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2008年5月11日

《ヤコブは故郷を目指す》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記31:1〜21

聖霊降臨日・ペンテコステ、
聖書日課 ヨハネ14:15〜27、エゼキエル37:1〜14、
使徒2:1〜11、詩104:24〜30、
讃美歌16,499,349、  交読文26(詩104編)

連日の夏日、立夏を過ぎたそうでして仕方のないことですが、暑いですね。早くこの暑さに慣れなければならないようです。少年時代と較べると夏の期間が長くなっています。早く始まり、遅くまで続いています。十二月から冬の寒さとなり、四月まで。
五月に夏の暑さ、これがおよそ十月末まで。昔は合着というものがありました。今ではひと月ずつしかありません。横着していると、全く合着なしで冬から夏、夏から冬になってしまいます。季節感が変わっていることは確かです。
これを書いたのは木曜日、これを書き始めたときのこと。まさか金曜からこれほど寒くなるとは、考えることが出来ませんでした。

私は東京生まれ、東京育ちですが、昨今の東京は余りにも違いすぎます。もっと早く、昭和20年代半ば過ぎから変貌が始まったように感じます。朝鮮特需による戦後復興時代です。有名な練馬大根の産地で、一面の畑や森や林であったところが次々と住宅や店になる。小学校を卒業して数年、久し振りに遊びに行くと全く変わっている。かつて遊んだ林も小川もなくなり、故里の面影もありません。
大阪も川や橋がなくなり、古い文化住宅も消えて、天を突くような高層マンションが都心部にも建設されています。昔を知る人には寂しいことに違いありません。日本中で故郷喪失が起こっています。

創世記のヤコブは、南の暑い砂漠地帯から北へ、直線距離で700キロ以上旅を重ねました。そして20年間、どちらかといえば冷涼な高原の水も豊かなハランで生活してきました。飼育技術も高くなり、家族も増え、家財も豊かになりました。この土地に定住しても良さそうです。何よりも気候が良いところです。水を探し求め、炎暑の太陽を避ける心配も必要ありません。快適な環境です。

 関西をはじめ各地から東京へ行った多くの人が、そのまま東京に定住し、郷里へはたまに帰るだけになっています。なんでもある。何でも東京なら手に入る。何しろ日本の中心ですよ、とよく聞きます。何より快適環境なのでしょう。

ヤコブは豊かになった時、生まれ故郷へ帰りたい、としきりに願うようになりました。
母親の実家であり、伯父ラバンがいます。その娘が自分の妻です。快適環境。そのまま定住の道を選んでも良さそうに思えます。彼はなぜ故郷を思うのでしょうか。
中国晋代の詩人陶淵明は、『帰去来の辞』で「帰りなんいざ、田園まさに荒れんとす」と詠いました。優れた行政官が、その官職を辞して郷里を志します。郷里が私を呼んでいる。ヤコブにはそのような敢えて断ち切るべき官職などもありません。郷里が荒れているということも聞きません。郷里の呼び声も感じません。

母への思い、兄への恐怖、父を騙した悔恨。これらの思いは相互に干渉し打ち消しあうでしょう。帰りたい、帰りたくない。
自然・生活環境の余りにも大きな違い。これは懐かしいものですね。しかし20年間は、新しい故郷を感じるにも不足はなさそうです。

自立への強い願望は口に出されました(30:25)。しかし帰郷への決定的な理由とは思えません。なぜなら、ハランにいても自立は出来るはずです。そのための財産分与でした。
ラバン一家との対立、これはあり得ることです。財産の分与をめぐって怒りを招きました(31:1)。ヤコブは我々の父のものを奪い取ったのだ、と彼らは言います。ヤコブはラバンのものを奪い取ったのではありません。技術によって増し加えたのです。ヤコブにとって、神が与えたもうものです。ラバンのものは少しも減っていません。変わることなく、順調に増えています。ヤコブには、ラバンの息子たちの怒りが正当であるとは思えません。
しかもこの地は広く、誰でも望むなら自立的な生活が出来ます。それでも決定的な望郷の理由ではなさそうです。

思い出すことがあります。それはベテルでの神の約束です(創世28)。ヤコブは財産も増え、家族も多くなり、落ち着いたところでようやくに思い出したのではないでしょうか。「私が守り、この地に連れ帰る」という約束でした(15節)。何時までもこの地に居てはならないのです。連れ帰っていただかなければなりません。そのことに気付いたのです。         そのことが語られています。

3節「主はヤコブに言われた。あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい」。
神の言葉は、私たちに歩む道を教えます。

ヤコブは自分の二人の妻を、家畜を飼う野原に呼び寄せます。そして語ります。
一つは、ラバンの態度が変わったことです。どうやら最近のことだけではなく、もっと前から勝手気ままな態度があったようです。利己的、自己中心的であり、不実。随分と腹に据えかねてきた、と語ります。ここで興味深いのは、ラバンの気まぐれに近いような態度と対照的に、ヤコブの父の神が不変であり、変わることなくやコブと共にあり、守ってくださったと語っていることです。

 これはラバンの神とヤコブの神を比較し、どちらが神としての質を持っているか、二人の妻に示そうとしているのでしょう。勿論、読む者たちに対しても。

もう一つ語られるのは、ヤコブの神はラバンのものを取り上げヤコブに与えた、ということです。ラバンの息子たちは、ヤコブが奪った、と言って怒りを発します。しかしヤコブは、それは私の神の力だ、というのです。古代人の信仰にあっては、神は地につくものです。各民族には領土があり、その神はその領域を越えて、力を及ぼすことは出来ない、と信じられています。ところが、ここでは、聖書の神が領域を超えて力を及ぼすことの出来る全世界の神である、という信仰が顕れています。偶像の神々を問題にもしないで一蹴してしまいます。

彼は自分の希望として、郷里へ帰りたい、と語ります。その背景をなすのは、神の言葉です。私たちは、信仰者として成熟に向かうヤコブの言葉に学びます。信仰者の言葉は、神の言葉に裏付けられるとき輝きを放ち、真実なものとなり、説得力を持つ、と。

ヤコブの言葉を聞いたラケルとレアは答えます。今日風に言えば、親離れした娘たちとなりそうです。内容は、はるかに厳しいものがあります。

ラバンは娘たちを他人のように扱ったようです(15節)。続いて読むと、娘たちが父親をどの様に見ているか、あの結婚をどの様に理解したか分ります。
父の家に私たちの嗣業はない。
父は私たちを売った。その代価は使い果たした。
神が取り上げられたものはすべて、私たちと子供たちが、本来受けるべき財産です。
その故に、神が告げられたとおりに、すべてを携えてここを去りましょう。

ヤコブは、妻たちを呼び寄せるに際して、決意を固めていたようです。二人の妻もそのことを理解していて、夫に言います。今すぐ、と。ヤコブはそれに答えて、その場からカナン目指して旅立ちます。ラバンは留守だったのでしょう。ラケルは父の家の守り神を盗みます。土を練って作ったものでしょうか。明らかにラバンはこの偶像信仰の人でした。
パダンアラムのハランは、ネゲブに較べると快適環境です。しかしもっとも大切な一点でその快適さが損なわれていました。ここに顕れた偶像礼拝です。

七日路ほど行った所でラバンたちに追いつかれます。ギレアドの山地とされます。
ヨルダン川の東にヤボク川が流れます。その北側が北ギレアデ、南が南ギレアデとなります。ハランから家畜を追いながら、十日間でも、ここまで来るとは考えられません。記者の筆によるフィクションでしょう。次の場面、32章、「ヤボクの渡し」のための準備です。

神はラバンに対して言われました。「ヤコブを一切非難しないように」と。そのためラバンはヤコブに父親らしいことを言います。それでも、守り神を盗んだことは厳しく追及します。それに対してヤコブは答えます。

「私は自分の妻を奪い取られることを恐れて抜け出しました。守り神のことは知りません。調べて取り戻してください。盗んだ者がいるのなら生かしてはおきません」と。

ヤコブはこの盗みのことを知らなかった、と説明されます。

 ラケルは、守り神の像を駱駝の鞍の下に隠し、その上に座ります。そして捜しに来た父親に言いました。「私は今不浄な時期であり、立つことが出ません」と。こうして隠し通しました。偶像を奪うことにどれ程の意味があるのか、不明です。大事なことであれば、この偶像の今後が語られるはずです。ここだけです。ということは、持ち去られ、探す者に何も言うことも出来ない偶像の無力さを示します。更に女性の下に置かれてしまうことで侮蔑しているのです。この女性たちが、これから向かうのはまことの神を礼拝する善き民の中であることを主張します。

福音とは何か、語る人によって異なります。
ある牧師は、終生十字架のキリストを語りました。もっともなことです。私の恩師もそうでした。
それに対して十字架ばかり強調するから日本の教会は、心の病気に対して力がないのだ、という考えもあります。牧師自身が、その家族が心の病気になります。

甦りを語ってください。これこそ福音です。

十字架と甦りは、二者択一ではありません。二つはセットです。

十字架と甦りのキリストを語りましょう。
ここでは、偶像の神々は人間の不実を導き、唯一の神は変わることなく、その民を守ること、すべての所、時においてその力を発揮され、導かれることが語られました。

いつもわたしを見守り、導き、必要なものを備えて下さる神が、私たちの前に、傍らにおられます。感謝しましょう。