降誕前第七(三位一体後第24)主日、聖徒の日、逝去者記念日、天王寺教会合併記念日、
讃美歌24,354,284、交読文41(マタイ伝5章)
聖書日課 創世記18:1〜15、ローマ9:1〜9、ルカ3:1〜14、詩編105:1〜13、
11月といえば秋のはず、ところが体が感じるのは冬です。どうしたことでしょうか。
簡単な答えがあります。上空に北からの冷たい空気が入り込んでいるために寒いのです。
関西・大阪だけが寒いわけではありません。北海道、東北、関東、倒壊、中部も軒並み、気温が下がっています。前主日は御殿場でしたが、北側の山は雲をかぶって、その姿を見せてくれませんでした。地元の人によると、雲の下は雪が降っているのではないだろうか、ということでした。昔の二合目、今の新五合目は「太郎坊」と呼ばれる「馬返し」です。
雲はこの辺も隠していますが、雪はここまでは来ていないでしょう、と判断していました。
昨日、東京集会の帰りに見た富士山は、天辺に少しだけ白いものが見えました。後は下まで全て褐色。本格的な冬はまだまだこれからのようです。
東京集会の皆様から、玉出の皆様によろしく、とのことです。
本日の日課はローマ書9:1〜9、ここには、パウロの同胞ユダヤ人に対する切ない思いが記されています。使徒言行録を読むと、パウロの伝道旅行がどれほど大変なものであったかが良く分かります。古代世界を旅するのです。今でも道路網が充分に整備されているとは言いがたい小アジアを往来しています。これは旅に出れば、誰もが同じように経験する労苦かもしれません。
彼は自分の楽しみや利得のためではなく,主イエスの栄光のために旅立ちました。その労苦は、?コリント11:22以下に記されます。338ページ。
24節「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度」。
新共同訳は24節末で終止符を打ちます。ギリシャ語写本は、本来句読点なしで続きます。
ネストレー・アーラントは、25節末までを一つの文章とします。こうするとユダヤ人からの鞭打ちは五度だけではなく、「鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度」、あったと読むことも可能です。それに続く難船、漂流は、ユダヤ人からとは言えません。
同胞であるユダヤ人から、幾度も鞭を加えられました。ユダヤ人はその律法の命じるところに従い、肌を露出することを致しません。せいぜい袖をまくりあげる位のことです。
イスラエル南部、スデボケールのキブツへ行った時のことを思い出しました。午前中に仕事を済ませると、お昼まで少し時間があります。その間にプールに入り、汗を流しました。そのとき一緒に入ったのは、スイスから来た青年たちでした。同じユダヤ人でも、現地の人たちとは律法に対する意識が違ったのでしょう。
キブツの人達は、自宅にシャワーがあり、そこで汗を流したのでしょう。他の人々の前で、自分の肌をさらすことはしませんでした。
鞭打ちは、肌を露出することを伴います。ユダヤ人パウロにとって、打たれる痛さ以上に大変な屈辱を伴うことでした。
パウロは、繰り返し繰り返し、ユダヤ人たちから屈辱を与えられました。それでもパウロは、そのユダヤ人を自分の「兄弟たち、つまり肉による同胞」と呼びます。
切ない思い、と言ったわけです。現代日本では、幼児への虐待が報じられます。自分の母親に甘えたい、その仕草を嫌われるのでしょうか。母親の男から殴る、蹴るの暴行を加えられる。
母親は、わが子を守ろうともせず、男と一緒になって暴行する。
この時の子供の心と、愛する同胞から暴行を受けるパウロの嘆きが重なってきました。
パウロは、どれほど苛酷な取り扱いをされようとも、その肉による同胞、ユダヤ人を愛し続けます。彼らが、キリストによる罪の赦しを与えられ、それを信じて平安を得ることを望み続けます。ユダヤ人から、嘲られ、罵られ、排斥されても愛し続けます。彼らが肉による、血筋のイスラエルであることから、約束に従って生れるイスラエルとなることを願って止みません。
パウロは異邦人に福音を伝え、異邦人伝道のチャンピオンと呼ばれます。然し彼にとって,これは最終目標ではありません。
異邦人に向かいながら、彼の心の中では、愛する同胞、肉の兄弟であるユダヤ人のことが片時も離れません。そのためなら、この身が呪われても、厭わない、と言います。
パウロは、肉による同胞が、約束に従って生れる兄弟となることを熱心に求めます。
イシマエルは、エジプト女ハガルによるアブラハムの子です。然し、彼は肉の子であって、約束の子ではありません。サラから生まれるイサクこそ約束の子です。
イサクには、双子の息子が与えられます。エサウとヤコブです。ヤコブはイスラエルとなり、エサウはエドムとなります。彼らの能力や功績ではなく、神の選びです。
アブラハム、イサク、ヤコブの選びは、一方的な神の御意志に基づきます。
本日の旧約日課は、創世記18:1〜15、アブラハム物語です。アブラハムは、たくさんのエピソードを創世記に残しています。
選び 創世記12:1.「時に主はアブラムに言われた。あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。」
父テラと共にカルディアのウルを出て、ハランに来た一家の者たちでした。そこでテラはなくなります。主なる神が顕れ、アブラムに命じます。
契約 創世記15:4「この者はあなたの跡継ぎとなるべきではありません。あなたの身から出 る者が跡継ぎとなるべきです。」
創世記15:5「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認めた。」
アブラハムの契約 創世記17:1以下、子孫を増す、アブラハムと呼ばれる、割礼を受けさせよ、妻の名をサライからサラへ、「彼女によってひとりの男の子を与える」。
ダマスコのエリエゼル、ハガルによるイシマエルを跡継ぎにしようとする。
イサクの誕生預言、18:9以下、夫婦共に、密かに笑う。
これらで見るアブラハムの姿は、必ずしも良いこと、信仰的な姿ばかりではありません。
ごく普通の、当たり前の人間の姿が描かれています。
18:1以下を見るとしましょう。場面はアブラハムが、その晩年を過ごしたヘブロンのようです。「マムレのテレビンの木の傍らで」、主はアブラハムに現れました。大きな木や石は、「高きところ」と呼ばれ、古代世界の礼拝所でした。アブラハムが、ヘブロンを愛したのは、この礼拝所があったためでしょう。
時は「昼の暑い頃」、と言います。中東では、暑い時は昼寝の時間です。そのような時間には、誰も旅をしようとはしないはずです。それなのに、突然三人の人が現れました。
いつの時代でも旅人は、情報源であり、学びたい人にとっては貴重な資産です。アブラハムは、三人を歓迎して、もてなしの支度をサラに命じます。
調理されたものを供え、アブラハムは使用人のように、傍らに立って給仕します。
このときアブラハムとサラは、99歳、89歳でした。
三人の人は言います。「来年の春、あなたの妻サラには、男の子が生まれているでしょう」。
天幕の入り口で、これを聞いたサラは、何を感じるでしょうか。
12節「サラは心の中で笑って言った。『私は衰え、主人もまた老人であるのに、私に楽しみなどありえようか』。」
客人は、アブラハムに言います。「何故サラは、笑うのか。主にとって不可能なことがありましょうか」。サラは、笑ったことを一生懸命に否定します。信じられないのです。
不信仰の笑です。
18章では、このようにサラだけが笑います。実はアブラハムも17:17で同じように笑っています。神がアブラハムに、「サラによって男の子を授けよう」と言われた時、自分たちの年齢を挙げて、笑います。百歳、九十歳で子供が生れるものか。顔を伏して笑います。
新共同訳は、「ひれ伏した。しかし笑って密かに言った。」と訳しました。口語訳は「ひれ伏して笑い心の中で言った」。この場面の真意は、アブラハムは、自分が笑っていることを悟られないように、顔を伏せた、ということです。
私たちが、何も知らずにこれを読んだら、夫婦の言うことに軍配を挙げるのではないでしょうか。私たちの知識、経験と合致しています。サラと同様に、不信仰の笑です。
アブラハムとサラは、人間の理性、知恵、知識、経験に基づいて、それと合致しないものを拒絶します。嘲笑います。現代の我々と全く同じです。
我々との違いは、神の力の顕れの前で悔い改め、信じる者になったということです。
アブラハムは、素晴らしい信仰者だから、憐みを被ったわけではありません。ただ神の憐みによって選ばれ、イサクを与えられ、信仰の父と呼ばれました。イシュマエルは、肉によるアブラハムの子と呼ばれます。イサクは神の約束によるものなので、約束の子と呼ばれました。
洗者ヨハネは、「神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と語ります(マタイ3:9)。
アブラハムは、決して信仰の英雄ではありません。私たちの信仰の先駆者です。
彼は私たちと同じように罪を犯します。同じ罪人です。み言葉を疑います。拒絶もするのです。人間的なものを優先するのです。
主は、そのようなアブラハムに確かな徴、イサクをお与えになります。
彼は、私たちよりも、もっともっと深く神の前に跪き、悔い改めています。
悔い改めはリセットです。神は私たちにリセットの機会を遺し、与えてくださいました。
感謝しましょう。