6月22日、23日(金・土)、キ保連九州部会の保育者研修会を問安しました。
北九州市ですが,飛行機は福岡空港でした。熊本の先生方が送迎をしてくださいました。ありがたいことです。その上珍しい経験もさせていただきました。
一つは,乗り遅れと次便への航空券交換。
もう一つは、合志の園長先生がお若い頃、新聞配達のため菊池恵楓園ヘ出入りしておられたこと。同じ頃私は御殿場で、あの辺には足を向けてはいけないと言われていた頃です。この保育園の若い先生も高校生の頃、地元ですから何回も行きました、と言われる。きっとこの保育園では良い保育がなされているだろうなあ、心やさしい子供が育てられているだろうなあ と感じました。得がたい経験でした。八幡へ行って良かったなあ と思います。
このところ一体自分は忙しいのか暇なのか、どちらだろうか、考えてしまいます。
したいことが出来るわけではない。しなければならないことに追いかけられている。
こういう状態はストレスの蓄積、そしてノイローゼ寸前なのかな。
それともこんな詰まらんことを考えるほどに暇なのだ、と思うべきなのか。
私達にはもっと考えるべき大切なことがあるのではないか。
私達が大事にし、求めているものはなんだろうか。
毎年大学生に書いてもらう。自分が大事だと考えるもの。次に7・8人のグループで協議してグループとしては何を大事にするか、決めて発表。
事前に八つの項目がプリントされています。
「価値の序列」 愛、健康・安全、正義、楽しみ、富、奉仕、名声、自己実現。
(変形)経済、努力、仕事、人気、美しさ、健康、愛情、理想【伴侶の理想】
ほかにも家庭、権力、責任、自由、真理などを入れても面白い。
正しい解答を求めるものではありません。話し合うことの大切さ。
みんなの考えが違っていることを知る。自分自身を理解する。
違いを理解し、理解させることの難しさ。他の人を理解する。
話し合いの中で自分の考えを変えることは難しい。
「個人決定では、自己実現が30%、富、楽しみ、奉仕などが10%ぐらいの割合で、1位となるようである。ところが、グループ決定では、不思議に、健康と愛が1・2位を占め、富と名声が7・8位となり、正義と奉仕が中途半端な形で、中位に収まるという例がほとんどである」。 「新入学生、母親学級、新入社員、集団見合いのグループなどで行われる」。
ところでこのゲームをさせてみて気が付くことがあります。当たり前のことでしょうが、考え話し合う人々は、自分が幸福になるために と考えているのです。他の人の幸福のための基準とか条件を考えようとはしないのです。
これは人間世界では極通常のことであり、誰からも非難されることではないでしょう。誰もが持っている望みなのですし、この社会を形作る根本原理と言えるほどのものです。誰もが幸福になりたいと痛いほどに考えている。
私の好きな音楽の中にアルゼンチンタンゴがあります。高校生の頃から始まりました。兄の家庭教師も同好者でして、上野広小路にあったライブ喫茶へ連れて行ってもらったりもしました。あまり品の良い音楽とは考えられてはいないようです。
バンドネオンと言う楽器が中心です。このごろは新しく作る人がいなくなってしまったそうです。歯切れの良いリズムと哀愁に富んだ旋律に魅了されたのでしょう。随分沢山のLPも買い込みました。今はありません。処分しました。映画のプロと一緒に。
あの頃確かに幸福でした。歌のタンゴを始めたカルロス・ガルデル。
「思いのかなう日」、エルディアケメケラス 1935年、同名の映画出演。
「我が懐かしのヴェノスアイレス」 1934年、望郷の歌。
1935年6月24日、アメリカでの仕事を終え、久しぶりに懐かしいヴェノスアイレスを目指し機上の人となった。然し到着することはなかった。コロンビアのメデシン空港での惨事の犠牲となったのだ。帰るところがあるのに、帰らぬ人となった。
今でも好きなんです。FM放送のテープを聞いています。
本を読みながらシューベルト、モーツアルトなどを聞いて幸福を感じる。
他愛もない話だなあと思います。でも彼らも若くして死んでいます。帰るべきところへ帰れなかったと言う哀しみを感じます。
帰りたい所がありながら、帰ることが出来なかった哀しさ。
詩編はヘブライ人の心の祈りといわれます。その中には素敵な言葉が沢山あります。
幸福について何を語っているかと言うと此れが凄い。今日は49篇と52篇を併せて読みます。詩人の目は、時代の出来事を見ながら、その由来と結末を同時に見ています。
1 裕福で何者も恐れない人がいる。自分の力を頼りとするもの達だ。
2 名誉と広い土地を持っている人もいる。
3 立派な墓を用意している人もいる。
4 実はこれらの人は、他の人を自分の利益のために利用したのだ。
5 彼らは、悪事を行うものであって、人に破滅をもたらしている。
6 彼らは幸福を感じているだろうが、神の家に遠ざかっている。
神の家にとどまることこそ何よりも幸いである と語る。
何はなくとも、どれほど虐げを受けようとも、苦難の中で人々から嘲られ、侮られ、笑われようとも神の家の一員でいつづけると言うこと。
イスラエルは宗教共同体。ヤーウェを家長とする一家なのだ。その家の者が悪を働くとも自分はとどまる、家族でありつづける。旅に出た時には、神の家こそ帰るべき所。
福音とは、帰るべき所が備えられること。
ルカ17:11〜19の解釈を新しくさせられました。間違っていたらお教えください。
途中で癒されたことを知った病者のうち9人は帰ってこなかったことを非難されているのでしょうか。帰ってきた一人のサマリヤ人は,歓迎してくれる家庭友人がいなかった。イエスはそれを憐れみ、共に神を讃美し,証の旅へと送り出された。彼は誰も迎えるものがいない時に,イエスのもとへは帰ることが出来た。此れが福音です。
私の恩師は詩編84:10を愛頌されました。
「あなたの大庭にいる一日は、
よそにいる千日にもまさるのです。
わたしは悪の天幕にいるよりは、
むしろ、我が神の家の門守となることを願います。」
そして主イエスは、ヨハネ14章で語られました。
わたしの父の家には、すまいがたくさんある。・・・・あなた方のために、場所を用意しに良くのだから。」2節。
誰も受け入れない人が、イエスによって受け入れられるのです。キリストの教会そして幼稚園・保育園も同じ慰めの家なのです。