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2010年9月12日

《奉仕する共同体》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
?コリント9:6〜15

  聖霊降臨節第17(三位一体後第16)主日
  讃美歌88,322、391、交読文34(出エジプト20章、十戒)
  聖書日課 申命記15:1〜11、?コリント9:6〜15、マルコ14:1〜9、詩篇112:1〜10、

 台風9号は、発生が沖縄近海、奇妙なコースを取りました。福井県に上陸。東へ列島を横断、多くの地方に恵みの雨を降らせてくれました。多過ぎる所もあったようです。少ないところもありました。
 他人事ながら、毎年心配しているのは、四国中央にある「早明浦ダム」です。梅雨時でもなかなか貯水ができず、慢性的な渇水状態でした。稀に満水になってもすぐに不足状態になり、時間給水になります。多少は改善されたのでしょうか。30数年前の完成。人口が少なく、井戸水などで間に合った時代は、それで良かったでしょう。これから人口はもっと減少するから、もう少しの辛抱だ、と考えているのなら、脱帽します。県民の皆様には、早く逃げ出して人口減少の手伝いをしなさい、と申し上げましょう。
 大阪ではたいした雨量にはなりませんでしたが、確実に秋の空模様になって行くきっかけになったはずです。

 早明浦ダム(さめうらダム)は、高知県長岡郡本山町と土佐郡土佐町にまたがる、一級河川・吉野川本流上流部に建設されたダムである。独立行政法人水資源機構が管理する多目的ダムである。型式は重力式コンクリートダム、高さは106.0メートルで有効貯水容量は2億8,900万立方メートル、利水容量は1億7300万立方メートルで、これは香川県内の全ため池(15,000ヶ所)の総容量に相当し、吉野川水系における水資源施設の中核をなす四国地方最大のダムである。吉野川の治水と四国地方全域の利水を目的に建設され、このダムの水運用は四国地方の経済・市民生活に極めて多大な影響を及ぼす。このため「四国のいのち」とも呼ばれ、四国地方の心臓的な役割を果たす。ダムによって形成される人造湖はさめうら湖と呼ばれ、2005年(平成17年)には本山町・土佐町・大川村の推薦により財団法人ダム水源地環境整備センターが選定する「ダム湖百選」に選ばれている。

 早明浦ダムは「四国のいのち」と言われ、四国四県の百八十四万人の水道用水、産業経済の発展に不可欠な工業用水、農業用水の供給、吉野川下流に住む百万人の生命と財産を洪水から守っていること等、その「光」はよく語られてきました。
 他方、ダム完成三十有余年を経て、私たちは、その「陰」である水源地域、特に先祖代々の土地、歴史、文化、人々の繋がりを湖底に永遠に失った三百八十七世帯千三百余人の人々の悲哀と今の暮らしに心を寄せることがどれだけあるでしょうか。

 四国地方整備局は27日発表した2011年度予算概算要求に、渇水対策と洪水対策を目的とする早明浦ダム404件再編事業と、高松サンポート合同庁舎南館整備事業を盛り込まなかった。政権交代後に再提出した10年度予算概算要求に続く予算要求の見送りで、両事業の行方は不透明さを増している。

 ダムの問題は非常に分かりやすいものです。要するに、入ってくるもの以上に使うことはできない、ということに尽きます。
場所の選定、無駄使いをしない。江戸時代の経済学で言う「出ずるを制し、入るを図る。」
早明浦ダムはこの台風にも拘らず、取水制限に入りました。

 さて本日の主題は、《奉仕する共同体》聖書は、?コリント9:6〜15です。
だいぶ前の事ですが、「共同体」ってどういう意味ですか、と質問されたことがあります。
従来は、余り聞いたことがなかったのに、先生の口からは出てくる、教えて欲しい、ということでした。

 お答えしてから、それほどに珍しい言葉なのか調べてみました。
「そこに所属しているという意識を無意識のうちに持たせる集団(単位)」
英語ではcommunity、訳語は基礎社会・地域社会・地域組織・共同体などとあります。
他のものは、「血縁的、地縁的、感情的な繋がりによる共同生活を営む集団のこと。協同体」としています。これは、より狭い意味であり、日本的なように感じられます。

 1969(昭和44)年、国民生活審議会の「コミュニティ問題小委員会」の検討の結果『コミュニティ生活の場に置ける人間性の回復』と題する報告書が出版されて、コミュニティという言葉が広く使われるようになりました。これは、「会社人間」と言われるように、会社、企業に対する帰属意識は強いが、地域社会には寝に帰るだけ、と言う状態に対する危機意識から出たものです。

 私自身は、「一つの事物を共有することで繋がる人の群れ」と理解しています。事物は、物質でも内的なものでもよろしいのです。奉仕でも、キリストの贖いでも、苦難でもあるいは、財産や血筋、系図、建造物、職業、なんでもありでしょう。共同生活も条件になりません。私たちの玉出教会は、キリスト・イエスを主と仰ぐ共同体です。玉出に建てられ,玉出に責任を感じる共同体。奉仕を共有するならば《奉仕する共同体》となります。

 奉仕とは何でしょうか。
無報酬で、またそれ以外の見返りを求めず行なわれる無私の労働を言います。
「マグダラのマリヤ」、「善きサマリヤ人」や「クレネ人シモン」はその典型でしょう。
聖ヨハネ騎士修道会や聖堂騎士修道会なども、その一つの形であったとされます。
 英語では service、ドイツ語では der Dienst というが、それぞれ、一般的な「勤め、業務」の他に、狭義で「神奉仕」の意味を持ち、隣人や困窮者への援助、奉仕がそのまま神奉仕につながるという意味合いで用いられる。キリスト教ではこのような考え方は、5-6世紀のヌルシアのベネディクトゥスの修道会会則以来、教えの中に入ってきたものといわれている。
 ボランティア(英: volunteer)とは、ボランティア活動に携わる人のことである。ボランティア活動は、古典的な定義では自発(自主)性、無償(無給)性、利他(社会、公共、公益)性に基づく活動とされるが、今日ではこれらに先駆(先見、創造、開拓)性を加えた4つをボランティア活動の柱とする場合が一般的となっている。

 キリスト教会の関係する奉仕団体が多いが、他宗教にもあります。イスラム(教・その信徒を指す言葉)では、誰でも「バクシーシ」という貧しい人の声に応えることは、イスラムの義務とされ、誰でも恥じることなく「バクシーシ、おくれよ」と叫び、物乞いをします。与える者にアッラーの恵み、祝福が与えられる、という教えです。
 皇居の清掃奉仕の団体もあります。どこが主催しているのでしょうか。

 ユダヤの律法に関しては、さまざまな評価があります。主イエスはファリサイ人や律法学者を厳しく批判されました。「偽善な律法学者、ファリサイ人は災いである」と。
それだけではありません。真剣に律法を守る人たちの姿は、尊敬の念を惹き起こします。
律法を守ることだけを目的とする生き方は、厳しく批判されます。
 律法遵守は、神との正しい関係を指し示すものです。それは神の御意志を知り、それを行なうことに義を見出します。一つ一つの律法の条項を、如何に守ったか以上に大事なものです。神が何を求めておられるか、正しく聞き従うとき、神との正しい関係が現れます。
多忙な現代社会の中でも、ユダヤ人は、律法に従った生活をしようと務めています。
 国際線の航空機の中で、汚れた外国人と会話をしようともせず、清められたコーシャ料理を食べるユダヤ人。律法に対する熱心だけはたいしたものです。

 さて、聖書を読みましょう。?コリント9:6〜15、335ページです。
パウロは、先ず自発の意思によって、惜しむことなく他に与えることを称揚します。惜しみながら、ちびちびと施しをする者は、刈り入れも僅か。惜しまず豊かに与える者は、豊かに刈り入れることになります。種まきと収穫の関係を用いて、愛の業を説明しました。

 次に、惜しむことなく与えることが出来る理由を語ります。8節
神が、あなたがたに多くの恵みを与え、全ての点で全てのものに十分であるようにして下さるからです。これも、農作業を例に用いて説明します。10節。種まく人に種を与え、勝てとするパンを与えるお方の存在。この方こそ、種を与え、それを増やし、結ぶ実を成長させてくださいます。「御子をさえ惜しまず死に渡された方、ローマ8:32」がおられます。
 早明浦ダムと経済の話を思い出してください。溢れるほどに満たしてくださる方がいるなら、いつでも、全てを注ぎだすことが出来ます。

 この奉仕の業の結果はどうなるのか、語ります。13節以下
奉仕の業をした人たちが、福音を従順に公言していること、惜しまず施しをしてくれることで、神を讃美します。
更に、あなたがたに与えられた神の素晴らしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈ります。

 最後、15節に関しては意見が分かれますが、私は、パウロの讃美、と理解します。コリントの人たちに与えられた神からの贈り物、エルサレム教会の人たちに送られた贈り物、それらは全てパウロに贈られたに等しい恵であること。これらすべてを、パウロは、「言葉では言いつくせない贈り物」という一語に籠めています。神に感謝するだけです。

 ジョン・ウェスレー、メソジスト教会の創始者、敬虔な信仰と説教聖書注解、『全世界はわが教区なり』という主張で知られます。その説教『お金と信仰』では、金銭の忠実な管理人にならなければいけない、としてその使い方と作り方を語っています。

 まず、?「できるかぎり稼ぐ」こと。ウェスレーは当時の信徒らに勤勉に全力を尽くして働くよう促した。次に?「できるかぎりを蓄える」こと。贅沢のためにお金を使うのではなく、あくまで神からいただいたものとして金銭を尊く扱うように勧めた。そして、それらによって生じた余剰を?「できるかぎり、施し与えよ」とウェスレーは教えた。

 まとめると「できるだけ儲けて、できるだけ貯めて、出来るだけ与えなさい。」となります。これは、ウェスレーの慈善主義と呼ばれています。

 マックス・ウェーバー、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
このプロテスタンティズムは、普通カルバンの神学をさすと考えられているようです。しかし、それだけではなくウェーバーが、ウェスレーの上記の言葉を意識していただろうことは想像するに難くありません。学者もウェスレーの影響は否定しません。
勤労と禁欲の生活、節約と貯蓄、資本投下、利潤発生、再投資、利潤拡大。利潤至上主義。
金銭の奴隷となってはいけません。支配されるのではなく、支配するようになりなさい。

 私たちは、多くの恵みを受けているにも拘らず、まるで何も受けていないかのようにしてはいないでしょうか。パウロは、多くの贈り物を受けていることで、神を讃美しています。私たちの周囲は、多くの恵に満ち溢れています。 この賜物をもって他の人に仕え、神を礼拝するとき、奉仕の共同体となります。

感謝と讃美をささげましょう。