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2005年9月18日

《バベルの塔》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記11:1〜9

現代は、二極分化が進んだ時代です。言葉が氾濫している、言葉が足らない。

雑誌が氾濫している。スポーツ各種、女性誌、旅行誌、育児誌。ところが、子どもの一般的情報はあるが、私の子供については何もない。

アモスは、御言葉を聞くことの飢饉を預言しました。8:11

「見よ、わたしが飢饉をこの国に送る日が来る。

それはパンの飢饉ではない、水にかわくのでもない、

主の言葉を聞くことの飢饉である。」

ことばの専門家は、自分の中には十分に蓄え、余らせている。伝え方の工夫を怠る。そして安閑としている。私も含めて。仏教の僧侶は、キリスト教の葬儀礼拝から学びました。従来はお経を読むだけだった葬儀において、説法をするようになりました。列席者に共に経を読むことを求めるようにしています。一緒に経を読むことは、聖書朗読を一緒にする事です。キリスト教は、どこかで経験と伝統の上に胡坐をかいて、安住してはいないでしょうか。

この時代、多くの人が生きる拠り所を求めています。パソコンを使ってでも捜そうとしています。それらの人々に対応するためにも、ホームページが必要なのです。教会へ行くと、人間関係で傷つくかもしれない。ネットやケーブルテレビで聞きたい、読みたい。安心でき、信頼できるようなら教会へも行けるかも知れない、と考えるのです。



中国で市場経済を一部に取り入れただけだ、と思い込んでいたら、たいへんな勢いで経済の自由化が進んでいる。豊かな富める者が出てきたと思えば非常に貧しい者が出てきた。

働けど、働けど、我が暮らし楽にならざりき じっと手を見る

貧富の格差は、どの国でも激しい勢いで増幅しているようです。かつての社会主義国は、とりわけ目に付きます。中国、ロシアなどでは犯罪絡みで進行しています。

中国政府は許せる範囲ぎりぎりまで来ている、と警告を発しています。貧しさの極限は、革命を招くことを経験しているからでしょう。二極分化の危険性を改めて示されたように思います。



日本では、勝ち組、負け組みという分極化があります。

更に民営賛成か、反対か。いろいろな要素があってそんな簡単なことではありませんよ。

 

さて、言葉の役割とは何でしょうか。経験、知識、感情、思想を載せて、他に伝える道具でしょう。蓄積する道具にもなります。

コミュニケーション、伝達、交流の道具とも言われます。

相手に理解してもらうように伝える。そのために技術を磨くのがプロ。

噺家、教師、政治家。

医師でさえ、今日では、症状や治療法、薬の説明をして、信頼を獲得するために努力します。「もう説明したよ、あれで判らないって言うのなら仕様がないね」、と言うようなことは、あってはならないし、プロの世界では許されない事です。

医師が薬の効果、服用について説明を十分にしなかったらどうなりますか。命に関わる事です。名医のことを尊敬して『国手』と呼びます。国を癒やす名手という意味です。本来、政治家こそ国手でなければならないのです。そこでは、理解できない人の切捨てが始まります。それは差別なのです。

手を変え、品を換え、言葉を尽くして、理解されるように努力を続けるのです。



バベルの塔は、メソポタミアに残る「ジックラート」と呼ばれる大きな遺跡がその正体。

四角錐の頂点を切り取り、その部分に神殿を乗せたような形。エジプトのピラミッドの底辺を四角形にし手、その頂上部分を切り取り、そこに神殿を建てるような形です。メキシコ市は、ティオティワカンという湖の上に造られた古代の首都でした。スペイン人が侵略した後、湖全体が埋め立てられ、南ヨーロッパ風の大きな街が作られました。その公害には古代の神殿の遺跡が残されました。最近、発掘が進められ、とても大きな規模であることが判って来ました。太陽の神殿、月の神殿を両端に配したものです。これが「ジクラート」とソックリなのです。南メソポタミアとメキシコ。

巨大な建造物が何故あのような廃墟となって残っているのか、紀元前10世紀の人たちが考えたとき、それは時代の人々に、悔い改めを求めるきっかけとなりました。



この建造のためには、必要不可欠なことが二つあった、と聖書記者は語ります。

それが共通の言語と技術革新(アスファルト、焼成煉瓦)です。

物語の発端は、世界中が同じ言葉で、同じように話していた事です。何の苦労もなく話し、言葉を交わし、理解しあうことが出来たのです。そうした彼らは、二つの技術革新を果たします。ひとつは、石に代わって煉瓦を焼くことでした。それまで建材とされたのは石でした。これは切り出さねばならないし、大きさもなかなか揃いません。その上たいへん重い。工事はたいへん手間がかかりました。

古くからレンガも使われましたが、太陽光線で乾燥させたもので強度の点で問題ありでした。この日干し煉瓦は、出エジプトの時代のエジプトで使用されています。これは紀元前1400年頃。ジクラートは紀元前3000年頃。地域による技術の違いは大きかったようです。

もうひとつの技術は、漆喰に代わるアスファルトです。既に箱舟造りで使用された接着材です。防水性にも優れています。

聖書記者は、昔の人々がこの最新の技術を用いて「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と考えた、と記します。

このとき、人々の考えは如何なものだったでしょうか。続いて記されます。

「全地に散らされることのないようにしよう」。散らす権威を持つものがいるのです。この塔を建て、力を示せば、誰も我々を散らすことは出来ないだろう、と考えているのです。

ここには、自分たちこそこの世の権力者、神の座にあるもの、という主張が見えます。



自分たちを全地の民に知らせようと造ったこの巨大建造物。天に届くように造ったが、神は、下って来てこれを御覧になられます。塔は神の足元にすら届きません。

神は人間たちの傲慢を怒り、悲しみ、これ以上悪を重ねないように言葉が通じないようにされました。その結果、人々は全地に散って行きました。王国時代の人々は、素朴に疑問を抱きました。どうしてこんなに色々な言葉があって、通じないのだろうか?

そのために誤解が生じ、争いも起きているのに。みんながひとつの言葉を用い、理解し合えたら、どんなにか素敵だろう。



イスラエルの王国時代、まさにバベルの塔を建てるような状況がありました。

それは、ヤハウェ資料、ダビデ、ソロモンの統治下、繁栄を誇った時代。

この時代の特徴は、創世記2章で読みました通りです。即ち、人間は一人で何でも出来る。

清く麗しい存在、自分は正しいというような傲慢さに溢れていました。これがその時代の預言者的な人たちにとっては、将にバベルの塔だったのです。廃墟が残り、多くの言語に悩む状況になったのです。

現代で言えばどうなるでしょうか。

技術革新を誇り、自らを神の座に据え、神を否定し、拒絶する。



私たちには、キリスト・イエスの愛の言葉があります。世界中に通用します。イエスの復活と五旬節の出来事によって互いに通じ合う言葉は回復されました。
欄外

信仰に立っていると言いながら、その実、信仰者からの投票を期待しているだけで、実際の行動は、投票行動によって左右されてしまう。強いアメリカを眼に見せるために、強い大統領であることを証明するために、聖書が教えることに反して当たり前、と考える。

9.11テロに関する反応を言っています。日本の首相などは論評にも価しません。郵政バカ、民営オタク、小さな政府という考えは、私が学生の頃学びました。スモール・ガヴァメント、それは、その当時必ずしも肯定的なものではありません。日本は、復興期にありました。朝鮮戦争後の時代です。これからは、憲法に基づいて福祉国家の道を歩まねばならない。そのためには行政がしっかりと舵取りをしなければならない。

小さい政府は良く検討されるべきだ。無責任政府を作ってしまう。



話が逸れるようですが、こんな二分化もあります。ヨーロッパでは砂漠化が進み、バングラデシュでは洪水が続いている、というような。

これに関連して、日本の情報はおかしいのではないでしょうか。台風がやって来る。日本に上陸するか否か、外れることは少なくなり、素人でも天気図を読めるようになった。すると関心は、上陸するか否かだけではなくなる。もっと広く、何処へ上陸するか、そこではどのような備えがなされ、被害はどうなるか。通過した後まで関心は続く。然し、メディアは終わってしまう。こういうのは私だけのことでしょうか。私の物好きなのでしょうか。北朝鮮は不作が続いている、と聞きます。どんな原因でしょうか。最近の気象環境の変化はどのような影響を与えているのでしょうか。日本のマスコミが半島、大陸を報道しないのは以前からの事です。これだけいろいろと起こっているのだから、素顔のままの諸国、諸民族の姿を知りたい。ブームや事件との関係で報道されるのは真っ平ごめんです。

二極分化の怖さは、対話ができなくなるという点にあります。英国などは貴族政治の中での二分化ですから、まだ言葉が通じるのです。考え方を理解することが出来るのです。



日本の二大政党化は、自民党という保守本流の中での二分化が進みつつある、と私は理解しています。日本全体は危険なほどに一元化して、改憲、軍事大国を目指しています。そのことを国民、有権者の皆さんが認識できずにいる、理解しようとしていないのです。



建てることを止めさせられた大きな街は、バビロン。ここには90メートルを越す高い塔がそびえていた。

全体として、この物語は古代西アジアの中央集権的文明を批判的に照射する。