教団信仰告白、使徒信条を学び、ようやくその最後の言葉にたどり着いた。
アーメン、これは告白の最後であり、祈りや賛美の最後の言葉でもある。
その意味するところは、教会の私たちにとっては、常識と言ってよいだろう。
同意です、全くそのとおりです、同感、賛同、大きな肯定を示す言葉です。
長い間、私たちはアーメンによって、一つになっていると思っていました。それが砂上の楼閣のように崩れてしまうことを経験しました。
1970年前後、世界中の若者たちの間に革命熱が吹き荒れました。
フランスでは、パリの学生街カルチエ・ラタンが占拠され、解放区を称しました。
日本もその影響を受けて、学生、労働者がパリと共闘を組むのだ、と主張、神田に解放区を作ろうとしました。結局東京大学の安田講堂占拠、軽井沢の河合楽器寮の占拠、内ゲバ殺人と銃撃戦で幕を下ろしました。
その当時、労働組合の交渉に倣って、学園でも団交が行われるようになりました。
同じことが教団本部・常議員会でも、各個教会でも行われました。その席では、吊るし上げが常態であり、自分たちの思いにかなう祈りがなされたならば、アーメンではなく『そのとおり』という叫びが飛び交いました。
あの熱気が去って、若者たちはどこへ行ったでしょうか。少数の例外はありましょう。
大部分は、学園に復帰、エリートへの道を歩み続けました。もともと能力のある人だから当たり前かもしれません。復帰しなかった者たちも、現代社会に上手に適応して生きています。冠婚葬祭業で成功している人も。いったい彼らにとって、あの革命、彼らが否定した社会とは何だったのでしょう。否定し、拒否した彼らの運動は何だったのでしょうか。そこでの『アーメン・その通り』という叫びは何だったのでしょうか。
どこからも答えは帰ってきません。
水に浮かぶうたかたのように、虚空を漂う香りのように、はかなく消えてゆきます。
彼らだけではありません。私たちみんなが、同じ不信実をもっています。
それでも、彼らに真実を期待したことがあるので、例に挙げました。
不真実な人間にアーメンを口にする資格があるのだろうか?
これは、決して他人事ではありません。この私自身のことです。
この私に資格などあるはずがないのです。自己中心の、ご都合主義です。アーメンと唱えると即座に、冷たい風が吹き荒びます。
そのお前の言葉・アーメンは、真実を意味しているが、お前の中に真実がありますか?
どこを捜しても、真実のかけらさえ見つかりません。主イエスとは違います。
私たちはこれを賛美、告白、祈りの末尾に唱えますが、福音書のイエスの言葉、教えを読むと、アーメンが最初におかれています。これは大変顕著な特徴と言えるでしょう。
主イエスは、アメーン、アメーン レゴー フミン と言われます。
まことにまことに、汝らに告ぐ。よく良く、あなたがたに言っておく。
ヨハネ10:1、7「はっきり言っておく」。アーメン、アーメン、あなたがたに言う
私たちは、人間的な考えや思いにおいては、一つになることが非常に困難です。。
然し、主イエスの名によって求め祈るなら、父がお与えくださるものによって一つになれる。一つにされるのです。ヨハネ16:23(15:16)参照。
アーメンと唱えることが出来るとすれば、自分の真実・ピスティスではなく、キリストの真実に依拠するアーメンでだけなのです。人間の真実ではなく、キリストの真実によってアーメンを唱えることができるのです。一つになるのです。
ローマ3:22、キリストへの真実により義とされる、
「神は義なる方であり、イエスへの信仰によって生きる者を義とする方である、」
「イエスがもっている真実によって」
# イエス・キリストを信じる信仰によって・・・対格的、こちらが数的には有力、
# イエス・キリストの(がもっていた)信仰によって・・・主格的、
従来の論議は、ピスティスを両方共に信仰と訳していました。木下牧師は、主格的を採用すると同時に「真実」という訳語を導入しました。優れた発想、解釈だ、と私は受け止めます。
そして今夕の?コリント1:18〜20は、これらのことを端的に告げます。
キリストだけが真実である。この方において神の約束は全て成就した。その存在において、神の然り、アーメンなのです。だから私たちは、この方を通して、神を讃えるために、『アーメン』と唱えることが許されているのです。
私たちも、自分の弱さを恐れることなく、イエスの真実によって、祈り求めましょう。
力強く、感謝をもって、アーメンと唱和しましょう。