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2010年8月8日

《家族》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
エフェソ人への手紙5:21〜6:4

  聖霊降臨節第12(三位一体後第11)主日、
  讃美歌18,434,527、交読文30(詩篇127・128篇)
  聖書日課 イザヤ54:1〜8、エフェソ5:21〜6:1、マルコ10:13〜16、詩篇127:1〜5、

 昨日は、立秋。暦の上では秋になりました。金曜日の空は高く、白い雲が玉のような形で綺麗に並んでいました。秋だ、と感じました。猛暑の連続も、収まってくるでしょう。
北海道常呂(カーリングの町)では、昨日37,1度を記録。車のクーラーが頼り。
 今年の大阪は、東京よりも暑いようです。猛暑日の連続日数がかなり違います。あちらも暑いけれど、こちらは猛烈に暑い。なんせ、暑い時、暑い所で鳴くクマゼミが黙ってしまうほどに暑いのです。このお隣、西宮では、暑さの中でなければ出来ないのでしょうか。甲子園の高校野球が始まりました。天理と履正社の対戦、その他、各地域の予選を勝ち上がった強豪チームが激突します。技術、体力、気力、応援力のすべての勝負です。四年前、ハンカチ王子・斉藤投手の早実と田中将大投手の駒大苫小牧は、決勝で対戦、延長も同点のまま、再試合になりました。忘れがたい名勝負でした。アイシングとマッサージによる肩の回復法で早実は勝ったのかもしれません。その後各高校、大学に広がりました。これは技術、応援力になるでしょうか。

 甲子園の野球も一年たちました。私の多発筋痛症も一年経ちました。先週、天王寺のクリニックへ行きました。血液検査をお願いしました。CRPの数値は0.1以下、標準値です。ステロイド剤は、続けなければならないのですが、さらに減量をお願いしました。肩、首、腰などに痛みがありますが、これらは他の要因だろうから,思い切って減らしてください。現在は、朝だけステロイド剤を飲み、夕方には消炎鎮痛剤を飲むことになりました。効果が出ているようです。次月には、ステロイドをもっと減らせるでしょう。
 ご心配をおかけしました。有難うございます。

 本日の聖書は、エフェソ5:21〜6:4、これは、結婚式でよく読まれたものでした。
《でした》と過去形でお話したのは、近来、この所は古い、前近代的な男女観が根付いている、と考えられ、読まれないようになった、ということです。しかし最近、山田信子さんの結婚式では、読むことが出来ました。読んで欲しい、という希望がありました。最近の傾向を話し、これを読んだ上で決めましょう、と言い、それでもこれを読んで欲しい、ということで読みました。
 夫に対する聖書の教えエフェソ5:25〜32、妻に対する聖書の教えエフェソ5:22〜24。
お二人が、この箇所の朗読を求めた決断に感心します。個性あるご夫婦になることでしょう。
祝福を祈ります。

 それでは、この所の何が問題視されるのでしょうか。
23節、「夫は妻の頭である」このところが指摘されます。時代的な背景、考え方だから、としても困難があります。
妻にはヒュポタッソー、従属しなさい、と教える。新訳は仕える
夫にはアガパオー、愛しなさいと教える。
夫婦の間に愛を求めるなら、対等なはずです。そうではないのは何故でしょうか。 

 本日の主題は、《家族》です。「家族」って何でしょうか?
 家族(かぞく)とは居住を共にすることによってひとつのまとまりを形成した親族集団のことである。また、「産み、産まれる」かかわりの中から生じた親と子という絆、そうしたものによって繫がっている血縁集団を基礎とした小規模な共同体が、家族である。同じ家屋に居住する血縁集団に限定して使う場合もあり、現代日本では直系親族を中心とする単家族のことを指す場合もある。(ネット)
 夫婦や親子、兄弟などの血縁関係を基にした生活共同体の一種。社会構成の一単位。ファミリー。
 私たちの社会では今、この言葉が問題となっているようです。

 高齢の家族の居場所をその家族が知らない、
家族のうち高齢な者の居場所を、若い世代が知らないで数十年を経ている。
居所不明、生死不明。メディアは、年金詐欺の疑いを報じる。
 私の家でもあったこと。その昔、祖父が一人暮らしを求め、苦しい生活の家族を棄て、家を出た。まだ高齢者ではない頃、戦時中のことだろう。3月10日の大空襲の時にも姿は見なかった。そのような祖父の存在を知らないで居た。中学生の時、父が突然連れて帰ってきた。「お祖父ちゃんだ。これから一緒に暮らすぞ」それから3〜4年で亡くなった。家族に寄与するところは少なかった。立派な葬儀を出した。家族としての意識があった。

 若い母親が、二人の子供を監禁状態にして、食事も与えず、死に至らしめた事件があった。
未必の故意による殺人で捜査が進められている。結婚、出産、祝福され、誇らしく、喜びに満たされたことだろう。それから離婚。何があったのだろうか。可愛いがっていた子供と遊ぶことよりも、もっと違う遊びを欲する心に従い、自分の楽しみを選んでしまった。若過ぎた、と書いている新聞もあるようだ。しかし、同じ年代で、子供を守り、育てている人は大勢居る。

 少数の人の事件が報道される。あり得ない様なことが、珍しいことが伝えられてくる。
そうしたことが、日常茶飯事のように起こっているかのように報道されているのは、まだましなのかもしれない。今のところ、めったにないことだから、ニュースになっている。
ニュースバリューがあるから報道される。ごく自然なことになり、報道されなくなったら、もっと怖い。当たり前のことになって、ニュースにならなくなったら、恐ろしいことだ。
 母親と、同居の男性が幼児を虐待する事件が多く見られるようになった。
子供は泣いて訴えることしか出来ない。それをうるさいと言って、一層激しく殴る、蹴る、食事を与えない。そして、これらは躾のためだ、と語る。
ここに家族の姿を見ることが出来るだろうか。「家族」とは何でしょうか?

 私たちの社会では、かつて家と家の結びつきから結婚、家族の発生、となった。
戦後の民主憲法は、基本的人権を重んじるところから、両性の合意を家族発生の契機とした。
二人の男女が一致すれば、その結婚を阻むものはいない、とするものでした。本当に自由になった、と歓迎されました。野菜の促成栽培というものがあります。結婚も促成栽培が多くなりました。種や土壌を吟味する必要性すら感じないようになりました。

 一個の人格としての自己を吟味する。結婚にふさわしい者として成熟しているか。
子を産み育てる力があるか、親になれるか。相手に対してどのような感情、認識をもっているか。一緒に生活できるか。好きなんだから、二人が合意しているのだから、いいだろう。反対したって、もう出来ちゃっているんだから。
このような形の結婚は、周囲の者たちが配慮し、守り育てて行かないと、早くに破局を迎えることが多いでしょう。

 もう一度「家族」とは何でしょうか。
 模擬家族、と呼びたいようなものがあります。体育会系のクラブ、スポーツチーム、スポーツの応援、などに顕れて来ます。オリンピックでも、野球でも、サッカーでも、従来余り関心を示していなかった人たちが、始まると次第に熱中してゆく。国家と民族が関わるため、そうなって行く、という面もあります。かなり昔のことでは、古橋、橋爪両選手の水泳、白井義男さんのボクシング・フライ級世界選手権試合があります。
どのスポーツでも世界戦といえば、国中が沸き立ち、結束し、勝利を求めます。
数年前までの敵国、英米を相手に戦い、勝利を収める姿に国民は熱狂しました。

 勝敗を利害得失のように感じているかもしれません。優勝劣敗と考え、共感しようとする心理が働いているようです。まるで一つの家族のようだ、と感じます。
 甲子園の応援、地域の代表、県人会が動員する。遠隔地の学校に対しては兵庫・大阪の学校が協力応援する。家族のように、何事も共有しようとしているようです。
家族とは、現代の我々にとって、何かを共有する共同体なのです。
共有するものによって、その家族の結びつきの強度が変わります。

 聖書は、共有するものは、なんであるかを示します。
 エフェソ書は、キリストを共有することを指し示します。
妻たちよ、主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。これは、はじめの方で申し上げた通り、従属する、という意味です。すっかり主イエスの所属となる。またそのように夫との関係を築くことです。夫は、キリストが教会を愛したように妻を愛しなさい、と勧めます。自分の全てをもって愛することです。自分のご都合でもありません。愛される妻は、「栄光に輝く教会」のようになります。愛し方はさまざまあるでしょう。このようになるように愛しなさい、と教えられています。

 ユダヤの人々は、結婚を考える時、いつも創世記2章を基礎としました。31節に引用があります。「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」創世記2:24、
結婚式では、「神合わせたもうもの、人これを離すべからず」と続きます。
夫婦は、神が合わせたもう関係である故に価値があり、重んじられます。支配・被支配の関係ではなく、互いに支え、共に喜ぶ関係です。

 そして6章です。親と子の関係が語られます。3節は出エジプト20:12、申命記5:16からの引用です。ここでも主キリストを共有することが勧められます。主に結ばれているものとして子供に対し、子供は主に結ばれている者として、両親に従うよう求められます。
ここには「最初の戒め・掟」と書かれ、どこに書いてあるのか、と疑われてしまいます。
恐らく、十戒の中で神に関する掟が終わり、人間に関する掟に入る最初、という意味でしょう。最も重要な掟、と言っているのです。
 キリスト教保育、教育という時、それはここに語られたように、キリストが居られたなら、どの様になさるか、と問いかつ答えることです。

 主イエスは、神の御心を行なう者こそ、御自分の家族であると言われました(マルコ3:35)。これは神の国の家族を示します。地上の教会は、神の国の家族を先取りします。そこでは兄弟姉妹の交わりがなされます。何があっても、この絆は断ち切られることはありません。
主イエスとの会話、それは祈りです。絶えず祈りが捧げられる家庭はさいわいです。
そこにはほんものの家族が生まれるでしょう。主イエスを共有する家庭、その家族です。 

 私の好きな文章をご紹介して終わりましょう。
  この家の主はイエス・キリスト、
  すべての食卓に見えざる客あり、
  すべての会話に沈黙の聴き手あり。