集会のご案内
所在地・交通
教会のあゆみ
牧師紹介
教会カレンダー
教会暦・行事
説教ライブラリー
フォト
リンク集
玉出教会 説教ライブラリ [一覧へ戻る]

2008年8月3日

《ラケルの思い出》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記48:1〜14

  聖霊降臨節第13主日 讃美歌20,246,252、交読文19(詩84篇)
聖書日課 ヨブ記28:12〜28、ヨハネ7:40〜52、
?コリント2:11〜3:9、詩編15:1〜5、

 
八月、高校野球も始まり、暑さ本番という感じです。これまで充分に暑かったのに、まだこれからがあるのか、がっくり来ます。それでも甲子園の熱気は、夏の暑気を払うような気がするのは何故でしょうか。これからは夏の陽気に体が慣れてきますので、暑くても幾分過ごしやすいように感じるでしょう。

内閣改造がありました。オリンピックも始まります。例年通り原爆祈念祭があります。

8月15日と併せて、戦争の悲惨さを心に刻み付け、ノーモア ヒロシマ、戦争をしてはならない、と声を大きくしたいものです。

本日は、ヨセフの子供たちを祝福するヤコブの姿に目を注ぎます。

エジプトに来たヤコブは、17年の後、死ぬ時が近付いたことを知り、ヨセフを呼び寄せます。47:27以下です。「私の願いを聞いて欲しい。わたしのために慈しみとまことをもって実行すると誓って欲しい。このエジプトの地に葬らないで、先祖たちの墓に葬って欲しい」

ヨセフは、必ずその通りにしますと誓いました。ヤコブは、感謝を表します。どの様に、何を、中身は何も分りません。知らせるほどのことではない、と考えたのでしょう。無理に推測するほどのこともありません。言葉通り、感謝した、ことを覚えましょう。親が息子に感謝を表する、これは尋常なことではありません。ヤコブ・イスラエルにとって、それほど心にかかっていたことなのです。

 日本人も父祖の地の葬られることを望み、外国で死んだときも、必ず日本国内の墓所を願う、と聞きます。現代のイスラエル人も、周辺諸国との争いが絶えず、敵国で死ぬことも多いのですが、国家は必ず遺体を引き取り、国内の墓所に葬るそうです。現にアメリカ国民となっていても、死後はあのイスラエルの、父祖の地に葬られることを望む人が随分いる、とも聞きます。とりわけエルサレムの東門の周辺には、今でも新しい墓が作られています。


この後、ヤコブは病を得ます。エジプトへ来てからおよそ17年が過ぎた頃のことです。病気の症状は知らされません。老齢の衰えから寝付いたものかもしれません。ヨセフは二人の息子を連れ、見舞いに行きます。

ヨセフは、エジプトで、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを娶り、二人の息子が生まれています。長男がマナセ(忘れさせる)、次男がエフライム(増やす)と名付けられました。41:51,52参照。

ヤコブは「力を奮い起こして、寝台の上に座った」とあります。大変な努力を払ってまでもすることがありました。それはヨセフの子供たちを、我が子とすることでした。

愛する息子ヨセフは、長く家を離れていました。そのことを不憫に思う気持ちがあったことでしょう。しかし今のヨセフは、エジプトでファラオに次ぐ権勢を持つ大人物。ヤコブの家の中でその地位を固めたい、イスラエルの神の祝福に与るものとしたい、という気持ちがあったのでしょう。

ヤコブは、この時すでに、老齢のため目がかすんでよく見えませんでした。よく気が付くヨセフは、長男のマナセをヤコブの力ある右手に向かわせます。次男のエフライムは左手に近づけました。ヤコブはそのまま手を伸ばして、祝福すれば良いはずでした。

 ところが彼は、両手を交差させ、右手をエフライムに、左手をマナセに伸ばしました。そして15,16節の祝福を与えます。アブラハム、イサクの神よ、私を守り導かれた神よ、

この子供らに祝福を与えてください。この地上に増え続けますように。

アブラハム以来、イスラエルの神の祝福は、子孫が増えること、土地を所有することです。

ヤコブはこの約束がこの子らによって継承される、と語ります。もっとはっきり言えば、ヨセフの二人の子供は、ヤコブの十二人の子供の仲間に入る、ヤハウェの祝福を受ける仲間になるということです。

ヨセフは、これを見て、長男マナセに右の手を移そうとします。ヤコブには二人の序列が分らないのだ、とでも思ったのかもしれません。それは父の衰えを認めることであり、ヨセフにとって辛いことです。それでも試みました。

父ヤコブは、はっきりヨセフに語ります。「分っている。長男も一つの民、大きな民となる。しかし、次男はそれよりももっと大きくなる。その子孫は国々に満ちるものと成る」。

ヤコブは、ヨセフとは違う形で将来を見通しています。偉大なイスラエルの先祖、族長と呼ばれるにふさわしい人です。

スタディバイブルは、欄外で説明します。

後のイスラエルの歴史においてエフライム族は強大になった。イスラエルが二つの王国に分裂していた時代、北王国全体がしばしばエフライムと呼ばれた。

更に後になり、エジプトから脱出するイスラエルの部族名にはヨセフの名はありません。それに代わって、マナセとエフライムが見えます。これが22節で「お前に兄弟たちよりも多く・・・分け前を与えることにする」と記す基になったのでしょう。

こうしてヨセフの子らへの祝福がなされました。聖書記者は、この直前に、おかしなことを、ヤコブに話させています。いや、おかしくはないのですが、何故この所で、前後の脈絡もなしに、このことを話させるのだろうか、と疑問に感じたのです。5,6節との関係ですが、それだけの理由では少し無理があるように感じます。無理があっても、このことを語りたいのでしょう。

7節をもう一度、お読みしましょう。

「わたしは、パダンから帰る途中、ラケルに死なれてしまった(35:16以下)。

あれはカナン地方で、エフラトまで行くには、まだかなりの道のりがある途中のことだった。私はラケルを、エフラト、つまり今のベツレヘムへ向かう道のほとりに葬った」。

口語訳は次のとおりです。

「私がパダンから帰って来る途中、ラケルはカナンの地で死に、私は悲しんだ。そこはエフラタに行くまでには、なお隔たりがあった。私はエフラタ、すなわちベツレヘムへ行く道の傍らに彼女を葬った」。

口語訳の「私は悲しんだ」という文を、新共同訳は「死なれてしまった」という一語で表現することにしました。随分大胆な翻訳です。でも感情、情緒がよく出ているように感じます。とりわけ、先立たれたものの寂寥感、取り残された感じがよく出ています。

これが「ラマト・ラヘル、ラケルの丘」、エルサレムから南へ4キロ程の所、北にエルサレムを望むところです。湿度も低く、空気が綺麗ですから、くっきりと見えました。

アブラハム、イサク、ヤコブの墓は、ヘブロンにあります。マムレの前の、エフロンの畑の中の、マクペラの洞穴に葬られました(創世記25:7〜10アブラハム、35:27〜29イサク)。

ヤコブの父親イサクは、リベカと結ばれた
出会いは素晴らしかった。イサクは、「母の死後初めて慰めを得た」(24:67)
それにも拘らず、エサウ、ヤコブの誕生後、何かが狂ってしまうように感じられる。

利害の対立

イサクは野の獣を取るのが上手なエサウを愛し
リベカは天幕の周りで手伝いをしてくれるヤコブを愛した。
それぞれに理由があった。それを守るために欺瞞を行なう(27章)。
この夫婦の晩年は寂しいものがあったでしょう。

ヤコブはラケルと結婚しました。
この二人の初めての出会いを思い出してみましょう(29:9)。
結婚への経緯、リベカの兄ラバンの関わり、ラケルの姉レア。
二人の侍女と子供たちの誕生。ラケルの侍女ビルハ、レアの侍女ジルパの存在。

さまざまなことがあっても、ヤコブはラケルを愛した。
今、老齢になったが愛しているのはラケルだけ、妻はラケルひとり。

アブラハム、ヤコブを例にとって、四人まで妻を娶ることが出来るのが神の意思である、とする考えもあったようです。イスラムがそうです。そこでは平等に愛することが出来るなら、という条件が付きます。勿論経済的にも、平等に養うことが求められます。

しかし、ヤコブを一夫多妻の例とすることは困難です。模範例とすることは出来ません。

 それではこのところは私たちに、何を語りかけるのでしょうか。

良い夫婦は利害を共有するものです。対立すると、隠さねばならない事が生まれます。そこに溝が生まれます。

先立たれるとき、喪失感が生じるでしょう。あるご夫婦、思いやり深い方だったのでしょう。俺が後に残るよ。お前を悲しませるのは、見るに忍びないから。

いいえ、私が残りましょう。あなたは家の事は何もおできにならないから、大変です。私が残って、片付けて急いで参りますから。

「死なれてしまった」という言葉は、何かを教える、というよりも、祝福された夫婦のあり方を感じさせるものです。

聖書記者は、その時代の家庭について、夫婦について考えます。ヤコブが四人なら、私たちも四人の妻がいて良いだろう、という考えに対抗しようとしています。ヤコブは、表面は如何であれ、一人の妻であった、と主張します。

 その証は、ラケルの死に際しての深い喪失感にある、と考えます。四人妻では、代替可能であって、この喪失感がありません。

現代社会は、この点でヤコブの時代と似ています。チャーリー・チャップリンの『モダン・タイムス』は、大量生産時代の人間を描いた秀作です。流れ作業、ベルトコンベアーにあわせて作業は進みます。人間は機械の歯車のひとつに過ぎず、何時でも取替え可能です。そこでは人間の尊厳は無視され、相互の関係も否定されてしまいます。1920年代の世界ですが、今の日本ではもっと大規模に展開されています。派遣労働がそれです。戦前の状況よりもっと深く、労働における人間性の抹消、圧殺が行なわれています。

 自民党政権は、派遣業界が巨額の利益を獲るようにしました。昔の言葉ではピンはねでしょう。「此処よりはいるものすべての希望を捨てよ」。地獄の門

    「労働は自由を得させる」。ナチの強制収容所入り口に掲げられた文字

 ラケルの思い出、出会い以来二人は多くを共有して来た。かけがいのない、代替不能なものとして共に生きてきました。これこそ創世記2章が描くアダムとエヴァの姿です。創造の秩序本来の姿です、古臭いかもしれません。しかし値打ちのある生き方です。

感謝しましょう。