例に挙げられるのは、会堂建築です。必ず、教会から離れ、建築のない他の教会へ移るものが出る、と言われます。利得ではなく、考えの違い、かも知れません。

 主はこのサマリア人たちを批判したり、責めたりはしません。ただ彼らから離れて先へ進まれました。弟子たち、ヤコブとヨハネは、彼らを天からの火で焼き払おう 、と言いますが、彼らは叱られています。

 そうして道を進む一行の前に、お供する志願者が現れます。このあたりは、日本の昔話『桃太郎』を思い出させます。一人ひとりに主は応答されます。
先ず「従って行きます」と自発的に言う者に、応えられます。「宜しい、しかし人の子には、身を横たえる所もないのだよ。承知かな」と。(生活)
次の人には「従ってきなさい」と言われますが、その人は、「先ず父の葬りをさせてください」と応えます。これは何処の国や民族でも、子供のなすべきこと、もし怠るなら、人倫にもとるものとして、厳しく批判されます。主はそれ以上に厳しく言われます。「死人のことは死人に任せよ。あなたは神の国を伝えなさい」と。(義務・道徳)
三人目は「したがってゆきますが、その前に、家の者たちに別れを告げさせてください」。
これも人情のしからしむる所でしょうか。ところが主イエスの言葉は、ここでも厳しいものでした。「鋤に手をつけてから、後ろを振り返るものは神の国に相応しくない」。農業時代のことです。今ならハンドルを握ってから、あるいはエンジンをスタートさせてから、車を降りて何かしようとする者、と言われるでしょう。(情愛、使命)
 繰り返し言われたことは、主に従うことは、生半なことではありません、ということです。寝る所、休息すら取れませんよ。世の中の決まりごとであっても、それを破り、人々の批判を買う。人情さえも裏切るようなことになる。自分の良心さえ、裏切るのです。
覚悟は出来ていますか。(価値観)

 私が神学校を出てから39年になります。
そのとき両親に言われたことがあります。「反対だよ。お前のヤソ道楽は、これで卒業じゃないのか。まあ出家だと思うことにしよう。一人出家すれば七族潤う、と言うから。しかし、牧師になるというのは、坊主・役者と同じだよ。舞台があれば親の死に目にも会えないのだよ。そのぐらいの覚悟はしなさいよ。」
父は八年前、99年2月2日、母は今年3月27日、召されました。どちらも死に目に会えませんでした。
他の人の厳しい眼差しは止むを得ません。でも最小限度の愛情表現も、感謝の気持ちも表現出来なかったのは辛いものです。療養所の生活では、親に死に目に会うことは困難であろうと拝察します。此処にも苦難があります。
 
主はこの事を仰って居られたのだ、と今頃気付いています。
主に従うことは、自分を赦せないようなことに直面することなのだ。
生活の困難も、世間の厳しい批判も、友情や親子の愛情も二次的なことにすることがある、ということです。
同じように使徒ペトロも主に従う道の厳しさを語ります。新約の日課です。
?ペトロ3:13〜22、『正しいことのために苦しむ』と小見出しが付けられています。
14節の言葉が、よくその意味を表しています。
「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。・・・17節、神の御心によるのであれば、善を行って苦しむほうが、悪を行なって苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなた方を神のもとへ導くためです」。

 悪を行った故ではありません。義のために苦しむのです。
義とは何でしょうか。ツエダカー、ディカイオス、ライチャスネス。
神の意志が行なわれることである、と理解します。この世界に神の赦しを行う、伝える、それを受け入れる。これが聖書の「義」です。
御子イエスは、罪人の罪を贖うために、父からも棄てられるという苦しみを受けられました。この苦しみをともに担う所は何処でも苦難の共同体、キリストの教会です。

 苦難の共同体、苦しみを分かち合う所にこそまことの教会が存在します。
現代日本の教会は、何処に、何の上に立っているのだろうか。建てられているのだろうか。
「神山教会は、教会ではない。協力できない」。
「ああいう所は好きじゃあないんだよ。あまり行きたくないねえ」。
これらはそれぞれ、ある牧師の言葉です。いずれも連合長老会に属する方です。私の知る大阪の連合長老会の先生方は、長島や大島などを訪問しておられます。先ほどの言葉はその方の個人的な意見、考えでしかありません。

確かに神山教会は他の諸教会と異なっています。始まりからして違っているのですから、終末期を迎えて大きく違っていて当たり前です。この教会は、ハンセン病を前提として建設され、形成されて来ました。この一点だけでも違いがあります。絶望の中から生まれた教会です。最初から病、という苦しみを担わされてきました。その意味で神山教会は、他のどの教会よりも苦難の共同体です。そして福音宣教のために重荷を担われました。

 神山教会は、他のどの教会よりも苦難の共同体です。キリストの苦しみを共にするものです。これを排除しようと考えるような教会、信徒、教職は非福音的・非キリストと言わざるを得ないのは悲しいことです。誰が拒絶しようとも、否定しようとも、父・子・聖霊の神は、この教会を、その礼拝をお受け入れくださるのです。
私たちは胸を張って、この教会の終末に向かって共に歩みたいものです。
感謝しましょう。