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2009年11月22日

《王の職務》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
サムエル上16:1〜13

降誕前第5主日(終末主日)、収穫感謝日、謝恩日、
讃美歌53,249,507、交読文8(詩27篇)
聖書日課 サムエル上16:1〜13、?テモテ1:12〜17、マルコ10:17〜31 詩編89:20〜30、

 11月下旬といえば、冬と言って良いはずです。
心のどこかにそれを拒絶したいものがあるようです。暖冬傾向に慣れた体が、冬到来を拒んでいるようです。一時的な寒波が到来したようですが、私は馴染めませんでした。
それでも自然界は正直で、順応性豊かです。柿の実は、カラスに食べられて、一つも残っていません。私たちが拒絶する渋柿もカラスにはおご馳走だったようです。来年はぜひ焼酎を振りかけて、食べられるようにしてみたい、と願っています。

 明日23日は、勤労感謝の日、戦前の暦では『新嘗祭』、天皇が収穫を神前に供えるときでた。勿論、天皇家の祭祀として、今でも変わりなく続けられています。
 使われなくなる言葉があります。忘れられて行く言葉もあります。その言葉にまつわりついているはずの歴史も忘れられ、消えてしまうのではないでしょうか。正しい歴史認識のためにも、言葉を忘れないようにしたいものです。

 さて本日は、教会暦の『終末主日』です。これは教会の暦で一年最後の主日、同時に終末の到来を覚える時とされます。現在の教団教会暦では、この日は覚えられません。何故でしょうか。前主日の週報に、「松山與志雄先生がご来訪」と報告しました。
 先生は、東京神学大学の先輩。松江北堀教会を長く牧された松山昌三郎牧師はお父上。オルガンを良く弾かれます。由木康先生の時代に東中野教会で副牧師、ドイツに留学され、後江東区東大島で開拓伝道、大島シオン教会を作られました。2003年に『教会暦』に関する論文を出版されました。『讃美歌21』に関しては、『福音と世界』に長文の寄稿をなさっておられます。1997年と2000年頃だったでしょうか。私の同級生に連れられて、東中野教会をお尋ねした折、お目にかかったことを思い出します。先生の奥様は、頌栄女子学院の教頭永く勤められ、随分お世話になりました。

 私は、教会暦に関する疑問を抱くと、この先生を頭に浮かべてきました。先生はどの様に仰るだろうか、どのようなご意見をもたれるだろうか、と自問自答することが多かったのです。思いがけないご来訪、先生の側のご用件に応えることも出来ず、こちらから質問してしまいました。たいへん失礼なことでした。
 出来ることなら、先生を此処にお迎えして、皆さんとご一緒に礼拝、讃美歌、教会暦について学んでみたいものだ、と感じ、願っています。

 この終末主日、私たちは《王の職務》という主題の下、サムエル上16:1〜13を読みました。聖句と主題の関係が、私には良く飲み込めません。理解できないのは不勉強のためか、能力の限界を超えているためでしょう。お詫びいたします。
 説教では詫びたりするな、御免なさいをしてはいけない、と教えられました。学校の授業でもそうでした。絶対に謝ったりしないものだそうです。教師の権威が失墜するからでしょうか。とすれば私一人の問題ではないことになります。それでも私は、解らないことがあったり、応えられなかったりしたら、すぐ謝りました。そのために、教師の権威が失墜した、という事はなかったでしょう。勿論、最初から失墜するほどの権威すら持ち合わせていなかった,のかもしれません。

 それにしても、この聖句は、主題と結び付けることが困難であることを、あらかじめ申し上げておきます。

 此処は、新共同訳の小見出しにありますように、ダビデを油を注ぐことが記されています。イスラエルの王には、すでにキシュの子サウルが選ばれました。然し、彼が主なる神ヤハウェの命じたもうことを守らなかったために、捨てられてしまいます。
 主は、サムエルに言います。「あなたはいつまでサウルのことを嘆くのか」と。口語訳は「いつまで彼のことを悲しむのか」となっているでしょう。失敗をしてしまったサウルを惜しみ、悲しんでいる老預言者の姿です。サムエルにとってもサウルの任職は、最後の大仕事になるはずでした。サムエルは、ヤハウェが王位から退けたサウルを惜しんで嘆き悲しんでいます。神の僕、預言者が神に背いたものを惜しむようなことで良いのだろうか、と考えてしまいます。然し、それ自体をとがめだてするような言葉はありません。

 「いつまで悲しむのか」と言われただけです。嘆き、悲しむ事は当たり前のことです。
喜び、笑うこともそうです。喜怒哀楽は当然の感情。豊かであってよろしいのです。
パウロもローマ12:15で語ります。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と。

 次の王として誰を任命するか、サムエルには解りません。ヤハウェは、「角に油を満たして出かけなさい」と言われます。預言者、神に仕える者には、行く先は知らされません。
たいていの場合、先行きのわからない不安を抱えているものです。
この場合、ベツレヘムのエッサイを尋ねる事は教えられました。そこで誰を任職するのか、知らされません。

 到着しました。直ちに歓迎されるわけではありません。不安げに迎えられます。そして「平和なことのためにお出でくださったのでしょうか」と問います。サムエルは預言者であり、同時に最後の士師であったとされます。裁判と軍事指導をしたのでしょう。いずれも、人々の間に波風を立て、悲しみを惹き起こすことが多かったはずです。
とりわけ出陣の知らせは、人々の間に切ない悲しみを呼び起こし、神の裁きは、その家族、同族一同のうちに痛みをもたらしたことでしょう。
サムエルは、平和的な訪問であることを示すために、生け贄の会食に招待します。

 エッサイとその息子たちが、身を清めて、やって来ます。
エリアブを見たサムエルは、彼こそ油注ぎを受ける者に違いない、と感じます。きっと立派な養子だったのでしょう。それに対するヤハウェの言葉は有名です。

 7節「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。
端的に言えば、主は人の心を見る、という意味のようです。
アビナダブ、シャンマ、七人息子がすべて通りました。どの息子も、ヤハウェの選ぶ者ではありませんでした。

 そして最後、羊の番をしている息子が、残っていました。象徴的です。古代において、羊を飼う者から、しばしば王が現れます。この息子が連れて来られました。
「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」。これだけでは、従来どおりで、人は外の形を見ているのと変わりがありません。主の言葉がありました。
 12節「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」。サムエルには、この少年の内部を見る事は出来なかったのでしょう。主の言葉が教えてくれました。サムエルは神の僕として、謙遜な人であったと感じます。その職務を振りかざして、何でも出来る、知っているかのように振る舞う者もいます。だいぶ違います。
 こうしてダビデに油を注いで、彼はラマに帰って行きました。ダビデはかなりの年月を、サウルの部下として、また逃亡者として、更に南ユダの王として過ごし、その後サウルに代わってイスラエルの王となります。

 話を戻しましょう。少年ダビデが選ばれることになったのは何故でしょうか。
すでに、キシュの子サウルがイスラエルの王に選ばれ、多くの者たちがそれを喜び、祝福しました。サウルは、この王位から退けられるような何をしたのでしょうか。15章をご覧下さい。  彼は、アマレクの王アガグと戦い勝利を収める。その時、サウルは、主なる神の命じられたことを守らず、それよりも民の求めを聞き入れます。9節をご覧下さい。

 「アガグと羊、牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、子羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼしつくした。」
そして、サムエルから神に背いたことを指弾されると、言い逃れようとします。私は主の言葉に従いました。ただ兵士たちが、「主なる神への供え物にしようと、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです」。これは21節です。

 一見、何でもないことのようですが、9節との違いを良くご覧下さい。全くの嘘ではない。
少しの嘘を混ぜることで、全体を変えてしまう、これは詐欺師の手口です。
エデンの園で、禁断の木の実をアダムに勧める時のエヴァの姿、その言葉がオーバーラップしてきます。

 《王の職務》という主題に従うならば、このサウル王の姿から学ぶことがあります。
王は何のために立てられたのでしょうか。出エジプトの民は、カナンの地に定着しました。
この人々には王がいませんでした。神が直接治めておられたのです。

 それに対し周辺諸国は王のもと、中央集権的国家を形成し、たいへん強力でした。
イスラエルは、自分たちも王が治めればもっと強力になれる、諸国と対等に渡り合える、と考えたようです。
民の求めに応えて神は王を与えます。そして『王の慣わし』を教えます。新共同訳では『王の権能』と訳されます。サムエル上8:11以下です。439ページです。

 主は先ず、サムエルに言います。7節「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ。」 神の直接統治よりも、分かりやすく、目に見える王による統治を選んだのだ。彼らは、サムエルを捨てたのではない。私、ヤハウェを捨てたのだ。彼らは、自分たちの上に君臨するものを選び取ろうとしている。それだから、王の権能を教えておきなさい、ということになります。

 これを読むと、民が王に求めることと、王になった者が求めることには食い違いがあると分かります。民は自分たちを守り、導き、正しい裁きを行い、我々のために戦い、近隣諸国に負けない国にしてくれる、と期待します。これも一つの「王の職務」です。
イスラエルの神は、その民を厳しく戒めます。お前たちの期待し、求める事は、全く逆の形になるだろう、と。王は、自分のために、その民を食い物にする、戦わせる。

これはまさにエゼキエル34章で語られるイスラエルの偽りの牧者・羊飼い、王の姿です。

 人が心に思い謀ること、願うことと、神が計画されること、その御旨とは大きく食い違い、二つの間は遠く隔たっています。そして、なかなか知ることも出来ず、背を向けることになりがちです。
16章では、人の思いとは違うダビデが選ばれました。

 ダビデは、歴史上の人物です。
彼は、同時に出現を預言された人物、マリアの子イエスの先祖となります。
イエスは、ダビデの子と呼ばれ、その血筋を受け継ぐ王位継承者と呼ばれました。
総督ポンテオ・ピラトの命令により、十字架の上に打ち付けられた罪状書きには、「ユダヤ人の王、神の子イエス」とありました。このイエスの姿に、王の職務を見出だします。
王としてのイエスは、その民を統べ治める権能を持ちます。同時にすべての人の救いのためにその命をもって仕える僕となられました。

 すべての人の上に立つ王は、キリスト・イエスにおいて、すべての人の下に、その傍らに膝まずく僕となります。私たちが迎えるクリスマスにお出でになるみ子イエスは、王であると同時に僕であるお方です。