復活節第7主日、讃美歌23,322,506、交読文24(詩100篇)
聖書日課 イザヤ45:1〜7、エフェソ1:15〜23、ヨハネ17:1〜13、
詩102:13〜19、(マルコ16:15〜20、8:31〜9:1)
ニセアカシアの白い花が咲きました。ぶどうの花芽が出て来ました。
スズメの数が増えて来ました。木々の葉が大きくなりました。陽の光を受けて、くっきりとした影を地面にしるしています。例年ならば夏支度になっているはずなのに、今年はまだ冬物が手放せないでいます。一体、何がどうなっているのでしょうか。春がなかなか来ない、と言っていたら、今度は夏が来ないということになりそうです。気象天候は決して一様ではない、と承知していますが、それにしてもおかしな気候になっています。
青い空にポッカァリと浮かび流れて行く白い雲、まるで夏の感じがします。それでも夕方になると冷たい風が吹いてきます。
今年の教会の暦では、5月13日(木)が昇天日でした。従って本日は『昇天後主日』と呼ばれます。
漫画などでよく見られる場面、「昇天したー」。これは人や動物がその生を終えた、死んだことの表現です。一般的に見られ、承知されています。何の不思議もなく受け止められていますが、これは少しおかしい、と言わざるを得ません。
普通人が死んだ時、何処へ行くと考えられているでしょうか。地獄ではありませんか。
仏教では、地獄・極楽です。善行功徳を積んだ妙好人なら極楽往生間違いなし。普通の者は閻魔様の前に引き出されて、行く先を分けられる。生前嘘をついた者は舌を引き抜かれる、と言い聞かされました。それでは、皆引き抜かれるな、その舌はどうするのだろう、たくさんの舌、料理しても美味しくはないだろうな、などと考えたものです。嘘つきの舌は、佃煮にされる、とも聞いた覚えがあります。正直であれ、と教えたのでしょう。
聖書は、死んだ人間は、すべて黄泉(よみ)に降ると言います。陰府と書きます。
いずれも『よみ』と読みます。すべての人が死んだ後行くところ。光も音も、一切の動きもない冷たいところとされます。終わりの日に呼び出され、裁きを受ける。これは、ナザレのイエスが、十字架の死によって味わったことです。
キリストの昇天はこれとは違います。復活の栄光の体をもって天に上ることです。
マルコ福音書16:15以下、は、この出来事を記します。
この部分は、本来の福音書記事が終わった後に挿入された、と考えられています。
このことは、古い写本にこの部分(16:9〜20)がないことから知られます。
ルカ福音書24:50〜51は、たいへん短く、天にあげられた、と伝えます。
使徒言行録1:9〜12では、復活して40日後オリブ山で世界宣教を命じ、昇天します。、
マタイ28:16〜20は、弟子たちを世界宣教に派遣する場面です。昇天のことは記されていません。マタイの終結部28:1〜10も、ガリラヤで会うことになる、という再会の約束である。
ヨハネ福音書は、イエスの昇天には、全く触れません。
マルコ・ルカは、第二世紀の教会の方向を支える伝承を求め、見出したのでしょう。
教会は、第一世紀の終わりごろから、断続的、地域的な迫害を経験しました。もちろんそれらの中には、皇帝の命令による全国的な大迫害もありました。しかし、それらはさいわいにも長くは続かず、また津波のように移動するものでした。迫害が始まると、他の地方に逃れ、それをやり過ごすことができました。だからといって、迫害は大したことではなかった、と言うことは出来ません。突然始まることもあったでしょう、移動することができない人たちもあったでしょう。多くの人々が殉教して行きました。家庭が崩壊し、悲劇が生まれました。多くの血が流され、その中から教会が進展して行きました。
そうした時代の只中にあって、教会は、「世界宣教」をイエスの最終的な命令として受け入れました。世界宣教は、その時代の人々にどのような意味を持ったのでしょうか?
福音を受け入れる人々は、何を信じ、何を考えたのでしょうか?
ナザレのイエス、すなわち世界の辺境、ユダヤのエルサレムで、犯罪者の一人として十字架にかけられ、死んで葬られたイエスをこの世界の救い主、メシア・キリスト、世界の王であり主である、と承認し、受け入れることです。
昇天の出来事を書き加えた教会は、その世界の只中でイエスを主と崇め、全世界にこの福音を伝えることを承知し、自らの使命として受け入れました。
これは、価値観の転換を意味しました。皇帝礼拝の時代に、イエスを救い主、王として礼拝する。神々を礼拝する多神教、偶像の時代に、周囲の人たちと違う唯一の神を礼拝する。これがどれほど困難なことか、わたしたちの時代でも変わらないはずです。ゆっくりでも良い。生活の中で、この信仰を表そうではありませんか。
さて、ヨハネ福音書17章ですが、これは『イエスの祈り』という小見出しがついています。
それを特に否定したり、拒絶したりするわけではありませんが、前回お話したように、『大祭司の祈り』とも呼ばれています。主イエスが、弟子たちのため、その後の教会のため、執り成しの祈りを捧げているからです。
更に主イエスは、ヘブライ人への手紙7章で「ご自身を捧げて永遠の贖い、執り成しをなさるまことの大祭司である」とされています。イエスの祈りは他にもあります。
大祭司イエスの祈りは貴重です。頭の片隅にでも入れておいて下さい。
この祈りの中には、「栄光」という言葉が繰り返し用いられています。
「栄光」はギリシャ語でドクサ。意見、評価、好評、賞賛、名誉、光輝、輝き、の意味です。
また、七十人訳聖書では、至聖所の輝き(シェキナー)を表す訳語となります。
「ドクサゾー トン セオン」となると、神に栄光を帰する、神が生きて働いておられることを認め、それにふさわしい生き方をする、という意味となります。
栄光とは、神ご自身を顕すことです。
ヨハネは、カナの婚宴の出来事(2:1以下)を「はじめの栄光」とします。
11節「イエスは、この最初の徴をガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」。
栄光のあるところ、人は神を信じ、受け入れます。
イエスの十字架の死と甦りは、栄光である、と理解されています。全ての罪人の罪をその背に担い、死んで、三日目に甦り、永遠の命の先駆けとなられました。これによって、父なる神の愛を顕されました。神ご自身を顕されたのですから、主イエスも栄光をお受けになります。そしてこの栄光は弟子たちにも与えられ、彼らの永遠の命となります。
「永遠の命」とは何でしょうか。
17:3は「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と語ります。
永遠の命は、ヨハネ福音書では、御子イエスを知ることです。理知的で頭脳明晰な人は信仰の世界でも有利で、成功者になれるのでしょうか。感覚的、情緒的な人が頭脳明晰ではない、と言っているのではありません。現代社会では、偏差値、学歴によって多くのことが決定されている、ということです。そのために、自分の子供には少しでも良い成績、進学、就職を有利にしたい、と願います。この考えの中では、賢いことと努力する才能が必要です。
「永遠の命」を得るためには、そうしたものは不要です。邪魔になることが多いでしょう。
イエス・キリストを知るためには、才能や系図は不必要です。
私たちが、日本的に「知る」ことを捉えている限りこのことは解らないでしょう。
ヨハネは、日本人ではありません。ギリシャ的な考えや知識をもっているかもしれません。それでも彼はユダヤ人です。ヘブライ人です。
多くの学者が、ギリシャ(ヘレニズム)とユダヤ(ヘブライズム)の考え方、言葉の使い方、文章法を比較研究し、その違いを明らかにしてきました。歴史観(らせん状円環と直線)や宇宙観(二元論と一元論)などの違いもあります。
最も特徴的なのは、「知る」という言葉の理解と使い方です。ギリシャでは、対象を認識することです。自分と対象、相手とは相変わらずそのままでよろしいのです。私たちの場合も、そうではありませんか。「私は・・・・さんを知っています」、それだけ。
それに対してユダヤでは、「知る」ことは人格的な交わりを伴う、とされます。
創世記4:1をお読みしてみましょう。「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、・・・」。これが人格的交わりです。愛すること、という方もあります。
「永遠の命」を得るために必要なのは、イエスを知的に認識する事ではなく、神の愛を受け、イエスを愛することです。それだから、ヨハネは3:16に書きました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
私たちは愛されて、愛を知ることが出来ます。イエス・キリストを仰いで神の愛を学ぶことが出来ます。愛を知り、愛するものに成らせていただきましょう。
最後にもう一つ、ヨハネの第一の手紙3:16をお読みします。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要なものに事欠くのを見て同情しないものがあれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって誠実に愛し合おう。」
主イエスの昇天は、私たちに世界宣教の命令を与えることでした。それは実に、愛しながらの戦いを繰り広げることです。一人一人がこの戦いに召され、招かれています。さまざまな形があります。どうぞ参加してください。
参加することが許されています。招かれています。応えることが出来ます。
感謝して祈りましょう。