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2008年8月24日

《兄たちを慰める》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記50:15〜26

聖霊降臨節第16主日 讃美歌6,263,290、交読文22(詩95篇)

聖書日課エレミヤ28:1〜17、ヨハネ8:(31〜36)37〜47、?ヨハネ5:10〜21、
詩65:6〜14、

 処暑を過ぎ、「暑さ収まる」のでしょうか。九月は残暑厳しい事が多く、最近は十月も夏の続きの感じでした。この数日の過ごしやすさは、何か騙されているような気がします。

きっと暑さのぶり返しがあるでしょう。

さて私たちは、創世記を連続して読んで来ましたが、今回で一応の終わりとなります。

2005年4月17日に第1章から始まり、2006年3月26日26章でお休み。2006年度、07年度は教会暦に基づく日課に従って説教いたしました。2008年4月6日、27章から再開。実質一年半ほど創世記を読みました。

本日は最後の部分をご一緒に読み、創世記が語る言葉を聞く事ができれば、幸いです。

父ヤコブが望んだ通り、その亡骸をカナンの地に葬り、一族は再びエジプトへ帰って来ました。弟ヨセフの庇護の下、平穏に暮らせるはずのこの地へ帰って来ると、兄弟たちは不安になりました。ヨセフは大国エジプトの宰相、兄弟たちはその命運を握られている、と感じたでしょう。エジプトの宰相であるヨセフが、その絶大な権力によって、自分たちに復讐を企むのではないか、と心配になり、不安を感じました。

兄たちは、それほどに酷いことをかつて行った、という自覚がありました。

そこで彼らは一計を案じます。「人を介してヨセフに言」わせます。

これは、エジプト国内では、身分の隔たりがあって、直接に物言う事が許されない、と解釈することも出来るでしょう。しかし、その屋敷の中では兄弟として自由に話ができるはずです。

これは、それほどにヨセフを恐れていた、という理由でしょう。同時に、自分たちの罪の深い自覚という一面もあります。

此処では、ルカ福音書15章《放蕩息子の譬》を想い起こします。兄は、帰って来た弟を「あなたの息子が」と言います。僕は、「弟さんが帰ってこられました」と告げています。それにも拘らず、兄は帰ってきた者を弟とは呼びません。

ヨセフはヤコブの息子たちの一人、兄弟です。兄弟たちの間を隔てるものがあります。それは、身分、地位、権勢、財産、そして犯した罪・咎・過ちです。これは、国家・民族を問わず、その歴史が語り、示していることです。

兄たちは、人を介して何を言わせたのでしょうか。

第一に、生前父ヤコブが言い残したことである、と伝えさせます。ヨセフはヤコブが愛した妻ラケルの産んだ息子です。格別な情愛の絆があったようです。ヨセフがどれ程高い地位、身分、権勢にあっても、父ヤコブの言葉には従うに違いない、と知っています。更に、ヤコブが生前心配していたことです、という意味があります。死の間際まで心配させていたなら、それは親不孝と言われるでしょう。ヨセフは、長い間父親から離れていました。それだけに、父のことを心にかけていました。そうしたヨセフの心情を衝きました。

第二は、兄たちはお前に悪いことをした、ということです。これは聖書の特徴かもしれません。悪いこと、罪、とが、過ちに関して聖書ははっきりと認めます。曖昧さ、あやふやなものはありません。『限りなく黒に近い灰色』というようなことはありません。これは罪なのか、そうでないのか。これは罪を犯したのか、犯さなかったのか。先ずはっきりさせます、それをしないで、もういい加減に水に流しましょう、とは考えません。もう昔のことだからご破算にします、とも言いません。兄たちは、37章の悪事をいまだに記憶に留め、認めています。それだからこそ、復讐されるのではないかと不安に感じ、恐れているのです。悪や罪を明確にする時、赦す事が出来ます。

第三に、その咎と罪を赦せ、と父が言い残した、と伝えさせます。このあたりは、父の言葉か、兄たちの言葉か、はっきりと分けることができないほどになっています。多分、17節の二重カッコ内は伝言、その後は、使いの者の言葉でしょう。

「お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」

この言葉は、罪を裁き、罰する力は父の神にある、という信仰を示します。父ヤコブの神に、この国においても僕らは仕えています。私たちはこの神を礼拝し、この神はそれに答えてその力を発揮し、今も働いておられます、との信仰告白です。

 この伝言を聞いて、ヨセフは涙を流します。いろいろな涙があります。悲しいとき、嬉しいとき、寂しいとき、悔しい時。ヨセフの涙は何でしょうか。

兄たちが、その罪を忘れていないので喜んだ。

和解したはずなのに、それを信じていないので悔しかった。いや寂しかったのだ。

兄たちが真剣に願ってきたので嬉しかった。

使いの者にこれを言わせたので悔しかった。

父ヤコブの言葉などではないと分るだけに、情けなく感じた。

この部分の結論は皆様にお任せします。それぞれにお考えください。そして、共感できたなら聖書が一段と面白くなるでしょう。

 やがて兄たち自身、やってきます。ヨセフの前にひれ伏します。ここでも、37章でヨセフが見た夢が実現しています。

そこでヨセフは語ります。要点の第一は、私が神に代わる事が出来ようか、ということです。先ほど、罪を裁き罰するのは父の神、と申し上げました。この信仰を、この兄弟、イスラエル一族は共有しています。

第二は、神は人の悪しきたくらみを、ご自身の力とご意志によって、良いことへと変えてくださる。

第三は、それらによって、神は多くのものの命を救ってくださる、ということです。

これは、すでに起こった飢饉からの救いのように感じられますが、神のご計画の中では、長い歴史の歩みの中で実現する救いである事が暗示されています。

やがて起こる、キリスト・イエスによる救いが示されている、と考える事が許されるでしょう。

スタディバイブルはこの所を次のように説明しています。

20節「それを善に変え、・・・今日のように」ヨセフ物語の主題が最終的に明示されている。神は人間の日常の出来事の中に働き、人が悪意で起こしたことをも善に変える事が出来る。ヨセフ物語を通して、神の民の一人一人がすべての人にとって祝福の源となるという神の約束が成就し始めている。

古代人の信仰では、神は土地に付随します。その領域を超えて力を発揮することは困難です。しかしヤコブ・イスラエルの神は世界の主であり、このエジプトの地においても、その力を発揮しています。

このように弟ヨセフは、兄たちを慰め、安心させました。単に安心なさい、私は赦したよ、というのではありません。同じ主なる神に仕える者だから安心しなさい、と言っています。

年長者の心を安んじることは、歳若き者の務めです。若者にはその力があります。しかしなかなか正しく用いられず、圧迫と排除に用いられる事が多いようです。

口語訳は「懇ろに語る」と訳していました。いまは「優しく語りかけた」と訳されます。少し意味が違うと思いますが、これも良いでしょう。歳若き者には力と勢いがあります。

普通に話したら、その力と勢いは年長者を圧倒するように感じられます。そこで少し勢いを抑えて、優しく話しかけることで、深く語り合う事が可能になるでしょう。

不安の中にいる者の心配を取り除くことは、力ある者に求められる働きです。

自己責任だ、と言って平然としていることは許されません。それは殆んど、自業自得と言っているに他ならない事があります。

 創世記37章を思い出してください。ヨセフは夢を見ました。兄たちそして母親や父親まで、この弟ヨセフを拝する様になる、という夢でした。これは支配する、統治する者になることだったようです。その夢の成就は如何だったでしょうか。

支配、統治、管理、ヨセフは一国の行政責任者になりました。権威も権力もあります。彼はそれをどの様に理解したでしょうか。自分は、多くの民を救うためにある、と理解しています。自分の力によってではなく、神がそれをしてくださった、とも語ります。人の上に立つ、ということは、命のため仕える者となることです。多くの人を生かすために自分の存在がある、と理解するのです。

 ヨセフは、神の器として、不思議に用いられました。彼自身も予知、予見はできませんでした。拝礼を受ける身となる、という夢は見ました。しかしその内容は何も知らされませんでした。神の救いの器となることでした。そして、ヨセフもすべての人が辿る道を歩みました。110歳という長寿を全うしました。父ヤコブは147歳でした。比較ではありません。豊かな神の恵みに与った者は、何歳であっても長寿、充実した生涯でしょう。

ヨセフは、エジプトの高官として息を引き取りました。それでもイスラエルの一人でした。自分の亡骸は、必ずあのヤコブを葬った所へ携え上ってください、と言い残しました。

マムレのヘト人エフロンの畑にあるマクペラの洞穴にアブラハム、イサク、ヤコブと共に葬られることを望みました。の地に出エジプトのイスライスラエル人たちは、ヨセフの棺をカナンの地まで携えて行きます。今は、ヤコブのときと同様に防腐処置をします。

 ヨセフ110歳の死をもって、創世記はその筆を擱きます。

創世記は何を語ってきたのか、私たちは何を聞き取ってきたでしょうか。

ヤハウェ資料は、ダビデ・ソロモン王朝の繁栄の中で、創られた人間の傲慢と神の深い愛を語りました。人独りなるは宜しからず、と言って相応しい助け手をお与えになりました。

祭司資料は、バビロン捕囚の悲惨の中で、戦争に負け、捕虜となった惨めな人々が、地上における神の代理者として、全地を治めるように創られていることを告げました。全能の神の力と人間の尊厳を語り、慰め、力付け、希望を与えました。

そして神の愛は、多くの民を救い、生かすために、人が用いられる事が明示されました。

現代に至るまで多くの人々は、さまざまな艱難、苦難、喜びや悲しみを経験してきました。

自分の存在の意味を疑いました。そのような時、創世記は慰めと力と望みの源となりました。そして、これからも源であり続けるのです。

感謝しましょう。