神山教会歳晩礼拝
今日は暦年の最終日曜日。早いものです。小学生の頃などは、貧しい生活の中でもお正月の来るのが待ち遠しいほどに、中々やって来てくれなかったものです。時間の過ぎるのはゆっくりでした。心のどこかで「少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」と言われても、軽んじていた向きがあります。今になって理解、納得しています。後悔先に立たず、を成就した様な人生でした。まだ終わった訳ではありませんが、繰り返さないようにしなければと感じています。
教会暦では降誕後第1主日です。
先週の聖研・祈祷会が終わって、お茶を飲んでいる時面白い、しかも大切な質問がありました。「クリスマスの飾り・デコレーションは何時まで残すものですか?」。
丁度その日は25日でした。24日夜のキャンドル・サービスが終わって、何となくクリスマスそのものが終わった積りになっていたのではないでしょうか。答え。
「日本では、歳末年始を強く意識するので、終わったもの、古いものを速く片付けようと言う習慣です。然し、教会のクリスマスは通常、1月6日の顕現節まで続きます。欧米ではそのようにするし、御殿場教会の時は翌年までツリーを建てておいたものです。それから枝を払い燃やして、幹だけ端に置いておいたように記憶しています。」
本当は一年中クリスマスなのだと言う事ではないか、と思います。せめて25日一杯は飾り付けを残したいものです。これは瑣末な問題かも知れません。一番大切なことは、聖書に記された福音とは何かということ、クリスマスの意味は何かということですから。今日は、み子の降誕の順序を整理してみたいものです。と言う事は、マタイとルカ両福音書の記述を整理する事です。
マタイは、イマヌエルのキリスト・イエスを描き、東方の学者たちの礼拝とベツレヘムの嬰児虐殺を告げ知らせ、ヘロデ王の姿を見せています。更に旧約聖書の預言が実現した事を示します。エジプト下りもその関わりです。
ルカは、洗礼者ヨハネとの関係を始めに置き、皇帝アウグストゥスの時代である事を示します。そして、人口調査のためベツレヘムへ来た事、羊飼いたちが最初の礼拝者であるとしています。その後は、律法と神殿との関係の中で語られます。
このように較べてみると、二つの福音書が意外な形で補い合っている事に気付きます。例えば、マタイが触れていない洗礼者ヨハネのこと、何故ベツレヘムへ行ったのか、ルカは明らかにします。ギリシャ人ルカは、自分同様外国人に注目するかと思うと意外やユダヤ人の生活に関心を示しています。マタイは、外国人の学者やエジプト逃避など外国との関わりを描き出してしまいます。
二つの福音書は共通して、ベツレヘムに産まれた幼子が、最初から諸国・諸民族と関わりを持っていること、関わる事を求める事で実に世界の王、全世界の人々の救い主である事を語っているのです。
大きな問題があります。答えが出るとたいした事ではないと判るのですが、私などはいいかげんな読み方をしていた事に気付かされます。ある方が質問されました。降誕物語は正確にはどのような順序なのか?と。
ここではベツレヘムの降誕から考える事にしましょう。
先ず第一は、羊飼いたちの礼拝でしょう。その頃既に東方の学者たちは、星に導かれて旅をしています。然し到着はもっと遅かったと考えます。何故なら、その時までに済まされるべき律法の要求があるのです。
それは、八日目の割礼です。近くのシナゴーグに属するラヴィ・律法学者がやって来てお世話をしたはずです。創世記17:10に基づきます。これがあって始めてイスラエル、神の契約の民の一員と認められます。そして名が付けられます。出エジプト記でお馴染み、イスラエルの英雄、モーセの後継者の名が付けられます。その名は、ヨシュア、イェシュア、「神救いたもう、神は救いなり」と言う意味です。そのギリシャ語化された形がイエスと成ります。此処にも律法を越え、民族の枠を越えた救い主のお生まれが示されているのです。
更に、四十日後マリアが神殿に捧げ物を持って行き清められる必要がありました。これは男児の場合、女児なら80日後になります。ベツレヘムからエルサレムまで約9km,もう少し近いと記憶していますが。ヘロデの神殿へ上り祭司の清めを受けます。若い二人は貧しい為、律法の求める最小のものを捧げています。一才の雄ヒツジを捧げたかったかも知れません。然し「二羽の山鳩、または家鳩」(レビ12章)を捧げています。これは同時に全ての初児を主に捧げる時でもあったようです。
出エジプト記13:2に「全ての初児を主に捧げよ」とあります。幼子イエスを正式に神の前に差し出し、それから銀5シェケル(約4000円)を払って買い戻します。
これに続くのがシメオン老人の祝福と年老いた女預言者アンナの預言です。彼女は神殿から離れずにいたとされ、104歳のアシェル族の者とされます。絶滅したとされる10部族は細々と生きていたのでしょうか。
此処からベツレヘムに戻り、東方の学者たちの礼拝を受けます。当時最高の科学者と認められている人々です。人々の注目を集めた事でしょう。隠してもヘロデ王の元へは直ぐに報告が届いたに違いありません。その一方聖家族には御告げがあります。彼らは、間一髪逃れる事が出来ました。学者たちは、ユダの荒野を東へ急ぎ、エリコのあたりでヨルダンを越えて北への道を辿った事でしょう。
マリアは、ヨセフに守られ、南のヘブロンから西へ、海岸沿いの町ガザへ出て、隊商たちの通常のルートに乗り南のエジプトを目指したはずです。諸説がありますが、これは比較的平坦で産後のマリアへの負担も軽く、大勢の人の中に隠れる事になります。かつてモーセに率いられた出エジプトのコースを取ったという節は面白いけれど、砂漠の旅は負担が重過ぎます。
昭和20年3月3日、妹の邦子が生まれました。10日東京大空襲です。母は、抱いたり背負ったりしながら、祖母と共に5人の子ども全てを怪我一つさせずに切り抜けました。そのことを思うと、ヨセフが負担の思い道を選ぶとは思えません。
エジプトには大勢のユダヤ人が居住していました。その中の一人となり、守られて3ヶ月。ヘロデ王が死にます。その息子たちは野心満々、4人で争いました。皇帝は、ヘロデの息子たちに対し誠実さを示したと考えます。競い争う者に対しては領土の没収も出来るのに、4人に分割し夫々を領主としました。ユダヤを得たアルケラオスは、その統治の最初を血まみれにしました。新領主に反抗する者達3000人を、大神殿に閉じ込め虐殺します。
ヨセフは父祖の地ベツレヘムに帰る積りでいたようですが、このことを聞いて、マリアの親戚も多いガリラヤのナザレへ行くことを決めます。こうして「ナザレ人イエス」が生まれました。ホセア11:1「エジプトから彼を呼び出し、我が子とした」と言う預言の成就となります。
ヨセフは、伝来の仕事をもっています。大工です。紀元70年のユダヤ戦争の時、ローマ軍団はエルサレムを攻撃する道具を作るために、たくさんの樹木を根こそぎ切り倒しました。それ以前のガリラヤには豊かな森林があったのです。イエスもこの大工仕事を覚え、やがて大工として知られるようになります。
今でもナザレには、「マリアの井戸」と呼ばれるものがあるそうです。
たくさんの遺跡が、まがい物であったり、伝説であったりする中でこれだけは真正の物と認められています。この地方では、自然に水が湧き上がっているのは此処一箇所だけなのです。必然的に、マリアも此処で水を汲んだことは間違いない。マリアの井戸だ、というわけです。
ナザレで育ったイエスの少年時代は良く判りません。伝説はたくさんあります。聖書が告げていることは、12歳の時、過ぎ越しの祭りでエルサレムへ上った事です。迷子と言うか行方が判らなくなり、捜したら神殿の中庭で学者たちと論じ合い、感心させていたと言う事です。天才少年現る、と言った所です。競って弟子にし様としそうなものですがその気配はありません。余程、考えに隔たりがあったか、特異なもの、学者たちの手に合わないほどだったものと見えます。
マリアは、これら全ての事を心にとめ、考え巡らしていたと記されます。(ルカ2:19,2:51)。賢い母親の姿です。考え深い人だけが、考える人間を育てる事が出来ます。
ナザレは、歴史にも登場しない小さな村と言って宜しいでしょう。然し此処から出発して、僅か3年半だけ活動したイエスが、現代世界で多くの信奉者を集めるのは何故でしょうか。17億5千人とも言われます。
一つは、自らの教えを実践した人だからです。律法学者たちとの決定的な違いです。人には重荷を負わせながら自分たちは抜け道を作って楽をするような事はなさいませんでした。むしろ進んで重荷を共になさいました。苦しみ悩む人に涙されました。現代のいわゆる宗教家との違いも此処にあるのです。主よ、主よ、と言いながら違うものを主としている者との違いでしょう。
一つは、慰めを与えるものだからです。それは旧約以来の、愛と自由、平等に基づく希望を与えるものです。
ナザレのイエスは、誤解も受けました。挫折した革命家だからその意思を受け継ぎ、教会を革命の拠点とするのだ。キリスト教会を解体するのだと言う事は、30年前にも言われました。それは福音ではありません。全ての罪人の、無条件・無代価の赦しこそ永遠の慰めなのです。