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2010年5月23日

《聖霊の賜物》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ4:26〜34

  聖霊降臨日(ペンテコステ)、讃美歌16,177,500、交読文25(詩篇23篇)
  聖書日課 ヨシュア1:1〜9、使徒2:1〜11、マルコ4:26〜34、詩編122:1〜9、

 日替わりで気温が乱高下する、これが今年の4・5月の特徴でしょうか。
今年も枇杷の実が大きくなり、色づいてきました。一昨年は、丁度美味しそうになった所で、小鳥たちが一日で食い尽くしてしまいました。食い物の恨みかもしれません。あれは忘れがたいことです。しかも、ここから万代池にかけて、何軒も枇杷があり、そちらの木には、その後も実が残っていました。教会の枇杷は、小鳥たちがおいしいことを保証してくれた、と満足しました。それでも、何故ここだけが美味しくて、他の家の枇杷は食べないのだよー、と不満になります。人間は、食べ物のことになると、一番保守的になり、自己中心になるようです。と言うより、私は、と言うべきかも知れません。

 昇天日からペンテコステまでの短い時の間に、5月19日・水曜日、大橋眞さんは、この世の生涯を終え、天に帰られました。クリスチャンとして、医師として、75歳でした。
皆様には、お見舞いに行く機会を差し上げることが出来なかったことを、お詫び致します。
実は、4月末に入院された時、担当医から「三ヶ月が山でしょう」と言われた、と伺いました。早速病室に参りました。4人部屋でした。お話をし、祈りました。お見舞いのことも伺いました。ご辞退したい、とのことでした。更に早く元気になって診療活動に復帰したい、と仰いました。そのため、ご遠慮下さい、とお願いしました。
 その週末から日曜にかけて、容態が悪くなり、処置の都合上個室に移されました。駆け足のように、地上を去って行かれました。ご家族も、こんなにあっけなく逝ってしまう、とは思いもよらぬことだったでしょう。最後の日々、天の故郷へ帰る準備をしていただこう、との思いも虚しくなりました。残念な事ですが、必要なかったのかもしれません。
 奥様の恵子さんを始め、長男敦さん、次男靖さん、それぞれのご家族一同の上に豊かな慰めと望み、平和が与えられますよう願います。

 本日は「聖霊降臨日」ペンテコステです。クリスマス、イースターと並ぶ教会の三大祝祭日。その次、四番目が「昇天日」、これを加えて四大祝祭日と呼びます。
これらの中でも、聖霊降臨日には特異な点があります。
他の三つは、キリストご自身に関わる祝祭日です。誕生、復活、昇天、主のご生涯の大きな節目です。ところが、聖霊降臨節は、教会の誕生日と言われて来ました。
その由来を知り、共に喜び、讃美しよう、と願います。

聖霊降臨の出来事は、使徒言行録2:1〜11にあります。その性格についてマルコ4:26〜30、聖霊の働きについては、ヨハネ3:8〜9を読むことにしましょう。
また、多言語奇跡については、創世記11章「バベルの塔」の物語をお読み下さい。

 先ず使徒言行録2章をお開きください。214ページです。
主イエスの弟子たちは、イスカリオテのユダが死んだ後、12人の枠を補充しました。
くじ引きによってマティアが選ばれたのです。その後、「五旬節の日が来て」とあります。
「旬」は10日のことです。いろいろなことが言われますが、大事なことは、一年の収穫を感謝する祭りの日、ということです。
五旬節は、大麦の初穂をささげる日(除酵祭)から50日目に当たる祭り(レビ23:16)、
7週間目に当たるので「七週の祭り」(シャブオット)とも言う(出34:22、申命16:10)。
あるいは、刈り入れの祭り(出23:16)、「初物の日」(民数28:26)とも呼ばれます。
神殿崩壊後には、出エジプトの解放記念とシナイにおいて与えられた律法への感謝を、この祭りで祝うようになりました。

 ペンテコステ・50日祭は、収穫感謝とイスラエル以外の土地への離散(ディアスポラ)、神の御旨の、啓示の時です。この時を選んで、聖霊が与えられ、弟子たちは諸外国の言語で話し始めます。特別な意味があるに違いありません。

 この日、弟子たちは集まっていました。恐らく12人の者たちと、それ以外の、主イエスを慕う者たちが、主の言葉に応えよう、と集まり、心一つに祈っていました。
1:15には、120人ほどと記されています。
そのさ中、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」
 これが聖霊降臨の出来事です。これはこの時のことであって、何時でもこれと同じということはありません。12人の者たち以降、聖霊に関する報告は画一的ではありません。

 大切なことは、このとき起こったことです。彼らが多くの他国の言葉で、神の偉大な業を語った、ということです。これを多言語奇跡と呼びます。
その始まりは、創世記11「バベルの塔」物語です。自分たちの力を過信した人々は、自分たちの名を高く挙げようと考え、天にまで届く高い塔を建てようとします。その時、全地の言葉は一つでした。神はこの状態を御覧になって、これはよろしくない、とされ、彼らの言葉を乱されました。通用していた言葉を語っても、もはや通じなくされたのです。

 だいぶ前のことになります。頌栄女子学院の近くで、小さな建築が行われていました。
高いところに日本人がいます。下には西アジアの人が立っています。上からの声が聞こえます。「おーい、ノコギリを持って来い」。下の男は、バールをもって示します。
何か言っていますが、わたしにも、上の男にもさっぱりわかりません。怒っていました。
両方に怒りが積もることでしょう。最初のうちは、申し訳ない、と感じても、積み重なると、どす黒い怒りに変わって行きます。
言語は、語られ、聴かれてはじめて言葉となります。発出されたものは、受け入れられ、理解されて初めて言葉として機能するのです。言葉は伝達の道具です。
人間の知識、経験、感情、意志、などなどを伝えます。これが乱された時、人々の団結は消え、一致は失われ、目的意識も消えうせます。これがバベルの塔で起きたことです。

 ペンテコステに起きた事は、このバベルの塔物語で失われた言葉を回復することでした。
さまざまな読み方、解釈があります。弟子たちは、何も知らずに、彼らのふだんの言葉、アラム語かコイネー・ギリシャ語で話した。それを聞いた人々は、それぞれのお国言葉で語られたように聴いた。そして、理解できた。これが4節の出来事です。
「すると、一同は霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」

 何を話したのでしょうか。内容が重要になります。
「神の偉大な業を語っているのを聞く」とあります。この時より50日前までに起こった出来事を話したのです。主イエスの十字架と甦りを証言しました。
多くの者たちは、これを聞いてあっけにとられ、驚き、怪しみ、戸惑いました。
直ちに信じたとは、ここには記されていません。そのためには、この続きの部分、14節以下にあるペトロの説教が必要なのです。その説教後、3000人ほどが洗礼を受けた、と伝えられます。これもまた、神の偉大な業です。私たちは、この証言を聞く者たちの仲間です。

 ここに始まった証言の働きはどのような実りを結ぶのでしょうか。神の偉大な業は、神の国の到来である、と考えられます。福音書の《神の国の譬》が、私たちにこのことを教えてくれるでしょう。マルコ福音書4:26〜34をご覧下さい。「からし種の譬」です。
 イエスは、神の国をからし種にたとえて話されます。どんな種よりも小さいが、蒔かれると、成長してどんな野菜よりも大きくなる。空の鳥が、葉影に巣を作れるようになる。
この譬から、聖霊降臨の出来事の結果とその意味を教えられます。

 聖霊降臨は、神の力が下ること、人々に与えられることです。始まりはたいへん小さいけれども、やがて大きな実りを得るであろう、と語られます。最初は12人の者たちと、その回りの120人ほどの群れでした。それが次第に大きな群れとなり、戦乱や、地震のような災害、ローマ帝国やユダヤ人による迫害、北の蛮族の襲来など多くの困難を経験し、乗りこえながら、この群れは教会へと成長しました。世界の辺境から出発し、世界の中心を目指し、進みました。多くの血が流され、その血を土台にして教会は建てられました。
殉教者の血により教会の礎が固められました。
 誰も聖霊を見ることは出来ません。神の息です。風と同じようなものです。
ヨハネ福音書3:8を読みましょう。167ページです。
 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを 知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
聖霊の本体を見ることは、誰にも出来ません。もし見ることが出来る、見たことがある、と言う人がいたなら、大胆に疑ってください。またその働きを見せてあげるという人がいたなら、その話をよく聞いてください。質問しましょう。どこかおかしい、聖書とは違うことに、たいてい気付きます。

 聖霊を受けて他の人には分からない言葉を語ることを「異言を語る」と言います。
ある若い牧師が、私に異言を語らせてあげる、と言いました。「アンナことは、訓練で如何にでもなるのです」、と言いました。これは聖霊を汚すことに違いありません。神の力である聖霊は人間が思い通りに動かすものではありません。人間が動かされるのです。

 私たちは、聖霊を見ること、触れること、支配することはできません。それでも聖霊が働いた跡を確認することは出来ます。聖霊の働きのしるしを見ることは出来ます。
誰も聖霊によらないで、「イエスは主である」と告白することはできません(?コリント12:3)。
聖霊に導かれ、生きた人の群れがあります、聖霊に建てられ、導かれた教会がここにあります。信仰と教会の成長は、他の人を慰め憩わせることにあります。

 人間が、自分の力に依り頼まず、聖霊の導きに委ねることは、本当に難しいことです。
蓋棺定評、という中国の言葉があります。人間の評価は、棺に蓋をして、初めて定まるものだ。生きているうちの評価は当てになりませんよ、という意味です。
大橋先生は、将に聖霊に導かれ、委ねておられた、と感じました。

 私たちも、聖霊に力付けられ、導かれて、生きています。感謝しましょう。
 更に神のみ旨に適う生き方、イエスの十字架と復活を証言する生涯を送りたいものです。