早くも第二の月になりました。お正月を何時迎えたのか、随分昔のような気もします。
立春を過ぎ、急に日の光に温かさを感じるようになりました。
さて本日は、《新しい教え》という主題で聖書を学びます。新共同訳、ルカ5:39以下には『断食についての問答』という小見出しがついています。
私たちは、断食をすることは、余りありません。食料がないため断食をやむなくされる、ということがこの世界にはあります。経済的理由で断食、飢餓状態で死亡、最近報じられたことです。飽食の日本で。驚くべきことです。
健康のために断食する人があります。断食道場があり、そこへ行き、料金を払って指導を受ける。ある若い牧師は、そこへ行き、倒れてしまった、と聞きました。
これらの断食は、ここで問答されるものではありません。
本来の断食は、諸宗教に共通する苦行的行為です。宗教目的のため、一定期間の飲食を自発的に禁じることです。ユダヤでは、施しと祈りに並ぶ三大宗教行為とされています。彼らは、毎週火曜日と木曜日に断食しました。イスラム(モスレム)も同じようです。ラマダーン(断食月)は、報道により、良く知られるようになりました。
モーセは、申命9:18によれば、イスラエルの罪のため、「40日40夜、主の前にひれ伏し、パンも食べず、水も飲まなかった」。
ダビデ王や預言者エリヤは断食をしたようです。ユダの王、ヨシャファトはモアブ、アンモンとの戦いに備えて断食し、「主を求め」ます。
断食に関する記述は、ネヘミヤ書、エレミヤ書、ダニエル書、ヨエル書、ゼカリヤ書などに見られます。詩編35:13、109:24、イザヤ58:3、5、などにもあります。
いずれも後期ユダヤ教、捕囚後のイスラエルの間で見られるものです。
ヨナ書は、アッシリアの都ニネベでのヨナの預言活動の結果、王を始め全国民が、悔い改めて断食をしたことが記されます。アッシリアの宗教的習慣としての断食か、民族の風習か、それともイスラエルの習慣を受け入れてのものかは、知ることが出来ません。それでも諸宗教・諸民族に共通する行為であることが解かります。
イザヤ58:6をお読みしましょう。
「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。
悪による束縛を経ち、軛の結び目を解いて
虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。」
断食が、個人的・表面的な行為から、社会的・倫理的行為へと発展していることが解かります。
主イエスは、宣教を開始するに当たり、40日間の断食を荒れ野でなさっている(マタイ4:2)。イエス・キリスト御自身は、外的行いよりも内的謙遜に重きを置き(マタイ6:16〜18、9:14〜17、12:1〜8など)、明確な断食の規定はしなかったと考えられます。
初代教会以降、さまざまな機会に断食が実施されています(使徒13:3、14:23)。教会では毎週水曜日と金曜日に断食されました。その目的は、罪の償いや苦難に際する嘆願、とりわけイエスの受難に与る意味合いが強いとされます。受難への追従から、毎週の金曜日や四旬節に特に断食が奨励されます。時代や地域によっても、断食の規定と習慣はかなり変遷しました。180日間の断食が、中世のある教会で行なわれた、と伝えられます。
使徒27:9にある『断食日』は「贖罪日」と同じ日であると考えられています。
この日は、ティシュリの月(太陽暦の9月中旬から10月中旬まで)の10日(ヨム・キップール)で、大祭司はこの日に至聖所に入り、全国民が罪の懺悔のために断食をする定めになっています。現代のユダヤ教では、新年の祭りの一つとされています。
これは、レビ16:29以下(188ページ)の定めに基づきます。永久・不変の定めとされ、数々の苦行が求められています。どのようなものでしょうか。スタディ版を見ましょう。
「ここでの苦行は、贖罪日に過去の罪を嘆き、悔い改めること。安息日は七日目ごとの休息の日、金曜日の日没と共に始まり、土曜日の日没に祝福の祈り(祝祷)で終わる(出エジプト20:8〜11、申命5:12〜15)。苦行をするの原義は『魂(喉)を苦しめる』。断食をする、地面に眠る、体を洗わない、香油を塗らない、衣を替えないなどであろう(サム下12:16〜20)。第七の月の十日(大贖罪日)が安息日に当たらなくても、労働は禁止される。」
この規定にある「年一回」を、後の人は年四回としました。ファリサイ派の人たちはそれを月曜と木曜の週二回と定めました。またここに言う祈祷も、一定の期間を限った儀式的祈祷を言うのでしょう。見栄のための長い祈祷も含まれているでしょう。断食していると見せるためによろよろ歩いたり、人目につくように施しをしたりすることもありました。
このような宗教的な断食についての問答が、イエスと人々との間で交わされます。
洗礼者ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、度々断食し、祈っている。しかしあなたの弟子たちは、そうはしていない。何故なのか。これは質問ではありません。むしろ詰問というべきでしょう。けしからんという意味が籠められています。
共観福音書は、この問答の前に、レビという徴税人が弟子とされ、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催したことを書留ています。ファリサイや律法学者たちは、その席に入ることができなかったことの意趣返しをしている、と書いた註解者がいます。
食い物の恨みは怖い、と言われるとおりです。
これに対する主イエスの答えは、断食するにも時がある、というものでした。
婚宴の客に断食をさせることはないでしょう。それは喜びの時、祝いの日々だから。
しかし花婿が奪い取られる時が来れば、おのずから断食をすることになります。
これに続いて、もう一つの譬を話されます。二つで一つになっています。
新しい服から布地を切り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。昔は、なんでも手作りでした。一つのものを大事に、長持ちするように扱いました。継ぎをするのは当たり前。布地が薄くなり、透けて見えそうになり、引っ張れば裂けてしまう、というところで衣服としてはお役御免。新しい布地は強さがあります。弱くなったものの継ぎ当てには不適当です。新旧の混在は、無理があり、かえって他を損なうことになります。
次はブドウ酒の皮袋です。ご存知のようにブドウ酒は、ブドウの実を発酵させます。
出来上がった、と言ってもまだ生きていて、発酵が続くそうです。そのためにコルク栓をして,息・呼吸をさせるようになっています。新しいブドウ酒は、皮に強度がある新しい皮袋に入れます。古い皮袋に入れると、その発酵する時に発生するガスの力で破れてしまう、と言います。これも新旧混在の困難を語ります。
主はここで御自分の教えを新しいものとされ、ユダヤの律法とそれを守ることで自分の義を建てようとする人たちを古い、とされます。しかし、古いワインを飲んでしまうと、新しいワインに手を出そうとはしません。古い律法主義に馴れ親しんでしまうと、それを凌駕するよいワイン、イエスが現れても、誰も飲もうとはしない。39節からは、主イエスの嘆きが聞こえてきます。飲もうとはしない人たちを惜しむ心です。
本日の主題《新しい教え》は、イエス以前の律法に対して新しいものを指しているようです。確かに、主が語る教えは、モーセの掟より新しい。然し、今、新しいものも、次の瞬間には古いものになり得る。
そのような意味なのでしょうか。永遠の新しさはないのでしょうか。
新しい、ということに関する考えを拾ってみました。
旧約、エレミヤ書2:13、「まことに、わが民は二つの悪を行なった。生ける水の源であるわたしを捨てて 無用の水溜を掘った。 水をためることの出来ない 壊れた水溜を。」
17:12、「あなたを離れ去る者は 地下に行く者として記される。 生ける水の源である主を捨てたからだ。」
プールの水と泉から湧き出て、流れる水が比較されます。エレミヤ17:8は、その流れのほとりの麗しさを歌います。新しい水とは湧き出て、尽きることなく流れるものです。
新約、ヨハネ4:10、主はサマリアの女に、活きた水を与える方がいることを示されます。 そして14節、「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
ローマ教会は、水を象徴として大事にしています。主イエスが言われる水は、どのような意味を持つのでしょうか。命に至る水です。洗礼の水でもあります。
尽きることのない生きた水は、私たちにとって、主イエスの生ける御言葉です。
新しい教えは、今も生きて働き、永遠の命に至らせる力があります。
感謝して祈りましょう。