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2006年4月30日

《まことの羊飼い》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ10:7〜18

玉出教会の礼拝説教は、この4月初めから、教団の聖書日課に従って行うことにしました。教会暦に沿って学ぶ形になります。
神山教会でも同じ形でやっていこう、と考えました。いまさら教会暦、聖書日課でもないかな、と思いますが、暫くご勘弁ください。教会には暦に基づくリズムがあります。信仰生活のリズムと言えるでしょう。味わい知ることが出来れば幸いです

「わたしは・・・である」というエゴー・エイミの定式で語られています。
特にヨハネでは、アメーン レゴーと結びついています。
「はっきり言っておく」、と訳されています。口語訳は「よくよく言っておく」。
文語訳は「まことにまことに汝らに告ぐ」と訳されました。
翻訳にはそれぞれの特長もあり、慣れもあります。単純に比べることは出来ません。
評価も難しいところです。主イエスの権威が顕れているのはどれでしょうか。
「威あって、猛からず」、これが主イエスのあり方であるし、表される権威の形かな、と考えます。まことにまことに汝らに告ぐ、魅力を感じます。

ヨハネ福音書を読むと、主は大切なことを語られる時に、この「アメーン」と「私は・・・である」を用いておられます。この10章もその一つです。
ご承知のとおり、アメーンは「私もそのように考えます。同意します」という意味です。
とすれば、主は語りだされる時に、先ず、これから話すことは真実ですよ、良く聞きなさい、といっておられるということになります。
「真理を語る、教えるから、よく聞きなさいよ」と言われた、と感じてください。
その気持ちでお読みいただきたいのです。

さて、最初に現れるのは、羊と羊飼いです。
日本の国には、羊はごく少数しか居ません。羊を飼い、様々な形で利用する、という習慣がないのです。埼玉綿羊協同組合という団体があります。これは戦後食糧増産の掛け声の下始められたようですが、飼育は物にならなかったそうです。30年前には、すでに輸入羊肉で、ジンギスカンを食べさせるお店になっていました。浅草に「ももんじや」という老舗があります。江戸時代から四ツ足を食べさせる店でした。その店の息子さんが兄と同級生、羊の肉と門外不出のタレを持ってきてくれて、庭でジンギスカンを食べました。おいしかった。北海道サッポロビールが、ジンギスカン鍋をはやらせました。
修学旅行の生徒も行きます。
最近になって、ようやくオーストラリア、ニュージーランドなどから羊肉を輸入して食用にするようになりました。
あの国では、大草原に羊の大きな群れがゆったりと広がり、育てられています。
現代の牧羊地では数千頭の単位。日本ではその十分の一にも満たない。
羊は、大変有用な家畜として古くから知られています。
先ず、毛は、羊毛となり、人の衣類、天幕その他に用いられます。軽くて柔らかく、撥水性も豊かです。暑い国で毛織物?不思議に思いますが、実はそうした国では、日中は暑熱を遮る役を果たし、急激に気温が下がる夜には保温性が求められます。
肉は食用、皮も、内臓も、角も、残りなく活用されています。
おとなしいので飼い易い。平和のイメージがあります。

この羊は、群れに成ると反時計回りで中へ中へ入る性格があり、集めやすく、導きやすいようです。牛と違って、後ろから追い立てるのではなく、先頭に立って進むと後から着いてくる性格も良く知られています。また、空腹時には草を根から食べてしまうので、空腹にしないように、いつも新しい草が十分にあるところへ導いてやる必要があるそうです。そうすると、先っぽだけ食べますので、草もじきに回復するのだそうです。
臆病な性格、強い武器を持っていない、強い飼い主を必要とする。

 イスラエルの人々にとって、羊は自分たちそのもののように感じられました。
有用性、従順性、保護される必要があること、
それは、神とその民であるイスラエルの関係そのままでした。

誰でもが知っている動物ですから、喩えとしてもよく利用されました。
詩篇23、エゼキエル34、
主ご自身、まことの羊飼いである、とお話になったとき、この二つの箇所を思い起こしておられたに違いありません。

飼うもののない羊のような状況(マタイ9:36、マルコ6:34)
  緑のまきば、流れる水の岸辺に導くものがいない。
  襲来する狼(野獣)、強盗から羊を守り、命を懸けて戦う者がいない。
羊を食い物にする羊飼いも居る(エゼキエル34章)
サムエル記上8章、王を求めるイスラエルに、王がどのようなことをするか教える。
君臨する王の権能は、守るべき民のうちから良いものを奪い取り、自分のものにすることだ。その民の若者を重用する。王のために働かせる。

イエスだけがまことの羊飼いです。
羊飼いは、今日、感じられるような、賎しいとか貧しいという身分ではありません。
古代社会では、しばしば王族または、やがて王の身分を身に帯びるようになる者が、それを隠すものでした。ギリシャ神話やペルシャ・メディアの王、聖書のダビデなどです。
尊い血筋、家柄と知恵・知識を隠し、すぐれた勇気と力量をもって頭角を現す。そして卑しめられ、侮られている者たちの名誉を挽回する。
羊飼いは太くて長い杖を手にしています。羊を打つ、叩く道具ではありません。
羊を奪おうとして襲ってくる野獣、強盗と戦うためのものです。
これを見ると羊は、安心感に満たされるでしょう。強い味方が居る、と

まことの羊飼いは、羊のために、羊を生かすために、命を捨てます。
誰かに強いられてするのではありません。自発の愛がそうさせるのです。
イエスだけが、私たち背ける罪人のためにご自身の命を捨ててくださいました。

イエスだけが、生ける水の源へ導くことが出来ます。
「この水を飲むものは誰でも、またかわくであろう。しかし、私が与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命にいたる水が、湧き上がるであろう」ヨハネ4:14
命の糧を与えることがおできになる。「私は命のパンである」ヨハネ6:48
「私の肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である」ヨハネ6:55
まことの羊飼いは、羊のために命を捨てる。自発の愛は命となります。

主イエスはその群れを哀れんでくださる
ご自身 直接養い育ててくださる。イスラエルは、昔近隣の国々と同じようになりたくて王を求めました。神が直接王となりたもうことを拒絶しました。神の支配よりも、人の支配、君臨を求めました。

今、神山教会は、飼うもののない群れに似ています。主は「この囲いに入っていないほかの羊もいる」と言われます。教義学を振りかざして、自分たちだけが教会である、というのは止めましょう。皆一人の羊飼いに導かれるのです。
嘆き、悲しみの中に置かれています。しかしそれは神の恵みのときです。
主なる神が直接養って下さろうとする時だからです。
羊の大牧者イエスのもとへの 立ち返り、
イエスに我らの道筋を委ね、共に歩もうではありませんか。