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2010年7月25日

《キリストの体》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
?コリント12:14〜26

  聖霊降臨節第10(三位一体節第9)主日、
  讃美歌88,238,344、交読文31(詩130篇)
  聖書日課 民数11:24〜29、?コリント12:14〜26、マルコ9:33〜41、
       詩編13:2〜6、
 梅雨明け十日、と言います。晴天が続き、暑さが身にこたえる日々を示します。
今は、将にその時であって、当たり前の陽気であり、何も文句を言う筋合いはないわけです。
それにしても暑い日々が続いています。あの長雨が懐かしくなりそうです。
被災地に関する報道がすくなく、よく分かりませんが、その後は如何なのでしょうか。
家を失い、田畑は土砂に埋まってしまった。土地の権利だけが残っている。どの様に復興するのでしょうか。しかも高齢者の場合、銀行は融資を避けようとする。受けたくても返済条件を見れば、諦めるしかない、ということもあるでしょう。

 口蹄疫問題で、大揺れに揺れた宮崎県。35年前、小川町で受洗した高校生が、今は高校教師として宮崎市に居ます。「実は大変でした。今、全国高校総合文化祭の準備中ですが、開催できるかどうか心配でした」というメールが来ました。今、宮崎教会ですが、そこは会堂建築をしたそうです。近いうちに『信徒の友』に載るようです。ご覧下さい。

 北半球は酷暑の日々、南半球は大雪の降る日々が続いているようです。
たして2で割れば、地球全体としては平均的な陽気、ということのなるのでしょうか?
北も南も、温度調節のために電力消費が増大します。その生産のために、排気ガスが増えます。地球の環境悪化が進みます。再生可能電源の利用を進めることが必要、と言われています。私たちにも出来るのは、太陽光発電でしょうか。後は消極的ですが節電などにより、排ガス削減に努めることでしょう。出来ること、だけではなく、あらゆる面で、使い捨てからモッタイナイへと移行することが求められます。経済の縮小がどうしても起こります。失業問題が起こります。みんなが分け合う心が必要とされるでしょう。ところが規制緩和以来、格差社会となり、富の所在・所有が一部に偏ってきました。

 本日は、前主日に続き、コリントの教会への手紙が与えられました。
前回は、『使徒職の正当性』を巡る戦いがあり、その武器となるのは、赦しのみ言葉である、と示されました。パウロの使徒職を認めない辺りに、コリント教会が抱く問題が見えています。考えや生活の違いと、それから始まる対立、分派、抗争です。
 そのほかにも、コリント教会は、分裂と抗争の理由を持っていました。それは、指導者による争いです。指導者同士は、問題もなく、普通に指導しています。しかし、教会のメンバーが、自分の指導者を選び、それを誇り、他をけなすようなことがありました。

 ?コリント1章は、最初というのにこの問題で始まっています。
10節を見ると、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにして、固く結び合いなさい。」と書かれています。皆が勝手なことを言い、仲たがいし、心もバラバラ、散りじりになっているからこそ、このように書いたに違いありません。
 ローマ帝国内でも豊かな交易都市、人口の三分の二は奴隷、総督が駐在し、治安は維持されていた。現代日本の大都市を感じます。

 ?コリント12章前半でパウロは、霊の賜物とその多様性について語ります。恐らく霊の賜物の多様性と、一つの体に多くの肢体があることとは、無関係ではないでしょう。そのために、賜物によってなされる多くの働きについても、丁寧に語るのです。
 また、さまざまな霊の顕れがあるのは、全体の益となるためです、と語るのも、20節「多くの部分があっても、一つの体なのです」と対応させているのです。
一つ一つは他の多くのために、部分は全体のために、一つの働きは他を生かすことになります。これが、ここで語られていることです。

 キリストの体に相応しく生きよう
それは形も中身も違うものが仲良く生きることです。なぜなら、このような私たちのため主キリストは命を捨てられたし、命をお与えくださった。そして私たちの生きる命となってくださったのだから。違いを乗り越えることもできるはずです。

 その形こそ本日の聖書の箇所です。
イエス・キリストを頭とする一つの体なる教会を語ります。
頭とその肢体の関係。肢体が勝手に結び付いてくるわけではありません。手や足が、この頭は気に入ったからくっついてやろうと言って結び付くものでもありません。
 パウロの神学では、『からだ』という概念はとても重要なものです。しばしばキリストの弟子たちの群れを体にたとえます。教会は、有機的な「からだ」に喩えられます。

 12節以下で、肢体の多様性が語られますが、その中では格好悪い者、弱い者について書かれていることが注目されます。これはことによると奴隷について書かれたものかもしれません。社会における地位・身分の格好悪さです。もし一般の自由民が、事情あって、奴隷身分になったとしたら、それはいつの時代にあっても醜聞であり、人々の耳目を集めたことでしょう。
 いわゆるスキャンダルになります。この言葉は、つまずかせるという意味のギリシャ語スカンダリゼインを語源としているそうです。周囲の人が躓くのでしょうか。それとも噂の当人が躓くのでしょうか。スキャンダルとは面白い言葉です。一つのことは、その場限りで収められることはありません。遠くまで波及してゆきます。
 格好悪い者、弱い者は、現代風に考えれば、障害を担っている者たちになるでしょう。
あの人たちは決して担っているわけではありません、と言われることがあります。確かにその通りだ、と感じます。担わされている、と言うほうが正しい、とも思いながら「担っている」と言っています。
 それは、駿河療養所での経験が言わせるのです。あの方たちは、ある時から、病気も障害も積極的に担い、生き、神の榮を表すのだ、と決意し、歩んでこられました。あの方たちは、ハンディキャップを積極的に担って、生きかつ死のうとしています。
それだからこそ私は、第五主日ごとに訪問して力を、元気をいただいてくるのです。

 もう一つ、現代風に考えて見ましょう。現代日本では、若い人たちが余り大事にされていない、と感じませんか。若い人口は、仕事のための労働力、税金や保険の払い込み人、だから大事にする。ちっとも大事にしていませんよ。
若年人口が少なくなると、国力の減退になるから困る。少子化傾向が続いたら将来の労働者がいなくなる、介護の担い手がいなくては困るから海外から導入しましょう。確かに求められています。然しそれは、労働力や税負担者の数でしかありません。もっと若者自体を大事にするのでなければ、求めるのでなければなりません。

 月曜日、教会学校のサマースクールが行なわれました。礼拝と分級、お昼ご飯が終わって、お出かけです。楽しみにしていた舟遊び・クルーズです。冷房もない小さな船を選んでくださったので、暑さを覚悟して乗り込みました。玉出が18人。合計40人ぐらいで、大阪城公園の船着き場から道頓堀、湊町まででした。私の隣には車椅子の青年がいました。
脳性麻痺でしょうか、声は出ても言葉になりません。父親の年輩の髭の人がお世話をしていらっしゃいました。最近、乗ったことがあって、良かったのでまた来ました、とのことです。固く握り締められた手を握り、頬にも触れました。声もかけました。

 付き添いのお髭さんは言っていました。
「彼は、人見知りで、知らない人の相手をしないのです。凄く良い顔で笑っている。」
私も小さい頃から人見知りでした。今でも知らない人と話すのが苦手です。彼と同じです。

私にも、何故か分かりません。それでも、輝いていたこの顔はとても良い笑顔に違いない、と感じることはできました。
 お父さんは喜んでいました。のぶ君も、私も喜んでいました。私は、何もできないけど、この舟遊びを楽しみにしてきたのだから、その嬉しさを伝えたい、と感じていました。
そういうことって伝わるのでしょうか。
 何も考えていませんでしたが、振り返ってみると、のぶ君を特別視、特別扱いするのではなく、自分の喜びと感謝を、感動を伝える仲間としていたように思います。
湊町で、お母さんが待っておられたようです。急いで行ってしまいました。

 単純素朴に、一人格として話しかけたから、私が受け容れられた、と感じます。
受け入れられたことで、相手を受け容れることができるようになることもあります。
ひとりの人を、そのまま丸ごと受け容れることが、相手を大事にすることである、と学んだことが思い出されます。難しいことです。

 パウロは、からだの関係、各部分のあり方について、よく語っています。
部分部分はそれぞれ違っている。違うのが当たり前。違う働きがあります。それぞれが必要なのです。不必要な部分はありません。
 弱く見える部分や、格好悪い部分が、かえって必要なのです。もとの聖書では、卑しめられた、不名誉な、軽んじられた、という意味の言葉が用いられます。これは将に、十字架のキリストの姿です。あの卑しめられ、侮られた主イエスによって、私は生かされ、生きているのです、とパウロが叫んでいます。

 教会はキリストの体です。そこに集う各人は、自分の好みに従い、集まったのではありません。頭である主キリストに召し集められました。
みんな違います。それぞれの働きの場、礼拝の場があります。みんな必要とされ、大事にされています。優れているからではありません。罪人だから、他のところ、ほかの場所では生きて行くことが難しいから、ここで大事にされます。
 一人が生かされ、生きるために、他の多くの者が必要とされます。共に、一緒に生きるのです。苦しみも共に感じ、共に苦しみます。ひとりが尊ばれることは全員の喜びになります。
愛が働く所では、妬みやひがみ、いじけの感情は退けられます。

 今の時代、一人一人が生きて行くことの困難さを語ります。若い時から計画していた生き方が、出来なくなってしまった、と嘆いています。捨てられた、と告げます。
そうしたひとりびとりが、キリストによって求められ、招かれれています。

 感謝しましょう。