聖霊降臨節第19(三位一体第18)主日、世界聖餐日・世界宣教の日、
聖書日課 コヘレト3:1〜13、?テサロニケ3:6〜13、マタイ20:1〜16、詩編90:13〜17、
早いものです。今年のカレンダーも残り三枚になりました。日めくりなら90枚をきったということです。前主日午後のワークのおかげで、教会の内外が、どこかすっきりした様子になりました。あり難いことです。
秋の諸行事を爽やかに迎えられそうです。
秋は稔りの時、一年の厳しい労働の成果が収穫される時です。
梅雨の雨の時も、夏のアブラ照りの日も、汗水流して働いて良かった、と思うとき。
その故にだからこそ、この時期に収穫感謝の祭りが行われるのです。
岸和田の《だんじり祭り》は9月半ばでしたか。まだ見たことがありません。
あの祭りも秋の収穫を感謝するのが、本来の起源だ、と聞きました。
この祭礼の頃になると、つらい労働にも意味があった、と感じますが、そうは思えない時期もあったはずです。
ところで「労働」とは何でしょうか。その定義を聞いた覚えがありません。勉強不足で、申し訳ありません。辞書・事典に当たる前に、少し考えて見ましょう。
一口に労働と言っても、その中身はだいぶ異なります。筋肉労働、頭脳労働。
生産物がある労働、ないもの、それでも何かしらの結果はあるはず。
例えば家事労働、炊事は食事を生み出すが、他の場合殆んど生産物らしきものはない。
それでも生活上、必要な事柄を整える働きです。この「整えられた」物、事が、生産物に当たるのでしょう。
労働は、それによって適正な支払いを受け取ることが出来ます。報酬・対価と呼ばれます。
労働によって報酬・対価を得る、収入を得るという考えは近世になってからです。
それ以前は、大抵は自分自身の生存のための働きでした。あるいは報酬を求めることの出来ない奴隷労働でした。現代では、労働は報酬を得るために自分の能力を提供すること、と言えるでしょう。
報酬に関しては、いろいろな考えがあります。代表的な二つをご紹介しましょう。
一つは、産出物の価値にふさわしい価額の支払いを受ける、とするもの。
工芸品であれば、その出来具合に応じて、また名声に応じて支払額が変わります。技術料に近いかもしれません。しかし、この考えには市場における需給関係が入っていません。市場が必要としない、売れない、となれば、どれほど上出来であっても支払われるものは小さくなってしまいます。
もう一つは、労働再生産の費用を補償する、というものです。一日良く働いた、明日もまた同じように働くために休養し、英気を養って来る。そのために要する費用を提供しよう、という考えです。技術を獲得するための費用も計算に入れられることになるのでしょうか。健康や生命への危険も考えられるのでしょうか。
スポーツ選手や芸能人も労働者。その獲得している対価が適正である、とは考えがたい。
事典はどの様に定義するか、私たちの考えるところと大差なければ幸いである。
先ず「労働」とは、人間の労働力の生産的支出を言う。労働力とは、人間がその身体内に有し、人間にとって必要な生産物をつくり出すときには、必ずこれを働かせ、作用させなければならない肉体的・精神的能力の総計のことである。
労働には二種ある。必要労働(人間自身の維持に必要な生産物部分を生産するに必要な労働部分)と剰余労働(必要労働を上回る労働部分)である。
労働は個々人の労働全体が社会の存続を支えている意味で、すなわち個人的労働は社会的総労働の一部分をなす点で社会的な労働である。
労働は人間の正常な生命活動である。
労働によってはじめて人間は人間として実存する。
以上が事典の告げるものです。さすがに専門の用語があり、社会的な広がりをもっています。それでも私たちが考えたことは、決して間違ってはいないことを確認できました。
このような手順の大切さを教えられました。先ず自分の頭で考える。辞書・事典はその後で宜しい、と。学校では、判らなかったらすぐに辞書を引きなさい、と教えられた記憶があります。教育の場で、考えることが見直されています。
私たちの社会が、労働について考えていることは解りました。殆んどの営みは労働です。
それでは、聖書は何を語るでしょうか。聖書は、労働は神の賜物である、と語ります。
旧約のヤハウェスト(紀元前10世紀、ダビデ・ソロモンの統一王国時代の人、繁栄する王国の民への預言)は最初、耕す、守ることをごく当たり前のこととしました。創2:15、
「エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」
エデンの園で初めの人は、耕し、守りました。当然のことでしかありませんでした。今日の「労働」という感じすらありません。そこには喜びがありました。
次に、労働は、人の犯した罪に対する懲罰と理解されました。彼ら(その時代の民でもある)は、その働きを喜びとすることが出来なくなりました。創3:17〜19
「お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。
お前の故に、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。・・・
お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。」
繁栄している統一王国の民には、労働を嫌がる気持ちがあったのでしょう。なぜそうなったのか、考えた時、ヤハウェストは、罪を犯した結果、懲罰として与えられた労働だから、と言わざるを得なかったのでしょう。
そしてノアの時には、すべてを神からの祝福、としました。創世記9:1〜
すべては委ねられ、食糧とすることが認められました。少し変わりましたが、最初の幸いに満ちた創造の秩序が、回復されたようでした。喜びと祝福のうちに働くことが出来ました。
コヘレト3:1〜13(p.1036)は、労働も神から与えられたものであるなら、それを喜び、楽しみとして、一生を送ろうではないか、と語ります。労働の人生に、たとえ労苦があろうとも、それは幸福に生きるための神からの恵みの賜物である、と解しました。
(コヘレトは、死に運命付けられた人間の生の意義について考えたある知恵者の言葉である・・・聖書について)
幸福に生きる道は、労働を喜び、楽しむことにある、と語ります。
勤勉な日本人の考え方に通じるものがあります。それでいて、矢張りできるなら避けたい、と思っているようです。
新約の時代、労働は、使命そのものと考えられました。使命の達成によって自己実現がなされる、と考えられました。現実の古代社会では、一般的に労働は奴隷に任せられ、自由人、特に知識人は労働を軽視、あるいは蔑視していました。わが子の教育も、それが労働である故に奴隷に任せました。ギリシャの教養を身につけた奴隷を買い入れ、家庭教師としました。
主イエスは、マタイ福音書20:1〜6で、『ぶどう園の労働者のたとえ』を話されました。
これは賃金労働者と考えられます。農園で働く人は奴隷であったことを考えると、これは特例かと思います。ブドウの収穫は繁忙期となり、多くの労働者を必要とするため、このようなことになったのでしょう。労働にも需要と供給の法則が生きています。そしてこれが、労働に関する基本的な考え方となって行くようです。求めに応じて提供されるものが労働となる、ということです。
このような時代にあってパウロは、?テサロニケ3:6〜13で勤労の大切さを語ります。
それは、『働かざるもの食うべからず』、と同じことではありません。ここでは、働くことの出来ないさまざまな事情が無視され、配慮を欠いているように感じられます。しかしパウロは、「働こうとしない者は」、と語ります。似て非なるものです。意欲を持ちながらも出来ない者ではない。意欲を欠き、努力もしないで、安易に周囲の好意に頼ろうとする者たちへの警告です。
パウロにとって労働は、神から与えられた勤めです。人間の生活に欠くことのできないものでした。しかし労働すること自体が人間の目的ではありません。人はパンのためにだけ働くのでもなく、働くために生きているのでもありません。
キリスト者にとって労働は、神の働きに対する応答なのです。
主は六日のうちにすべてをなし終え、七日目を休まれました。この創造の働きに対応するのが、私たちの労働です。出エジプト20:9
ヨハネ5:17、「私の父は今も働いておられる。だから私も働くのだ」
これは、改革者たちの思想でもありました。Beruf、callingという語がそのことを示します。呼び出す、呼ばれた者、召命、使命、務め、天職、職業などの意味で用いられ、進歩・発展した言葉です。この社会では、雑誌の名称『ベルーフ』として知られるようになりました。意外なところで、教会から発した言葉が用いられ、知られるようになったものです。
その中身も知ってほしい、と感じています。
今日、労働は罪の結果ではなく、自己実現の道とされるようになりました。
今も創造の神は働いておられます。創造の秩序のうちに私たち自らを見出すことが出来るなら幸いです。自己実現は、創造の初めの自分を見出すことです。
そして労働は、かつてのような生業として、報酬を得るためのものではなくて、生きて、存在していることの中にあります。
『顔施』という言葉があります。顔だけでも、施すことが出来るのです。寝たきりであっても、そのにこやかな顔の表情をもって、他の人を安らかにすることが出来るのです。これも一つの労働です。
創造の初めの私は、神の恵みを生き、それに応えて、与えられた使命を果たそうとしています。 感謝と讃美をささげましょう。