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2010年8月15日

《新しい人間》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
エフェソの信徒への手紙4:17〜32

  聖霊降臨節第13(三位一体節第12)主日、
  讃美歌73,234A,522、交読文3(詩8篇)
  聖書日課 ミカ6:1〜8、エフェソ4:17〜32、マルコ10:46〜52、詩篇8:1〜15、

 立秋から1週間、終戦記念日。65回目。
あの日、青い空、白い雲、油蝉の鳴く音がやけに耳に付きました。新しい日々の始まりでした。それから65年、人は古び、忘れ去られようとしています。

 本日もエフェソ書、その4:17〜32、主題は《新しい人間》です。
異邦人伝道の指導者パウロの名を借りる手紙。コロサイ書との共通点も指摘されています。4章以下では、実践的な倫理が勧告されています。

 異邦人への批判が基盤となり、新しい生活が勧められます。
異邦人とは、誰のことでしょうか。
ここで言う異邦人は、ユダヤ人パウロにとっての者、またこの手紙を受け取り、読むであろう人たちにとってのそと者・外部の者を指しています。ユダヤ・ヘブライ世界に対してはギリシャ・ローマ、ヘレニズム世界の人たちが異邦人になります。アフリカ、エジプト、アラブ、シリア、小アジア、などはアレキサンダー大王の遠征、ポエニー戦役などを通してヘレニズム世界に組み込まれていました。パウロの意識にある異邦人は、敵対的であると同時に、宣教の対象であり、改宗の可能性が大きい人々であり、その世界です。

 エフェソ書の記者は、異邦人の生活を古い人のものとして厳しく批判し、主キリストの教えに立つ新しい生き方・倫理を勧め、そこに新しい人間を見出そうとします。
泥沼のように、人を捕らえて離さないものからどの様に離れることが出来るか、語ります。

 異邦人の生活は、聖書にも記されていますが、少しばかり具体性を欠いているように感じられます。それが聖書の品格かもしれません。
 ローマ時代の歴史書は非常に具体的に、名前を記し、非行の実体を書き表しています。歴史家としてはタキトウス、スヴェトニウスなどが知られています。
 この時代の人々は、富と力を求め、それらを獲得すれば、自分の快楽のためにそれらを費消する。それがこの時代の価値観でした。

 同じ時代を生きて行く者たちの中にキリストを信じる者たちがいます。クリスティアンと呼ばれるようになっているこの人たちは、同時代人の価値観をもっていても、全く同じではありません。キリストに結ばれ、キリストに所有されているからです。
キリストの価値観が、色濃く反映されて来る。キリストそのものを表すようになる。
その故にこそクリスティアンと呼ばれるのです。

 異邦人の古い生き方は、「無知」「心のかたくなさ」「放縦な生活」「ふしだらな行い」などの言葉で表されています。さらに31節、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど」が挙げられます。私たちに馴染みのもので、これらは、滅びに向かっているとされます。

 人間が考えられる時、ユダヤ人の間では、必ず創世記が思い出され、考えられます。
 「神は、人をご自身に似せて、男と女とに創られた」1:27
 学者は、この1章を祭司資料(P)に分類し、おおよそ紀元前600年前後、バビロニアとの戦いに敗れ、国の指導者たちがバビロンへ捕らえ移され、他のバビロン捕囚のユダヤ人に向けて語られたものでしょう。戦争に負け、信仰の意味も疑うようになっている人々に、イスラエルは神に創られた民、「すべて良し」とされた民であると語ります。神の似姿があり、神の地上における代理として統治するように求められている民です。

 ところが、この神の似像性、似姿性は、喪失されてしまいます。
主なる神との約束を曖昧にし、自分たちの好みにあわせて解釈し、その欲情のままにしようとしました。その結果、神に見られることを恐れ、自分たちの姿を隠そうとしました。
ここに人間の罪とその結果があります。捕囚以来の律法生活の中にこの罪を見出します。
エフェソ4:24で語られているのは、こうした人間像です。
そして、似像が回復されるところに新しい人間が現れます。
その意味で、エフェソ書が語る新しい人間は、創造の秩序の回復であり、再創造です。

 新しい人間とは、どのようなものでしょうか。
手紙の記者は、この面ではかなり具体的です。真実を語りなさい。怒ったままでいてはなりません。悪い言葉を一切口にしてはいけません。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。
 これらの勧めは、他のところにも見られるものであり、頷けるものです。とは言ってもそれを直ちに実行できる、というものではありません。実行されていないし、され難い事だからこそ、こうして勧奨されるのです。それでもこのようにこれが勧められている、求められていることは確かです。

 京都の洛北教会が、創立100年記念誌を送ってくださいました。かつて石田牧師が在職しておられたことがあります。現任の北川牧師は、数年前、この教会においでくださったことがあります。読んで行くうちに学ばされました。
 「同じようにキリスト者といっても、求められることは、人によって違う。
 倫理のレベルも違います」。このような意味の箇所がありました。森里牧師の文です。
 若干の意見の違いはあっても、牧師には高いレベルが求められる、ということには間違いがありません。誰が求めるにせよ。信仰者は神の前では平等である、ということを否定しているのではありません。人の師表たる者には、それだけの覚悟が求められます。

 本日は、この倫理的な勧めの語句を学ぶよりも、その理由付けの部分を注意して読んで見ましょう。
 先ず25節、「私たちは互いに体の一部なのです」。私たちが、他の人と語る時、軽い気持ちで嘘をつくようなことはないでしょう。それでも、真実を語っていない、一部は隠しとおすことに決める、というようなことはあるでしょう。その時、互いに一つからだの一部です、と語られます。自分の体の、他の一部に嘘が通用するでしょうか。他の一部を欺きとおせるでしょうか。口が足に向かって、熱くない、と言い通していたら実際は火傷をしてしまうこともありましょう。
 教会に関しても考えられることです。教会はキリストを頭とする一つの体、互いに真実を語らなければ成り立ちません。

 26節は、面白いことです。日が暮れるまで怒ったままでいてはなりません。
日暮れは、一日の変わり目です。怒りを翌日まで持ち越してはいけません、と教えています。
これは現代の夫婦関係に関し、よく聞かれます。夫婦喧嘩はありうることです。その場合、翌日まで持ち越さないようにしなさい。その夜の内に仲直りするのですよ。
同じことは親子関係にも当てはまります。何時までもぐちゃぐちゃと続けてはなりません。
子供が家に帰りたくなくなります。家は、帰るべき家庭です。温かく迎えるところ。
 ここでは、「悪魔に隙を与えるな」とされています。怒りを長く続けることは、その隙を悪魔の狙い所とします。私たちは、誰に協力するのでしょうか。

 28節、「悪銭身につかず」、と聞きました。額に汗して稼ぎ取ったものこそ高い価値があります。助け合うことの出来る人の姿です。

 29節、「その人を造り上げるのに役立つ言葉を」語りましょう。
オイコドメー、これは有名なギリシャ語です。と思っているだけかもしれませんが。
「家」を語源にして、「家を建てる」、という意味を持つようになり、それが「人の徳を建てる」、となり、「建徳的」となります。

 32節には、パウロ流の実際主義、体験主義が表れます。パウロは基本的に、自分が体験したことを土台にして語り、勧める、ということです。従って、その文章では、私が赦されたように、という形になります。ここではその変形となっています。
 「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように」赦し合いなさい。
私たちは、赦され難い罪人なのに、憐れみによって赦された。その故に、互いに赦すのは当然だ。私たちは赦し合おうではないか。大抵のことは赦せるでしょう。

 赦し合う人間こそ新しい人間です。

私たちは、しばしば自問自答せざるを得ません。
何に対して新しいのか
それは何処へ向かうのか

新しさは時々刻々古びてゆく。一瞬の後には古くなっている。
新しい人はその新しさを保持できるのか?
 
 多くの所で「新しくしよう、改革しよう」という掛け声を聞きます。
戦後65年、ひたすらに進んできた道、歩き方、目的地、疲れもあるでしょう。
同じであることへの抵抗感もあるでしょう。社会の階層が固定化して、そこからの脱出が困難になっている、と感じられることもあります。もっと社会階層を打破できる社会にしたい。戦後暫くの間は、もっと自由が感じられ、目標、目的を自由に設定できたし、それを達成できもした、と言われます。戦前の階級社会とその秩序、価値観が崩壊
その新しさを良く見て、調べると、よほど昔のもの、スタイル、内容だったりします。
「新しくすることは、古きに還ること」。誰もこんなことは言いません。聞いたこともありません。しかし起きていることなのです。大抵は、泰山鳴動、ねずみ一匹、というようなことが多いようです。根本的な新しさがなかなか見つからないのではないでしょうか。

 私たちに教えられ、求められる新しさは、全く違います。キリスト・イエスの十字架によって、罪が赦されたことは、全く新しいこと、常に新しいことです。この新しさを持ち運ぶのが、新しい人間です。日毎に古びるような新しさではありません。
 これはすでに与えられたものです。私たちはこれを受け容れるだけで、絶えず新しくされます。罪赦され、一つの体の一部となるものこそ新しい人間です。
これは人間の力にはよりません。そんなものはすぐに古びてしまいます。

 「我らのなお滅びざるはエホバの憐みによりその慈しみの尽きざるによるなり。こは朝毎に新たなリ」。哀歌3:22,23文語訳(新共同訳1289ページ)

感謝して、祈りましょう。