大寒の日は寒かったですね。それに較べると今日辺り、過ごしやすいように感じます。
本日の主題は、《最初の弟子たち》。ルカ福音書5章です。
最初の弟子たちが招かれたことは、三つの福音書がしるしています。
マルコとマタイは良く似ています。ルカは、大漁の奇跡を結び付けました。その中で、何が語られているのか、大切なことは何か、ご一緒に読みましょう。
ガリラヤの湖畔につながれた二艘の船の漁師たちは、既に生業を持っていました。
恐らく親譲り、代々の仕事。魚獲りの業は、皇帝への貢ぎ物にもされる重要な仕事。
誇りをもって、従事できた。しかし、そうした力を総動員しても思い通りにはなりません。
漁のないときもあります。失望、落胆、挫折感、無力感、不安。
それでも明日への希望を抱いて、網を洗い、次の出漁に備えようとしています。
がリラヤの湖畔に立つイエスを目指して、群衆が押し寄せてきました。
彼らは何を求めているのでしょうか。今の日本では、思いもよらないことです。
神の言葉を聞こうとしてやってきました。
ガリラヤ湖畔に集まってきた人々にとって「神の言葉」とは何でしょうか。
ユダヤ・イスラエルの民にとって、唯一の神、ヤハウェの言葉は、命であり、水であり、食べ物であり、これなくしては生きることが出来ないものでした。彼らは、生きることを求めてやってきました。イエスは、それに応えようとされます。
次の漁に備えて網を洗っていたペトロに,船を岸から少し離れた所まで漕ぎ出すよう依頼します。シモンは、船を出します。彼も様子を見て、押し寄せる群衆から離したほうが良い、と判断したのでしょう。この舟の中から、群衆に語られました。残念なことに、その内容は分かりません。でも、きっと大部分は福音書の中に納められているでしょう。
シモン・ペトロは、彼の船に乗り込んできて、人々に語りかけるイエスを身近に見ました。眩いばかりに輝いて見えたことでしょう。当時権威を認められていたラビ以上のラビ、大先生と感じたでしょう。メシアはこの人か、と思わせたに違いありません。
その大先生が、再度ペトロに声をかけられました。最初の時は、言われるままに船を出しました。今回は、その教えを聞きました。教えの権威に驚きました。もっと深く従いました、と言いたいのですが、そうでもありません。
自分の仕事に誇りをもっている人たちに、イエスは語りかけます。4節
「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」
それに対するペトロの応えは二段構えです。5節
長年の間の経験に基づき、蓄積してきた知識・情報・技術があります。時間、風、浪、温度、すべての頃合を計り、最善の仕事をしてきています。
成功してきました。誇りがあります。
イエスは、それを無視します。
恐らく漁師たちは、この夜の状況では、魚は岸辺の浅い所で獲れるはず、と考えたのでしょう。一晩中働いたのに何も取れなかった、これが前段の応答です。自己主張します。力の限りを尽くしてやっているさ、ダメな時もあるよ。
後段では、この主張を引っ込めます。「然し、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。
ペトロは、イエスの言葉を拒絶しようとします。それを「しかし」という言葉で翻します。
恐らく言いかけて、急に気が変わった。この人の言うままにしよう、と考えるようになった。短い間に、イエスはペトロに対し権威を及ぼす者になっていることが解かります。
その権威は、更に膨らみます。
私たちは夜通し、働いたが徒労であった。
それはそうであるが、私は、先生のお言葉に従い、もう一度やってみましょう。
ここには主語の交代があります。
「私たち」は漁師の仲間です。共にさまざまな経験を重ね、一つの絆を築き上げてきました。それを打ち破るように「私」が出てきます。
日本人である私たちは、仲間意識が強いのでしょうか。皆がこう言っている、私たちはこう考える、と言うことが多いようです。私が、と言えば、その責任を追求されるためもあるでしょう。「出る杭は打たれる」、とも言われるので、遠慮しているかもしれません。
たとえそのような事情があっても、信仰の告白においては、個別になされることが求められます。そのことを示すのは、教団の信仰告白です。
前半部では、「我ら」が主語とされます。そして後半部の始まりで、「我らはかく信じ、代々の聖徒と共に使徒信条を告白す」として、時代を超えた信仰の一致を示し、表します。使徒信条は、我が主語です。
信仰においては個人の告白と集団・教会の告白がバランスを保っていることが大切です。
私の告白は、教会に支えられ、教会の告白はわたしによって守られています。
どちらもキリスト・イエスの導きの下に置かれていることは、言うまでもありません。
ペトロと三人の仲間にとって、これはその人生を転換させる大事件です。
しかし、世界帝国ローマの辺境で起こった一小事件に過ぎません。それが、世界の歴史にかかわる大事件であったとは、一体誰が知りえたでしょうか。当人たちも、家族や周囲の人たち、だれもそれを知りませんでした。
お言葉の通りに網を降ろしました。その結果は如何なものでしょうか。
「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」もう一艘の仲間に助けを求め、二艘の船は魚で一杯になりました。そのため、舟は沈みそうです。凄い!
二杯の船の仲間は、シモンとアンデレ,ゼベダイの子等のヤコブとヨハネです。ただし、理由はわかりませんが、アンデレの名前は、ここでは出てきません。
この大漁は、彼等に喜びよりも大きな驚きと恐れをもたらしました。
シモン・ペトロは、イエスの足元にひれ伏し、言います。
「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです。」
仲間の者たちも同様でした。神の力の顕れを目の当たりにして、彼らは、自分の罪を自覚、認識し、それを告白しました。「離れてください」とお願いするのは、清いお方の臨在によって、罪深い者は破滅する、と信じられていたからです。
恐れる者たちに主は言われます。「恐れるな」、恐れのないときには、恐れなさいと言われるでしょう。恐れ、不安になっているからこそ、平安をお与え下さいます。
「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。彼らは、良く理解できたでしょうか。「人間を取る」ということは、彼らにとっても、聞いたことのない言葉です。理解できないでしょう。今日では、伝道すること、と理解されます。
方法や目的、報酬などはしめされません。それでも、シモンと仲間たちは、船を陸に引き揚げ、すべてを捨てて、イエスに従いました。
イエスは、シモンに語り掛けられました。この言葉は、シモンだけではなく、一緒に居た仲間たちにも聞こえました。その時、皆に対する言葉となり、語りかけ、声かけとなります。ですから、仲間は、共に決断し、共にイエスに従います。
イエスの弟子であることの条件が、ルカ14:25〜27,17:33 などにあります。
そのうちの一つが、このところと関係するように感じます。
9:23「私についてきたい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、私のために命を失うものは、それを救うのである。25節 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、なんの得があろうか」。
弟子になるためには、全てを捨てなければならない、と読めるでしょう。
彼らは強いられてでもなく、教えられてでもなく、自発の意志で、大事な生業を捨て置いて、イエスに従いました。父親に対する孝養の義務はどうするのでしょうか。生活は
イエスの甦りの後、弟子たちはどの様になったか、何をしたか、ヨハネ福音書21:1以下が語ります。シモン・ペトロ、ディドモ・トマス、ナタナエル、ゼベダイの子達、ほかに二人の弟子は、ガリラヤ湖で漁をします。何もとれません。夜明け方、岸に立つ一人の男、「船の右側に網を打ちなさい」。その通りにすると、魚が多すぎて、網を引き上げることが出来なかった。主イエスであることが解かります。共に食事をします。
このことから、ペトロたちは,離れたのであって、棄てたのではなかった。いつでも戻ることが出来たのです。主イエスは、そのことを少しも非難しておられません。かえつて、手伝っておられます。本当の意味で捨てるとはどういうことでしょうか。それは自由になることです。財貨や、名声や、栄光などに束縛されない生き方、考え方になる事です。
弟子たちは、甦りの主イエスとの出会いによって、捨てることが出来ました。弟子となりました。
弟子とは、師匠に学び、従う者を言います。
百万人が反対しても、先生の言葉に従う者が弟子です。自分の中の何かが反対しても、師匠に従います。「お言葉通りに」従った時、弟子となりました。罪を自覚します。
福音書記者ルカは、弟子たちの招きを罪の赦しの権威と結び付けました。
個人の罪の赦しは、全ての者、全世界の罪の赦しへと展開されます。
個人の人生を転換する出来事を世界の歴史を転換することへと拡張されました。
一人の人への語り掛けが全ての人に聞かれ、答えられるものであることも示されました。
そして私たち一人びとりもその只中に置かれています。
聞いた御言葉に、真実に応える者が弟子となります。
イエスの言葉を受け入れ、全く従う者が、一人でもおれば、その周囲から変わって行きます。三・四人おれば地域が、社会が変わります。これは母教会の恩師が良く仰ったこと。
たとえそれが一人であっても、イエスの言葉に真剣に従おうとするなら、その人が変わり、家庭が変わり,周囲が変わります。勿論、教会が変わります。
感謝して祈りましょう。