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2006年1月22日

《苦しまなくて良い》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記21:9〜34

讃美歌58、181,301、  交読文2(詩2篇)

 大寒も過ぎました。これからは次第に暖かくなるでしょう。

12月は異常な寒さでした。大雪のための死者100人以上になりました。今、モスクワを初めロシアに寒波が襲来している、との事です。ここでも死者100人以上とか。

ロシア政府は暖房のために、備蓄した石油を緊急放出したようです。寒さがそのまま命に関わる国、所に住むというのは大変な事です。寒さからこの身を守ってくれる政府を持つことは大事なことになります。自分だけではとても出来ない事です。薪を切り出すことは許されません。水道管や排水管、ガス管等の保守も必要です。社会全体が、守り守られる体制を生み出し、造らねばなりません。

 さて、今朝は、アブラハムの下を追い出されたハガルとイシュマエルの物語になります。ここでも保護を奪われ、命の危機にさらされる弱い者の姿が現れます。

アブラハムの妻サラにとって、エジプト女ハガルの産んだイシュマエルは、もはやこの家の跡継ぎではなく、邪魔者に過ぎません。始まりは、ハガルによって跡継ぎを得よう、とするものでした。しかし、神によって保証されたイサクが生まれたからには、イシュマエルは跡継ぎではありえません。これまでもサラとハガルの間には眼に見えたり、見えなかったりの争いがありました。一つの力、能力があるか否かは大きな争いを生むのです。

少なくとも13年以上、隠微な形で続いたようです。この能力の点で、サラは何も遠慮する必要はなくなりました。公然と攻撃をかけます。

 イシュマエルが対等な立場で、イサクをからかっているのを見て怒ります。「イシュマエルは共同の相続人ではない、後継者ではありません。追い出してください」。

「あの女の息子」と言っています。ここにハガルとの長い対立の跡が見えます。恐らくハガルは、子を生むことの出来ないサラをしばしば侮辱するようなことがあったのでしょう。

16章では、ハガルが身ごもった段階で、サラを侮辱していることが記されています。その後も改められることはなかったのでしょう。ひとつの家に二人の主婦がいることは困難です。妻妾同居は、王朝時代や戦国武将が良く知られています。いずれも跡継ぎを儲けるためであり、子どもは信頼できる味方の武将になることが期待されたのです。しかし現実は、肉親が相打つ家督の争いを惹き起こし、裏切りなども良くあったようです。

 ひとつの家庭における主導権争いと見ることも出来ます。少し話が逸れますが、岩槻幼稚園のことをお話しましょう。玉出へも何回かお出でくださった斉藤長老が学校長を退職なさったとき、私は幼稚園の仕事を引き受けていただこうと考え、ご相談しました。即座におっしゃいました。「一つの家に頭が二人、これは良くありません」。引き下がりました。

正しい判断だ、と納得したのです。

 神のみ旨を誤って受け取ると、そこから次々と問題が起きてきます。ボタンの掛け違いと似ています。その中で当事者が苦しみます。ここでは、サラは怒りをぶつけるのですが、受け止めるアブラハムは、深刻な悩み、苦しみを経験します。夫婦は一体、と言います。相応しい助け手と言います。しかしその現実はこのようなことが多いのです。自分は正しいとして相手を責め、相手に求めます。互いに息苦しくなり、話すことさえ避けるようになります。男女一方のことではありません。双方の事です。

アブラハムは、サラとハガルの間にあって苦しみます。どちらにも、三方に責任があります。サラは、かつてハガルをアブラハムに勧めた責任があるが、それは一顧だにされません。それでもサラは第一夫人であり、権威を要求します。アブラハムは苦慮しています。

ここで苦しむアブラハムは、大変実直な人です。言い返すことも出来るはずですが、そうはしません。これは辛いでしょう。しかし、家庭を治めることが出来ていないのです。アブラハムがそうであるならば、私たちはもっとそうなのです。

 この時、神の言葉が与えられる。それは実に公正なものです。

アブラハムには、サラのことで苦しむ必要はないことを教え、イサクの絶対的な地位を保証します。

ハガルとイシュマエルには、彼もアブラハムの息子であることを明らかにして、大いなる国民と成る望みを抱かせるものとなります。イシュマエルは、パランの荒野に住んで、弓を射る人になった、と記されます。狩人と言ってよいかと存じます。アブラハム、イサクの生き方とは違います。農業と牧畜を仕事にしました。定住の生活です。荒野で狩をする生活は、獲物を追って移動を余儀なくされます。定住生活者からバカにされ、低く見られるものです。大陸の漢民族と北の蒙古族との関係と似ています。

イシュマエルの子孫は、イスラエルの南、ネゲブ沙漠一帯に根を張り、イスラエルにしばしば困難をもたらす砂漠の民、その上後のヘロデ大王の出身民族となるイドマヤ人です。

ユダヤ人の王国でありながら、何故ユダヤ人を自称するヘロデが民衆からも嫌われるのか。新約の重要な背景を示しています。血は水よりも濃い、と言われますが、そればかりではなく、近い、濃いゆえの争いもあります。ユダヤ、イドマヤの民族対立はここから理解されます。

さて、21章では、もう一つの物語が語られています。

アビメレクとアブラハムとの間に結ばれる契約です。これはベールシェバの地名原因譚となっています。ベール・シェバは「七つの泉あるところ」と言うような意味を持ちます。

古くから豊かなオアシスのあるところとして知られました。

その泉が、ほかならぬアブラハムによって掘られたものである、と言うことが記されます。

神の祝福に与るアブラハムが如何に優れた能力を身に付けていたかを語るものです。

そのことは、アビメレクの軍長ピコの言葉に示されています。

そこからは、誓いの井戸、と言う地名の起源が読み取られます。

その背後には、神に忠実な者にはその祝福が伴うと言う信仰があります。

これらを考え合わせると、この章は、イドマヤ人とベールシェバという二つの地名・人名(民族)原因譚の組み合わせと考えられます。

 それでは、二つの物語は何を私たちに語りかけるのでしょうか。

私たちは、本来自分が行ったことについて責任を果たさねばなりません。しかし果たすことが出来ず、アブラハムのように悩み、苦しむのが、私たちの日常です。

まさに駄目人間と言うべきでしょう。勝ち組なんてバカなことを言うものではない。皆神の前で負け組みなのだ。責任も取れない。しかしそのような現状の只中に神は恵みをもって介入される。苦しむことはない。恐れるな、と言って平安を与えようとされるのです。

私たちは、自分の行ったこと、行わなかったことについて、責任をとろうにも取ることが出来ません。もし真実にとろうと考えるなら、自分の命が必要です。誰も命の価を払うことは出来ません。

 まことに人は誰も自分を贖うことは出来ない。

その命の価を神に払うことは出来ない。

とこしえに生きながらえて、

墓を見ないためにその命を贖うためには、

あまりに価高くて、

それを満足に払うことが出来ないからである。詩篇49:9〜20

ここには、「自分の力に頼る者の道」という言葉があります。それは死に連なります。

16節は語ります。「しかし、神は私の魂を贖い 黄泉の手から取り上げてくださる」。

アブラハムとサラに対してもそうでした。神の恵みの手が、わたしたちを守るのです。

私たちを生かしてくれます。
欄外

段落について、

7節で切るものと8節で切るものとがある。それによって、物語り全体の性格が変わる。

7節で切ると、それまではサラが大きな喜びを獲たことが中心となる。

8節の場合、イサク誕生と成長となる。聖書記者の関心は、サラよりもイサクにあることが確実である。新共同訳の段落構成は理に適っている。

ハガルとイシュマエルの追放、この章はE資料。同様の主題を扱う16章の記事はJ資料である。Jではハガルはアブラハムの天幕を、イシュマエル出産前に出ている。また、サラがハガルを追放している。

乳離れはおよそ3歳と考えられていた。?マカベヤ7:27参照。

11節の「その子」は、ハガルの息子イシュマエルである。彼はこの時点で15歳(17:25)を越えているはずである、と指摘される。14節以下では幼児として描かれている。これは編集上の不手際による不整合。1725は、アブラムが99歳、イシュマエルは13となっている。1年後には100歳と14歳であろう。

ベール・シェバの荒野。これは不正確。ベエル・シェバ自体は古代から続くオアシスの町。その周辺は荒野、それをさすものであろう。南のネゲブ砂漠に接する重要な町(31節参照)。

ダビデ・ソロモン時代のイスラエルの版図は「ダンからベエル・シェバまで」と言われた。

後、英国軍の基地の町となり、今日でも南の重要な町として栄えている。

パランの荒野、シナイ半島の荒野。パランの名はフェイラン山として今日まで残る。

井戸を巡る物語は、もともと26:26以下と同一伝承であったろう。

アビメレクは、20:2以下にゲラルの王として登場する人物。

このところは、教育の問題、民族、種族の争いなどを読み取ることも出来る。

ハガルは配偶者の庇護を失い、イシュマエルは実の父の保護を失う。

この時代においては生死に関わる問題。