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2005年5月29日

《あなたと共にいる》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
エレミヤ書1:4〜10

エレミヤの召命記事
預言者の時代、アモスは紀元前746年のヤロブアム?世の死を知っています。アモツの子イザヤは、前701年のセンナケリブのエルサレム包囲の直後まで活動していたようです。
エレミヤは、これらとは違うもう一つの時代の預言者でした。前6世紀に活躍した第二イザヤ、エゼキエルと同じ時代です。前587年、南ユダ、エルサレムは滅亡します。

時代背景
エレミヤは前627年ごろから預言者として活動し始めます。
北の大国バビロニアが大軍をもって攻めてくる時代です。既に北王国は滅び去ってしまいました。バビロニアは、直接、エルサレムを窺がいます。
エルサレムの民は、北の強国に従おうとする者・無抵抗服従派、エジプトと同盟を結んで対抗しようとする者同盟抗戦派、篭城派などに分かれました。エレミヤは何よりも神の意向に聞くように求めます。そして、昔の事を言い出して、神様が助けてくださると言うものと戦いました。現在の苦境がなぜやって来たのか考えなさい。あなたがたの罪の故ではないのか。安易に考えてはいけない。服役の時が来たのだ。
彼の預言、警告は、民衆やその指導者たちの気に入るものではありませんでした。彼らはエレミヤとその預言を拒絶しました。人は自分に都合の良いものだけを信じるのです。聞きたい言葉、見たい出来事、触りたいものがあれば、それを受け入れるのです。

手軽にわが民の傷を癒やす、と言う預言者、平安、平安と言う預言者は喜ばれ、受け入れられ、聞かれます。現代でも同じです。
その後のエレミヤの活動。不本意かつ不如意。

これは、私の青年時代、母教会が軽井沢で修養会をしたとき、その二回目の主題聖句でした。前年の一回目はイザヤ書6章が主題でした。当時は、まだ青年が大勢教会にいた頃です。次の時代の牧師・伝道者を求めていたのでしょう。優秀な青年は、やはりいろいろ考えますので、献身することは難しかったのでしょう。誰もいないなら仕方ない、私でよければお用いください、と考えました。同時にいま一人が神学校へ行きました。青年仲間は、彼は良い牧師になるよ。でも持田は駄目だ。卒業も出来ないよ、続きやしないさ、と語り合ったそうです。確かに神様の誤算だったかもしれません。友人は大学教授になりました。私は田舎牧師です。神様の召命が如何に不思議なものであるか、証明しているようなものです。

尊敬する長老がいました。いまも健在です。
戦後、大学のクリスチャンの友人たちが伝道者になる、と言ったそうです。そのとき彼は、自分はそのような献身者を支える実業家になる、と言いました。
その後、会社を興して活躍しました。人それぞれの道があります。神様が備えておられるのです。それは人の計画とは全く違います。ここにも召命があります。

異なった召命もある。弁護士から裁判官へ、第七代最高裁判所長官藤林益三氏。
生い立ちから、キリスト者になる道。
1907(明治40)年8月、京都の山深い丹波の里で生まれます。この片田舎で、3歳のとき父親が亡くなります。母と姉3人と共に、叔父叔母の家に引き取られ、百章仕事を手伝いながら成長します。やがて知り合いの醤油屋さんに、母と共に住み込み奉公のようなことをした。掛取りなどもしたそうです。
中学校などへ進める状況ではなかったのですが、折りしも、隣村出身の樋口勇吉さんと言う方が、貿易関係で成功し、財をなし、大阪に住んでいた。この方が、勉学を志す者のために5万円と言う大金を用意された。大正9年、その第一回奨学生に藤林さんが選ばれた。
京都府船井郡園部町小学校から府立第三中学校(現山城高校)へ、更に第三高等学校を経て昭和6年東京帝大法学部を卒業。7年弁護士となり、45年7月最高裁判事となり、51年5月、第七代長官に就任。52年8月定年退官。

その間、三高入試の後、友人に誘われてセシル・B・デミル監督の映画『十回』を観た。
不思議な物語なので、興味を持ち聖書というものを買って読んだ。新約だったので書かれていない。次いで、旧約を購入、読んだらそこに書いてあった。英訳も読むようになった。
東京帝大に入ってから、友人が一緒に行かないか、と誘われて行ったのが「丸の内集会」。
これは、内村鑑三の弟子、塚本虎二先生が丸の内工業倶楽部で開いていた集会。ここに神の導きを見ておられました。塚本先生亡き後は、藤林さんたちが集団指導で、続けていた。

卒業後は民事の弁護士として働いた。例外は戦争末期の「浅見仙作翁事件」、これだけは刑事でした。やはり内村先生の弟子の一人なので引き受け、弁護団に加わった。これは戦災のためか、大審院判例集に見当たらないそうです。他の記録が残っているのに、この、三宅正太郎裁判官の判決文だけ残っていないというのは、軍部にとって不都合だったからでしょう。そこには、このことが記されていた、と草稿から知られ、全集に載せられています。「キリスト再臨の信仰と天皇の統治とは全く別の次元の問題であります」。

長官として裁判長を務めた大法廷判決。ここは15人全部で構成、憲法問題か判例が覆されるような場合の見開かれる。津市地鎮祭訴訟の判決文。10対5で合憲判決となった。
その中で少数の反対意見を記し、更に追加意見を書いている。
多くの良い働きがあるが、このために召されていたのではないか。

神山教会で礼拝の交わりを始めて24年かな?
朝日新聞の取材を受ける時、いろいろなことを振り返った。すると、始めの時のことが甦ってきた。礼拝堂の畳にピタッと座って、役員さんたちがお迎えくださったこと。
「13年間この時が来るのを祈ってきました」。それは、大日向先生を迎えて、この教会が始まって以来のことだったのですね。13年間、一つのことを祈り続けたことに圧倒されました。その祈りの対象が、実はこの私になっていた。祈られてきたのか、という驚き。
そしてそのための、祈りが成就する時の器とされていたという驚きがありました。
胸をえぐられるような思い、驚きはやがて、主に用いていただくのだ、という決意になりました。少なくとも祈られた13年間は、その御用があるだろう。用いていただこう。
その後転任があり、終末を見届けて欲しい、というお話があり、第五主日の訪問が続いた。
私の召命、使命だと感じている。それは説教をすることには関わりなく、説教をしなくても一緒に礼拝を守るという形で続けさせていただきたい。

召命はさまざまな形で、すべての人に与えられている。神の一方的な恵みである。
それを見出すことが難しい。ある場合には、自分の考え、ご都合に合わないからそうではない、と言って拒絶する。それを選べるのに選ばない。もっと良い召命があるはずだ、と考えたりする。私たちは、今与えられている状況の中で、自身の使命を見つけ出すことしか出来ないのです。
先の見えないことは誰にとっても不安です。しかし、私があなたと共にいる、と言う言葉に励まされて、生きようではありませんか。共に居られたら困ってしまうようなお方ではありません。私たちを守り、力付け、慰め、背負ってくださる方です。信頼することが出来ます。私もここまで歩んでくることが出来たのですから。


塚本虎二の言葉
「選択に困るときは、自分にとって都合の悪い方を選べば、たいていの場合、神様の御心に適うものだ」。
 学生と論争をして、どちらも納得せず、折り合いも付かないときの言葉。「君の主張はわかった。どちらが正しいか、10年経ったら判るだろう。10年経ったらまた来たまえ」。
藤林益三氏は、こうした言葉によって育てられました。
神の言葉を基準として判断し、謙遜に歩まれた人です。