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2010年9月26日

《苦難の共同体》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
コロサイの信徒への手紙1:21〜29

  聖霊降臨節第19(三位一体後第18)主日
  讃美歌26,138,270、交読文35(箴言8章)
  聖書日課 創世記32:23〜33、コロサイ1:21〜29、マルコ14:26〜42、詩篇43:1〜5、

 21日、水曜日は大変蒸し暑い日でした。深夜には雨となり、翌23日、秋分の日から、急速に秋めいてきました。この後は晴天となっても、猛暑日には成らないだろう、との予報が出されました。30度を越えることはない、ということです。その通りになることを期待します。

 さて、本日の主題は、この時期に定められている《共同体》シリーズの三番目『苦難の共同体』です。
《奉仕する共同体》《キリストに贖われた共同体》《苦難の共同体》、2006年の説教が同じシリーズになっています。四年サイクルです。その時の聖書は、マルコ福音書14章でした。

 本日の聖書は、コロサイ1:21〜29です。
 コロサイ書1章には、発信人としてパウロの名が記されています。当然パウロの書いた手紙とされて来ました。ところが近年、これは真筆ではなく、パウロの名を借りて、後の人が造ったもの、と考える学者が多くなってきました。当時の習慣では、弟子が師匠の名を借りて著述をし、発表することは、師匠の名を高めることになる、と理解されていました。出来の悪い弟子が、下手な文書を作ってしまったらどうするのでしょうか。早めに追い払い、弟子ではありません、としたほうが良さそうです。
 師匠の名を借りて文書を作る弟子には、それなりの自信があるのでしょう。

 現代日本でも、師匠、弟子の関係は簡単に結ばれてはいません。師匠の名を借りる習慣こそありませんが、私の師匠、私の弟子、と恥じることなく言えるような人物を互いに選ぶものです。日本のディサイプルス教会は、戦後、小田信人・大木英夫両先生の指導のもとに天下の秀才が集まりました。今日、人材豊かな教会となっております。

 福沢諭吉は、慶応義塾の創始者として知られています。文明開化の推進者、近代化を進めたジャーナリスト。『時事新報』を発行して、その社説に健筆を振るいます。多忙な時や、晩年には、弟子に論旨を話して社説を書かせた、ということです。そのためか、全集の中には福沢の意見とは違うものが混ざっているようです。帝国主義的な侵略戦争の捉え方に、全く正反対のものが入っている、と言います。更に民族蔑視も書かれているそうです。
これらは『福沢諭吉の真実』という書で、平山洋氏が綿密に考証しています。
弟子を名乗っても、師匠を顕していない不肖の弟子もいるのです。

 コロサイ書の2:1、4:13では、ラオディキア教会に言及されています。地震の後の、復興に向けた支援が背景にあるのだろう、と推測する学者もあります。
 タキトゥスは、『年代記』14巻27節、「同じ年アシアの有名な町ラーオディケイアが、地震で壊滅する。だがローマからいかなる援助も受けずに、自力で立ち直った。」と書きました。
これはクラウディウス帝の時代、ローマ軍団がアルメニアを制圧し、ティグラーネスがこの国の統治者に立てられた年のことです。49年春から50年にかけてのことと考えられています。

 同じ頃、クラウディウス帝(41〜54年)は、ユダヤ人をローマ市から追放する命令を出しました。このことは、使徒18:2に記されています。
 「ここ(コリント)で、ポントス出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである」。
 パウロの第二次伝道旅行には、このような時代背景がありました。

 コロサイに関しては、まだまだいろいろありますが、省略して、コロサイの教会について学びましょう。この地方はパウロが直接伝道し、教会を建てたところではありません。
2章1節では、「あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、私と直接顔をあわせたことのない全ての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かって欲しい」と記されています。

 使徒19:10は、エフェソに3年間滞在してアジア州全体に伝道したこと、アジアに住む者はユダヤ人もギリシャ人も皆福音の言葉を聞いた、と報告しています。
エフェソからコロサイまではおよそ160キロ、谷間を遡って行くことも考えれば、かなり遠い道のりです。それでもパウロの伝道旅行全体をみれば、その一部でしかありません。
信頼できる弟子を送って福音を伝えたことは、ありそうなことです。パウロは行くことが出来なかったけれども、その代わりを勤めたのが、コロサイの人々の仲間であり、パウロの愛するエパフラスです。この手紙は、エパフラスを最大の敬意を込めて賞賛しています(1:7、4:12)。彼は、獄中のパウロの付き添人でした(ピレモン23)。また、彼はコロサイの信徒に希望を与えることが出来ました。ラオディキア、ヒエラポリスの信徒たちの間で輝かしい指導者として仰がれていました。

 エパフラスは、この手紙の実際の書き手ではないか、という考えがあります。とすると、その目的はどこにあるのでしょうか。
当時のコロサイ教会は、大変危険な状況に置かれていました。その状況を明らかにし、福音の真理を明らかにするために手紙は書かれています。ことによるとエパフラスは、この重大な問題を処理するについて、師匠であるパウロ先生の名前を借りる、その権威に依り頼もう、としたかもしれません。それほどに大きな問題でした。

 この手紙の書き手は、パウロの思想、良く使った言葉、言い回し、などを他の手紙、とりわけ『エフェソの信徒への手紙』から借りたようです。しかし、どうしても他の手紙には見られない言葉、表現を必要としました。そこに注意して読むと、コロサイ書特有の問題が見えてきます。

 先ず21節以下、神との和解が御子によって成立した。それも「肉の体において」を強調しています。これは20節までの「先在の御子による贖い」という信仰を受けて語られます。
コロサイ書の異端を特定することは困難である、と学者は言います。それでも、御子イエスの十字架を否定し、神との和解成立を笑うような考え方、と言うことは出来そうです。

 筆者は、コロサイの人たちの心に訴えます。神に敵対していた、ということは事実であり、否定できないでしょう、と。私たちにも、この同じ言葉が向けられています。どの様に応えるでしょうか。自分の僅かばかりの善行、功徳を言いたてますか。多くの人はしていたけど、自分はする機会のなかった不道徳な行為を誇りますか。偶々することの出来た善行を誇りましょうか。
これは、アウグスティヌスが明言したことでした。

 次に、教会の頭は御子イエスであり、教会はキリストの体であることが語られます。18節と24節です。今、私達の教会は、このことを信じていますが、否定する人たちもいるでしょう。
コロサイ書は、日月星辰を礼拝する人たちを退けようとします。貪欲は偶像礼拝である(3:5),捨て去りなさい、と言います。イエスこそ主キリストである、と告白しながら、他のものを主とすることは、偶像礼拝であり、捨て去るべきことなのです。
私たちは、すでに「神の御前で、聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者と」されているのです。実に在り得ない事、文字通り『在り難い』ことが起こったのです。ここに福音があります。喜びの音信があります。

 この福音を離れて、コロサイの人はどこへ行こうとしたのでしょうか。
異教的要素とユダヤ教的要素が入り混じったものがあります。
更にグノーシス主義の異端があると言われます。
どうやら相手は一つではなく、さまざまな教えが入り混じって現れていたようです。非常に捉えにくく、惑わされやすくなります。私たちも気をつけなければなりません。

 さてここには、もう一つの問題があります。24節です。
「今や私は、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」。
「キリストの苦しみが不足しているのかな、しかもその不足分を我々の体で充足させることが出来るの???」。青年時代、出された問題でした。私の青年仲間は優秀な人がいました。驚かされ、考えさせられました。いまだに分かりません。

 この「苦しみ」は、ギリシャ語でスリプシス、パウロはこれを真筆書簡で15回使います。
しかし、キリストが経験した苦難には一度も使用しない。そのため、多くの学者は、キリストのために使徒が経験した苦しみの意味であろうとします。使徒だけではありません。私たち全ての者のことです。
 キリストは私たち一人びとりのために、十字架で苦しまれた。私たちはどの様に生きていますか。ボヘミアのティンツェンドルフ伯は、茨の冠をかぶせられた十字架のキリストの絵の前にたたずみ、動くことが出来なかった、と伝えられます。「キリスト我がために命を棄てたまえり、我キリストのために何を捨てしや」讃美歌332番

 キリストの十字架は、神と私たちの和解をもたらしました。これを共有する教会は、苦難の共同体です。コロサイ書の筆者は、三つの苦難を意識していたでしょう。
第一は、キリストの苦難です。キリストの苦難は、私たちを生かすため、新しい命を与えるものです。第二は、教会の苦難です。コロサイ教会が、異端的な教えを持ち込もうとする人たちによって苦しめられている。キリストの福音を守る苦しみです。そして第三は、伝道の苦難です。
パウロが異邦人に福音を伝えるためにどれほど労苦したか。この手紙を書いた人は、良く知っています。

 これらの苦難を共有することにより、キリストの体の求心力は強くなります。苦難を通して主なるキリストとの結合が強くなります。キリストを誇りとし、喜びが湧いてきます。
ローマ5:2以下をお読み下さい。「神の栄光に与る希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りにしています。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」
そうです。苦難の共同体は、誇りと希望を共有することが出来るのです。
 感謝して祈りましょう。