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2007年6月24日

《個人に対する教会の働き》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書15:1〜10

聖霊降臨節第五主日、讃美歌67,239,287、交読文24(詩100篇)
聖書日課  エゼキエル34:1〜6、使徒言行録8:26〜38、詩編23:1〜6

聖霊降臨の記事を注意深く読むと、そこには一つの順序があることに気付かされます。
先ずその家全体にかぜが響いた、と記されます。その後、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどま」りました。これは、聖霊は先ず教会に与えられ、その後、教会を通して、個人個人に与えられた、という事情を表す記述と考えられています。
プニューマとパラクレーシスを聖霊と訳している。後者は「慰め」を意味する。

はじめに短く、旧約の二箇所を読みましょう。

まず、エゼキエル34:1〜6です。「イスラエルの牧者」と言う小見出しが付いています。読んで行くと驚かされます。それはむしろ偽りの牧者の描写なのです。羊飼いが羊を養うのではなくて、その羊を食い物にする、と語られます。

サムエル記上8:11〜18、イスラエルの王の慣わしとよく似ています。

古代イスラエルの民衆は、周囲の国々と同じように王による統治を求めました。中央集中的国家になることで強い国となり、豊かな生活が出来る、と期待しました。王は国民を守り、救い、敵を追い払う、と考えたのです。ところが預言者サムエルによって伝えられた神の言葉は予想外でした。王は国民を守るよりもその国民を自分の食い物にする。自分の利得のために利用する、というのです。

これと全く正反対なのが詩23編。まことの羊飼いの姿が示されます。 

詩編23篇は、多くの人に愛されてきました。田園風、牧歌的なところが日本人にも好まれるのでしょう。訪問した時には、良くこの所をお読みして参りました。

最近、次のようなことを読みました。

「私は詩編23篇が大好きです。何故かと言うと、あの詩編には神が私たちにしてくださることだけが歌われていて、私たちにああせよ、こうあれ、というような要求が何もないのです。窮屈な世の中で生きてきて、この詩編にたどり着くとホッとします」。

何方が、何処に、書かれたものか全く記憶がありません。
でも、その中身に非常に心惹かれ、忘れられませんでした。

ルカ福音書15章は失われたものの譬となっています。
最初に現れるのは、徴税人や罪人たちです。彼は、その当時イスラエルの多くの普通の人たちからは落ちこぼれでした。イスラエルの正当な民なら、ヤハウェの律法を残らず守らなければなりません。ところがこの人たちは、禁じられている事を生活の手段としているのです。徴税人は、穢れた外国人、異教徒と取引をしています。その穢れを国中に撒き散らしている、と考えられています。ここで言う罪人は、現代の刑法犯とは違います。
ユダヤ社会を規制する律法を一つでも守らなければ、そのことで罪人となります。
彼らとお付き合いをする人は、その穢れを身に引き受けることになります。

 それに対しファリサイ派の人々は、律法に対する熱心さで知られていました。古い律法ですが、それを時代に合わせて合理化して、日常生活で厳格に守ろうとする人々でした。語源的にも、律法を守らぬ者たちから自らを分離させる、という意味であるとされます。

当然彼らは、徴税人や罪人たちから自分たちを引き離す事を当然としてきました。

ファリサイの人々は、穢れた者たちと一緒に食事をするイエスを非難しました。
正当にも「この人は罪人らを迎えて」と言いました。受け入れて、という意味があります。

共に食事をする、というのは、ファリサイの考えによれば、彼ら・罪人らの穢れをも受け入れることだったからです。イエスは将に、悔い改めを必要とするこの人たちを全面的に受け入れ、その穢れも受け入れられたのです。

そして二つの譬を語られ、更に長い大きな譬をお話になります。

初めは、九十九匹と一匹の譬です。所有全体は100匹、失われたのはその1パーセント。失われた一匹を求める心、一匹一匹を知っておられるのです。それだからこそ、見出した時の大きな喜びが語られます。ここでは、イエスを非難しているファリサイの人たちに、一緒に喜ぼう、と呼びかけているように感じています。

次は、失われた一枚の銀貨の譬です。ドラクメはギリシャの貨幣の単位です。ローマのデナリオンに相当します。一単位は当時の労働者一日の賃金に当たります。10枚のうち1枚を紛失しました。床にはおが屑や藁が敷いてあったのでしょうか。灯火を点して家中を掃いて探す、見つけて近所の人と共に喜ぶ、と言います。

先週21日、木曜集会の間に、止揚学園の職員お二人がお訪ねくださいました。
そのうちのお一人は、どうやら止揚シスターズのメンバーで、山形県の米沢の出身。

その方の経験した最近の出来事。

「職員が厨房で食事の支度をしていた。卵を割り始めた。38名と職員のオムレツ。
園生の一人が入ってきて、卵割るの大変だね、手伝うよ。幾つ割るの。100個。
どうしよう、この子は3個までしか判らない、どうって100を理解させようか。すると。
皆の分だろう、と言って、ぶつぶつ言いながら割り始めた。よく聴くと、これは健二の分、
これはミーちゃんの分、一人一人の名を呼びながら卵を割っている。感動した」。

私もいささかの感動を覚えました。私たちの頭は、人や物を集合体として理解することが出来ます。100個、50人と理解することが出来ます。その結果、その集団を形成する一人、一つを忘れることが多くなりました。

刑務所の管理などはその典型かも知れません。人の名前を消して番号で呼ぶ。効率的なのだそうです。効率は悪いだろうが、止揚学園の園生のほうが一人一人を覚えています。あの人たちに神から与えられた恵みなのです。数を数えるような知的認識力は失われました。それ以上のものが与えられたのです。他者を認識する、一人一人を覚える、その喜びと感動を生み出す。不思議な力です。

一人が悔い改めるために、神はどれ程に配慮されるか、そして救われた者のためには如何に大きな喜びが、天において見られるか、ここに語られています。

聖霊が与えられるということは、守り、導き、慰めたもう主が共に居られることです。

エゼキエルの預言する偽りの羊飼いではなく、詩編23篇の、真の牧者が共にいてくださるのです。家全体に聖霊が響き渡ったように、家全体にパラクレーシスも満ち溢れ、更に一人一人を満たしてゆきます。個人に対して神の力が行き渡るように教会は配慮してゆきます。決してそれを邪魔することがない様にします。

教会は一人びとりに対する神の招きを、守り、導き、慰めを語り続けます。