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2008年9月14日

《福音は成長する》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
コロサイ?1:3〜8

聖霊降臨節第19主日 讃美歌28,187、234A、交読文32(詩139篇)

聖書日課 ヨハネ11:1〜16、ダニエル11:1〜16,
?コリント5:1〜10、詩編65:2〜5、


本日の聖書は、1:3〜8、前週は1〜5、短くて、どこまで説教するか見当も付きませんでした。でも2節まで、朗読は5節まで、と考えていました。3〜8節は原文では一つの文章です。日本文は随分苦労されたことでしょうピリオドを入れて五つの文にしました。それでもなお読みにくい、理解しにくいところです。分りやすいところから読みましょう。


先ず、パウロ(この手紙の差出人を指します)は、絶えずコロサイの信徒たちのために祈り、感謝しています。その理由は、コロサイの人々が、主イエスにあって持っている信仰と愛を聞いているからだ、と書きます。「聖なる者たち」は、この時代、特別な人たち、
特に清い人を指す言葉ではありません。或は、教会内の階級があるわけでもありません。信じて、神に所属する者たちを指しています。同信の者たちに対し抱いている愛とその実践を聞いた、ということです。

この愛とその実践は、天に蓄えられている希望に基づくものです、と言葉は続きます。

信仰は、罪を赦す神の子としてのキリストを信じることです。従って希望は、必ずわれらの罪赦されるなり、という一点にかかってきます。この希望があれば、他の全てのものに心を奪われることはなくなるのです。

ここに福音の本質があります。信仰・希望・愛、この三つのものは大いなり。

信仰・希望・愛は不即不離・表裏一体の関係を持たねばなりません。

信仰のない希望は一種の利己主義的自己満足に陥ります。

愛のない信仰は教理の固執となり、希望のない信仰は永遠の栄光の輝きを欠き、

信仰のない愛は人情的・情緒的な愛に過ぎないものとなります。

ところで、コロサイ教会は、この福音を誰から聞いたのでしょうか。異邦人の使徒、パウロから、と言いたいのですが、そうではありません。エパフラスの名前が挙げられます。

主イエスの甦りと聖霊降臨の後、多くの弟子たちが、イエスがキリスト、救い主として復活されたことを、全土に証ししようとして出かけたようです。その中にエパフラスもいました。自分の出身地である小アジアへ出かけ、働いたのは充分に考えられることです。

7節以下は、コロサイの教会を指導しているエパフラスのことを、語ります。
エパフラスは、コロサイの人々に福音をもたらした人物です。
そして彼はこの福音に関して、パウロと共に働くしもべ仲間です。

彼はコロサイの人々のためにキリストに忠実に仕える者であり、パウロの協働者としてコロサイの状況をパウロに伝えています。

 
「わたしたちと共に仕えている仲間」とあります。ある人は『僕仲間』と訳しました。更に『奴隷であった』と訳す人もあります。しかしパウロが奴隷であった、とは聞いていません。したがって、キリストの僕としてともに働いた者、と理解します。

私たちは、このところを、エパフラスは教会に仕えている、と解釈したくなります。しかしこの節の最後の行は、違う解釈を示します。「あなたがたのためにキリストに忠実に仕える仲間」。仕えるべき主はキリスト・イエスであって、他に並ぶものはいません。そのことを曖昧にするような何ものも許容されません。大使徒パウロであっても例外ではありません。世々の伝道者・牧者・説教者はこのことに腐心して来たはずです。

葬儀があります。世間的に功績の高い人の場合、それを賞賛すると人々は納得します。しかし教会としては、誰が主であるか、不明にしてしまうことになります。故人を賞賛するのではなく、主なる神が何をしてくださったか、語るようにします。常に、主に忠実であることが求められます。牧師だけではありません。信仰者一人一人が主キリストに対し忠実であることが求められています。

エパフラスは、パウロの信頼する友人です。コロサイ4:12は、彼が小アジアの出身であることを示したいるとされます。よく、故郷で伝道するのは難しい、と言われます。エパフラスは、広い意味で郷里伝道をした人です。困難ではあっても不可能ではありません。玉出教会は、多くの出身教職を抱えています。大きな宝です。誇りとして宜しいものです。やがて、その内の何人かが郷里伝道に身を捧げることを期待し、願い、祈りましょう。

またエパフラスは、「霊」に基づく愛をパウロに伝えた人です。これは4節の「聖なる者に対する愛」をさす言葉です。同じ信仰を持っている者たちへの愛です。

信仰は、時代により、民族によりさまざまです。聖書の示すものでも、旧約聖書の信仰は、私たちが、今日考える信仰とはだいぶ違うはずです。モーセ五書はヤコブの12部族が中心になって、アブラハム、イサク、ヤコブの神を信じる信仰です。それをパスカルは、生ける者の神、と言いました。

族長たちの神は、やがて出エジプトの神を信じる信仰へと昇華します。世界の主であり、救う神となります。捕らわれの民を救い出し、解放する神です。

同じ神が、時代を変えるとバビロン捕囚から解放する神となります。

律法を守ることを求める神。

更に、外国人による支配から解き放ち、自分たちの信仰を十全に礼拝することができるように導きます。

新大陸へ渡ったピルグリムファーザースの半分は、自分の信仰に基づいて、自由に礼拝できる新天新地を求めました。

『ジョ−ク世界一』だったかと思います。

「人は持っていないから求めます。英国人は名誉を、フランス人は愛を、中国人は金を」

読み終えて考えました。どうして日本人が入っていないのだろうか。いったい、現代日本人は何を求めるのだろうか。私の答え。

『信義を』求めるだろう、求めるべきだ、というものです。

かつての日本人は持っていたようです。来日した外国人の文書の多くに残っています。

しかし現代の国際社会の中で、日本人が信義を守る、という評価を受けているでしょうか。

エコノミック・アニマルという評価はこれとは正反対のものです。

福音を聞き、その本質である信仰・希望・愛を生きようとする時、必ずしも安楽な生活が保障されるわけではありません。不都合が起こってきます。私たちのご都合に合わせて、あくまでも福音信仰を生きることは止めて生きようとすることも可能です。いち抜けた。

これは偽教師が教えるところです。コロサイの教会の人たちはそのような誘惑に負けませんでした。信・望・愛を守り、福音の本義に立ち続けました。パウロはそれを喜び、祈りのうちに神に感謝を捧げています。そして、「この福音はあなたたちのところでも成長しています」、と語ります。

福音が成長してたまるか、という考えがあってもおかしくはありません。
幼稚園・小学校・中学校の子供たちは成長します。
福音の成長は、概念が違うのでしょう。

二つの成長を考えています。

福音理解が成長発達すること、目撃証人の証言、解釈、宣言、時代の変化に伴う新宣言、
福音を受け入れる地域、領域が拡張すること。

世界各国・各地・各民族の宗教を比較研究する学問があります。

たくさんの宗教には発達の段階がある、と言います。アメリカ大陸の先住民やアイヌのアニミズム(すべての事物のうちに神を見る)のような汎神教から始まり、唯一神教に至る過程を見ることが出来るそうです。成長という言葉も用います。
本当に成長・発達した宗教の形でしょうか。

唯一神教と言えば、ユダヤ教、キリスト教、イスラムです。唯一絶対の神を信じるこれらの宗教では侵略と抗争がしばしば起こっています。エリート意識は共通しています。

ユダヤ教は他の宗教となかなか融和しません。食物を巡っても他を穢れたものと見なします。キリスト教は、内部で分裂し、争い続けています。非文明国といわれる国、民族を侵略しました。
イスラムは、異教世界に入って、そこをイスラムに変えることを使命としています。自分たちが正しく礼拝できる環境を整えることに過ぎない、と言います。シーア派は特にこれを厳しく主張します。スンニ派はそれほどではありませんが、ジハードを考える点では変わりありません。この両派は対立し、争います。

民俗学、宗教学が進歩している、とする諸宗教は自己の絶対性を主張します。異なる考えを排除します。これが進歩でしょうか。

欧米のキリスト教国で信徒として育てられた人々が、成人した後、アジアの宗教・仏教に憧れるのは何故でしょうか。1970年前後、いわゆるヒッピーと呼ばれる人たちの間の流行のようでした。ある意味ではファッション的な要素もあったでしょう。しかし、その根はかなり深かったように感じています。自己絶対を主張し、侵略を繰り返す進歩した唯一神教に我慢できなかったのです。イスラムは、産業、経済、軍事で遅れていました。そのためそこから出て行く方向にはなりませんでした。かえつて、各派ともに自己拡張を目指しました。そのためイスラム住民は増え、争いが増大しています。

宗教に成長はあるのでしょうか。福音が成長する、とはどういうことでしょうか。

コロサイ書の記者が「成長」と言う時、どのような意味だったのでしょうか。

教勢の進展もあったでしょう。教会の発展・組織の充実も意味されたでしょう。神学の整備も考えられます。

パウロが考え、認めた成長は、主イエスが教えられた「新しいブドウ酒と皮袋の譬」(マタイ9:17)に顕れています。ブドウは、皮袋の中で熟成します。ガスを放出しながら、全く新しいものに変化して行きます。古い、柔軟性のない皮袋は避けてしまいます。新しい柔らかい皮袋は、ブドウ汁と共に変化できます。

福音の成長は、信仰・希望・愛とその実践がバランスを保ちながら熟成し、新しいものになることです。平和を生みだすことです。パウロは、コロサイの教会にこれを見出し、神に感謝を捧げました。私たちの教会の中に同じものが満ちているなら幸いです。

感謝しましょう。