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2009年12月20日

《告知》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ1:30〜56

  降誕前第一(待降節第四)主日、クリスマス礼拝
  讃美歌94,115,107、交読文43(ルカ伝1章)
  聖書日課 サムエル上2:1〜10、ローマ1:1〜7、ルカ1:39〜56、詩編72:1〜7、

 先週月曜日、午前中は天王寺の金山クリニック、帰ってきてスイセンが咲き始めたことに気付きました。その後注意して見ていると、次々と花が開きます。蕾も大きくなります。春も早くに咲く庭木を見ると、花芽と思しきものが見えます。これからの寒さを凌いで行くのは、大変だろうと思います。
 その後、木曜辺りからは強烈な寒気の襲来です。大阪生活始まって以来の寒さ、と感じています。それでも氷は張りません。一昨年でしたか、薄氷が張ったことがありました。その時の方が寒かったのでしょう。今年は冬の入り口で、体が馴れていないために、余計寒く感じているようです。
 秩父の入り口、小川町ではマイナス7度を経験しました。この町は標高100メートルの盆地です。そのときは、水道が軒並み破裂、大変な騒ぎになりました。
 御殿場は高度400メートル。夏場の避暑地として知られていました。かつては夏のクーラーは不要とされていました。冬の寒さは厳しくて、東山荘のある辺りでは、池に氷が張り、スケートが出来たほどです。それも30年位前までのこと、その後は温暖化傾向のため変化しています。御殿場の冬は、マイナス5度くらいが普通だったでしょう。少し寒い、と感じるときは、破裂しないような工夫があるのですが、それでも破裂しました。

 大阪はそれと較べれば極楽です。
寒い中でもクリスマス礼拝をご一緒に捧げることが出来、感謝です。
聖地でも、このクリスマスの時期は、たいへん寒いそうです。羊飼いたちも、夜の羊の番は、どうしたのでしょうか。ヨハネ福音書では、夜になると羊の群れを囲いの中、あるいは家畜小屋に入れていたようです。羊飼いたちは外で焚き火をして、暫く楽しい時を持ったことでしょう。それからは、交代で外を見張り、中で仮眠を取ったことでしょう。

 近年、聖書を科学的に読む、という傾向があります。結構な事ですが、そうも言っていられないこともあります。最近、未知のご婦人から、お電話をいただきました。その方は、クリスマスについて、教会は聖書に書いていないのに、クリスマスをでたらめに守っている、と言われました。
 一つ一つに反論はしませんでした。最後にまとめて、私たちはそうしたことを承知しています。学問的に研究もされています。それでも教会は、従来と同じようにクリスマスを守る決断をしているのです。そして皆で、共にクリスマスを喜ぼう、と考えています。どうぞ、教会にお出で下さい、と申し上げました。
 例えば、12月25日にお生まれになったなどと何処にも書いてないでしょう、と言われました。確かにその通りです。では何故クリスマスがあるのでしょうか。
誰でも誕生日があります。その日が解らない時、どうしたら良いでしょうか。誕生の日を作り、与えます。当人も、周囲の者たちも、それによって安心し、喜びます。古代の人たちは、誕生日を詳しく書き記す習慣をもっていません。マリアの息子も、その誕生日を知りません。その誕生を喜ぶ人たちが、誕生日を作るのは当然のことです。
 父・母を知らず、施設で育てられた人がいます。親代わりになってくれた人たちが彼、彼女に名前と誕生日をプレゼントしました。そして祝いました。

 羊飼いが野外で不寝番をすることが出来ない寒い時を誕生日にするなど不見識だ、という方は先ほどの考えに耳を傾けてくださるようお願いします。狼や家畜泥棒は、寒い時は出てこないでしょうか。どれほど寒くても、羊飼いはその羊を守らねばなりません。
教会は、あえて困難な時を、神のみ子イエスの誕生日として選びました。

 クリスマスは信仰の出来事です。み子イエスの誕生を喜び、楽しむ信仰があって、初めてクリスマスが生まれます。

 不思議な懐胎の告知、予知、預言は、聖書の中に幾つか記されています。
懐胎することが不思議、その上、そのことが告知されることも不思議、二重の不思議です。
そして、これらの出来事が語られる時、其処には幾多の困難、悩み、苦しみがあります。
み子の誕生は、人間的には困難の時こそふさわしい、と考えます。

 不思議な懐胎と告知を、聖書の中に探して見ましょう。
 先週の木曜会で読んだ列王記下4章、預言者エリシャの物語の中にも懐胎告知、出産が記されています。旧約581ページ。
 シュネムの裕福な婦人がエリシャを親切にもてなします。彼女も子供がいません。これは彼女の深い悩みであり、預言者に親切にする一つのきっかけなのでしょう。エリシャは、この親切に対して何かで報いたい、と考えました。教える人があり、入り口に立った婦人に「来年の今頃、あなたは男の子を抱いている」と告げます。
 この所で、私の関心は、この婦人の、臆病なまでの慎重さです。喜びがもたらされようとしている時、「わたしを欺かないで下さい」と言います。
期待が裏切られることを恐れているのでしょう。これまで何回も期待しては、失望することを繰り返してきたのです。
 翌年の同じ頃、男の子を産みました。

 有名な物語としては、99歳アブラハムとその妻サラ89歳の懐胎、出産の物語があります。
創世記17:15〜22、18:10〜15に記されます。
二人は、神の使い、神ご自身であったとも言われますが、その言葉を信じられずに、密かに笑いました。私たちも、それが当然のこと、と頷きます。二人の態度が不信仰である、と言われる時、私たちも同じように不信仰なのです。不信仰な者たちの間に神の言葉は語りかけられ、実現に向けて進んで行きます。神に不可能はないことを知らされます。
私たちの不信仰にも拘らず、神の言葉は生きて働きます。
むしろ不信仰だからこそ、その不信仰を破る神の力が発揮されます。

 次にサムエルの誕生物語を見ましょう。これは、本日の聖書日課、サムエル記上2:1〜10、『ハンナの祈り』の前段階です。サムエル上1章、旧約428ページをご覧下さい。
 エルカナという人に二人の妻があり、その一人ハンナには子供がないが、夫に愛されていた。もうひとりの妻ペニナには息子、娘があり、ハンナを敵視して、「ハンナを思い悩ませ、苦しめた」。10節以下で、ハンナが神殿で祈り、誓約することが語られます。
 それを見た祭司エリは、彼女が酒に酔っているのだと勘違いします。ハンナの話を聞いたエリは、「安心して帰りなさい」と勧めます。ハンナは、エリの言葉に心が晴れたようです。慰めを得て、翌朝、礼拝を捧げて、家に帰ります。月満ちて、夫エルカナの子をもうけます。
 乳離れした後、神殿で神に誓った通り、与えられた子供を神に捧げるため神殿に上ります。サムエルと名付けられたこの男の子は、その生涯を主に委ねられます。
 その時の祈りが、2章です。これは、後の『マリアの讃歌』のお手本になったのではないか、と言われます。それほど深く、高い祈りです。

 祈りは、先ずひとりの神を讃美して始められます。その神の前では、人は謙虚にされます。そして、神の業が讃美されます。強者が倒され、弱く、嘲られている者が立たされる、と歌います。弱い者を表す言葉は、実に豊かです。
 よろめく者、飢えている者、子のない者、弱い者、貧しい者。

子のない者には、七人の子供が与えられるとされます。当時七人が理想的な子供の数とされていたのでしょう。
 そして、神の力は7〜10節に表現されます。貧しくし、富ませ、低くし、高めてくださる。命を与える主は、それを奪うこともおできになります。

 新約ではヨセフのいいなづけの妻マリアと、彼女が訪問するその親戚の女エリサベトの懐妊告知です。ルカ福音書1:5〜25です。
 エリサベトは、祭司ザカリヤの妻で、子供がないまま、年老いていました。その懐妊の告知は、夫ザカリヤが神殿で務めに就いている時、なされました。そうして生まれるのは、荒れ野の預言者ヨハネです。マリアから生まれるイエスとは半年ほど年長になります。
画家のムリリョは、この二人が幼少期に遊ぶ、可愛い絵を描きました。

 エリサベトは、神の祝福を伝える祭司の妻でありながら、子供という祝福に恵まれないことを悩みました。人々の陰口を悲しみました。嘲りに傷付きました。
男の子が生まれた時、父となったザカリヤは、誇らしげに、高らかに、讃歌を謳います。
1:67〜79に亘ります。ハンナの讃歌と同じように、全能の神の力を讃美します。
低い者が高められたことを讃美しています。主なる神の憐れみの心によって、希望が与えられたことを喜び謳います。

 これら不思議な懐胎物語の頂点に、マリアが立っています。と言うよりも、マリアが膝まずき、傍らに、守るようにヨセフが立っています。「受胎告知」と呼ばれ、多くの絵画の主題とされました。その讃歌は「マニフィカート」と呼ばれる音楽となりました。いずれも芸術家の心を刺激し、創作意欲をほとばしらせるもととなりました。

 マリアへの懐妊告知は、他の場合と少しばかり違うように感じます。マリアは、自分自身では覚えのない懐妊によって、身の危険を感じざるを得ません。婚約中の女性が、婚約者以外のものによって身ごもったことが知られれば、姦淫の罪で殺されます。
 婚約中の夫ヨセフは、密かに離縁しようとします(マタイ1:19、20)。懐妊することが喜びではなく、恥辱と恐れ、不安のもとになりました。
 このとき、御使いに励まされ、促されて、ヨセフが、マリアを助けます。
彼は、この時、自分の正しさ、義を主張するよりも、御言葉を信じ、信頼し、従うことを選び取りました。偉大な信仰者ヨセフです。
自分の子供を身ごもっている、と語り、その子を我が子として育てることを公にします。

 本日の聖書は、マリアの讃歌です。ヨセフと婚約してはいるものの、今身ごもっているとなれば、当然離縁される。その恐れと不安の中でマリアは、神を讃美し、その御言葉を受け入れることを表明します。偉大な信仰者マリアです。
 聖書では、四組の夫婦は悲しみや悩み、疑い、不安、苦しみの中で、そこから引き上げられるものとして、祝福として懐妊が告げられました。当然それからの時間は喜びへの道でした。シュネムの婦人、アブラハムとサラ、エルカナとハンナ、ザカリヤとエリサベト。この四組の夫婦は疑いつつも、喜びへと高められて行きました。
 ヨセフとマリアの場合、子供が与えられる喜びはありましょう。然し、その先に示されているのは、喜びではなく、苦しみでした(ルカ2:33〜35)。
告知は、苦悩の始まりでした。

 このように見てくると、受胎告知、懐妊の告知は単なる喜びの知らせに留まらないことが明らかになります。
 告知は、第一に喜びの知らせです。嘲笑からの解放です。祝福の知らせです。
     第二に、将来の苦しみを知らせるものでもあります。
     第三は、告知に先立つ人々の悲惨、苦悩を神はすべて知りたもう、ということが告げられます。苦しむ者を見棄てることなく、その中から立ち上がる道を備えてくださるのです。

 神は、虐げられた者、嘲られた者、低くされた者を知り、その傍らにあって支えてくださいます。御力をふるい、敵対する者たちを打ち破られます。
 神は、驕り、高ぶる者を知り、彼らを低くされます。傲慢であることから解放してくださるのです。

 神はすべてを知り、全ての者をその悲惨から解き放つために、御子を世に送られました。

 クリスマスは、単純な楽しみの時ではありません。苦しみがあることを示されながら、なお傍らに居られる神を信じ、全てを知ってくださる神を信頼して従う者の喜びの時です。

 感謝して、祈りましょう。