聖霊降臨節第16(三位一体後第15)主日
讃美歌68,262,365、交読文28(詩編119篇)
聖書日課 列王上21:1〜16、ガラテヤ1:1〜10、マルコ12:35〜44、詩編119:73〜80、
いつの間にやら、セミ時雨が消えました。それに替わるかのように秋の虫たちが鳴き始め、日毎に力強さを増しています。猛暑は続いていますが、着実に秋が近づいているのでしょう。
朝晩、少し涼しさを感じるようになりました。どこかで雨が降り、涼しい風になるのかもしれません。北の山沿いでは、夕立もあるようです。少し羨ましく感じます。
自分が求める物をもっている人がいると羨ましく感じる。
自分が持っているものを持たず、求めている人がいると優越感を抱く。
このような私たちの生涯は、一体どの様に精算されるのでしょうか。
棺に蓋をして評価定まる、『蓋棺定評』という四文字熟語があります。
ここにいる私たちは、現在は棺に入っていません。遅かれ早かれみな逝くときが来ます。
その時どの様に評価されるのでしょうか。やはり、恐るべき時になりそうです。
あいつは不平不満が多かったなあ、と言われるでしょうか。それとも、苦しいことの多い歩みでも、感謝と讃美の生涯だったなあ、と言われるでしょうか。
もう一歩踏み込んで、私たちは、どのように言われることを、評価されることを求めて歩んでいるでしょうか。世俗の一員として富と名誉を蓄えることでしょうか。それとも、敬虔なキリスト教徒としてその名を残すことでしょうか。献身したとされる牧師・伝道者でも、そのくらいのことは求めているかもしれません。
アッシシのフランシスのことはご存知と思います。讃美歌75番は、フランシスの『太陽の讃歌』として知られています。彼は、裕福な商人の家に生まれ、騎士になることを志し、挫折し、キリストとの出会いを経験して修道士になりました。多くの人々をひきつけ、やがて教皇から、フランシスコ会修道院の認可を受け、院長となります。各地に修道院が建てられ、全てを統括しなければならなくなります。大修道院長です。しかし彼は終始そのことを喜びませんでした。
一修道士として生活することを求めました。
大修道院長となったフランシスの晩年は不幸であった,と伝えられます。
「彼はキリストと出会い、キリストを知り、キリストを生き、キリストに死んだ。
それを喜び、満ち足りる人であった。
それ以外のことは全て、彼にとって不幸であった。
院長の栄誉も、教皇に知られていることも、多くの人に慕われることすらも。」
さて本日は、《生涯のささげもの》と題して説教することになっています。聖書は、先ほどお読みいただいたガラテヤ書1:1〜10です。
このガラテヤ書は、非常にまとまりの良い手紙です。同時に、大変厳しい内容です。
そのためでしょうか、冒頭の発信人、受信人の名前が明らかにされると、温和な挨拶抜きで、直ちに問題の核心に触れます。
1:6「キリストの恵へ招いてくださった方から、あなた方がこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています。」
すなわち、非福音、福音ならざる福音との戦い、と言えるでしょう。
「ほかの福音」が何を指しているか、5:2が明らかにします。「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」
ここでガラテヤの教会の問題は、律法遵守を勧め、割礼を受けることを求めるユダヤ主義者たちであることが分かってきます。
ガラテヤ書は、マルティン・ルターが高く評価したことでも、よく知られています。
ルターは、使徒パウロの宣教の戦いとよく似た戦いをしました。似て非なる福音、福音ではない福音、非福音との戦いです。
また多くの人々から非難され、排斥されました。そうした点でもパウロと似ていたために、それらが前面に出ている、この書の中に共感するものを見出したのでしょう。
聖書は、苦闘し、悩み、悲しみを知る者によって、より深く読まれ、理解されます。
そのためでしょうか、古くから、聖書を読むときは、自分の全ての苦悩を携えて行きなさい、と言われて来ました。全人格をもって聖書にぶつかり、格闘する時、聖書はその本来の輝きを発するようになります。
パウロとガラテヤ教会との関係は、どこから始まったのでしょうか。使徒16:6を見ると、第2回伝道旅行で、パウロ、シラス、テモテの三人が「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギヤ・ガラテヤ地方を通って行った。」と記されます。
ガラテヤ地方は、ローマ時代のアジア州、今日のトルコの中央部に相当します。更に南までを含む考えもあります。中央部の西側にフリギヤがあります。聖書地図では、パウロの伝道旅行、をご覧下さい。
多分、同じ時にペテロの一行がいたので、より南を通った、と推測する学者もあります。この時、ガラテヤで何人かの信徒を得たのでしょう。しかし教会設立には至らなかった、と考えられています。
この旅行は、使徒18:22で終了しますが、その後暫くすると、また旅に出ます。
使徒18:23に始まる第三回伝道旅行です。
「パウロは暫くここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギヤの地方を次々に巡回し、全ての弟子たちを力付けた。」
そしてエフェソへ行き、マケドニア、アカヤで活動します。全ての弟子たち、と言われていることに注意しましょう。小アジアからヨーロッパに渡り、全ての弟子たちを。この中には,首都ローマから追放された人たちもいます。どこで、誰から教えを受けたか、最初の先生は誰であったか、など一切を問題としません。
パウロは全ての弟子を、キリストが彼のために死なれたもの、として考えました。彼にとって、全ての弟子は、全ての赦された罪びとを意味します。その故に、等しいのです。
力付け、真の福音に共に立つことこそ、彼の仕事でした。
非福音との戦いの他にも,パウロを終生にわたり悩ませる問題があります。それは、彼の使徒職を巡る問題です。
ローマ書1:5、?コリント1:1、?コリント1:1、ガラテヤ1:1、エフェソ1:1、
いずれも、神の意思により、恵によって使徒とされた、と書き記します。手前免許と違いますよ、と語るのです。フィリピ書では、第1章には見当たりませんが、その3:5以下で、自己紹介風に自分を語っています。時間が経過し、交わりが深くなっても事情は好転していないようです。いつも、どこかで、誰かが、パウロはキリストの弟子であり、使徒であることを否定し、拒絶するように働きかけていたのでしょう。パウロはその勢力に対し激しく反応しています。時間が解決するさ,などとは考えません。機会ある毎に、自分はキリストの使徒、使者であると書き送ります。
これを普通、『パウロの使徒職の弁明』、と呼びます。パウロには何時もこれが伴いました。人々がこれを認めようとしないからでしょう。パウロは自分の使徒職の正当性を訴えます。「人々からでもなく、人を通してでもなく」神からの直接の任命、をうかがわせます。
人々から、アポ は起源を示す。
人を通してでもなく、ディア は媒介行為や手段
私たちの恐ろしいところは、自分の評価を高めようと願う時、他の人ライバル・競争相手の評価を下げようとすることです。相手を下げれば、自分が上がる、と思い込む恐ろしさ。賢い人、権力ある人も同じです。民主党代表選挙を見れば分かります。
幕末から明治の人、勝海舟が、言いました。
「アメリカの人は地位が高くなるほどに賢い者になる。これはこちらの国とだいぶ違いましょう」。咸臨丸で太平洋横断、帰国後、幕府のお偉いさんに問われて応えたものです。こんな風ですから、勝は、だいぶ老中や年寄から睨まれていました。勝はそれらの人たちの評価よりも、この国が、世界の中で立派にやって行くことを求めていました。
それではパウロは何を求めていたのでしょうか。何故、繰り返し、使徒職の弁明をするのでしょう。初代教会の中で、偉い人になりたかったのでしょうか。教会の歴史に名を残すためでしょうか。決してそうではありません。
ローマの教会宛の手紙にある使徒職弁明を見て見ましょう。1:5です。273ページ
「私たちはこの方により、その御名を広めて全ての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」
彼の召命は、自分一身の力は関係しません。ただ神の恵みによるものです。その目的は、異邦人を信仰へと導くことです。彼の世俗的栄誉などは、関わりがありません。
神の榮を求め、自分のことは求めない、これがパウロの信仰です。他の者たちにも、時として、信仰の自己吟味を求めます。
?コリント13:5「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」
頭の中で考え出し、造り上げ、持て余すようなものではありません。
キリストの十字架は、私のためです、と言うだけの信仰です。その罪人の頭です、と告白するのです。徹底する時、自己満足や自己欺瞞は消えるでしょう。求めが変わります。
?編讃美歌195番「キリストには かえられません」
1節 世の宝もまた富も、 このおかたがわたしに 代わって死んだゆえです。
2節 有名なひとになることも、 人の誉める言葉も、 この心をひきません。
3節 いかに美しいものも このおかたでこころの 満たされている今は。
(おりかえし)世の楽しみよ、去れ 世のほまれよ、行け。
キリストにはかえられません、 世のなにものも。
私たちの《生涯のささげもの》は、この存在そのものです。
キリストの御名を広めるために、一身をささげ、御栄えを求めます。
ローマ12:1「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これがあなたがたのなすべき礼拝です。」テーン ロギケーン ラトレイアン フモーン
お献げすることが許されています。感謝しましょう。
勝海舟と福沢諭吉
『行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず、我に関せずと存候』。勝海舟
これは福沢諭吉の論述『痩せ我慢の記』に対する感懐である。
同様に福沢は、幕臣である勝が幕府を見限ったのは、不忠、不孝であると非難したのに対し、勝は、福沢も幕臣となったではないか、とは言わなかった。福沢は、蕃書取調役所に取り立てられている。福沢が勝を訪ねて、三田の土地を買うために金を貸して欲しい、と頼んだことがある。海舟は、先ず自分の財産を処分すればよろしい、と応えた。
勝は、徳川の臣として最後まで節を立て通した人である。自分の財産も用いて静岡を開発し、旧幕臣の生活を立てさせた。福沢の欲ボケとは大違いだ。
最後の将軍慶喜公を参内せしめ、明治天皇に拝謁、一切の罪過を消去せしめたのも海舟の働きによるものであった。そして自分の死の後は一切はお返しすると言い、私することなく、伯爵家の後継者には、慶喜公の末男子を請い受けた。むしろ、これを徳川家に帰属させた、との思いであろう。