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2009年9月6日

《究極の希望》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
?コリント15:35〜52

聖霊降臨節第17(三位一体後第16)主日
讃美歌85,506、?編28、交読文26(詩104篇)
聖書日課 ハバクク3:17〜19、ローマ8:18〜25、マタイ13:24〜43、詩編90:1〜12、

 8月2日の礼拝後、役員会は、牧師の1ヶ月間の休養を決定しました。そうしたことには抵抗する私ですが、このときは素直に、それではこれから休養させていただきます、とお応えし、退席しました。

 その後、病名と治療法が判ります。そのことを少しお話いたします。
先ず、どのような症状があったのか。
 6月下旬、左ソケイブに小さな痛みが発生しました。すぐに直るだろう、と気にもしませんでした。一週間ほど動きはありませんでした。これが始まりで、その後、体幹部に左右不均衡な痛みが、こわばりが広がり始めました。微熱と軽い頭痛もあります。食欲不振と体重の減少、ひと月ほどで7キロのダイエット。有り難いことです。
朝起きる時が大変です。時間をかけて、つかまりながら、ようやく起きました。

 7月の末、大橋先生に紹介状を書いていただき、市立大学医学部病院へ行きました。総合医療センター(広橋内科)へ二回、骨リューマチ内科(稲葉)、市立感染症センター、市大病院の紹介で金山内科クリニックへ8月10日。このとき初めて病名が推定され、薬が出されました。その日は二錠だけ飲みました。翌朝は驚きでした。起きられそうだ。

 病名は、リューマチ性多発筋痛症。わが国では新しく、患者も少ない。欧米に多い。
原因は不明、高齢に関係していると考えられている。
治療法、ステロイド製剤を服用。「劇的に症状は改善される」痛みは取れる。
筋肉中の細い血管に炎症が起きる。リューマトイド因子は検出されないのが特徴。
リューマチではない。むしろ膠原病と関係がありそう。「面白い病気」と評される。

 幸い炎症はなくなったようです。ただし、服薬を突然中断すると再発することが多いので、やめ方が難しい。時間をかけて、個人差を見ながら進めなければならない。ステロイドの経験者からは、無気力、倦怠、引きこもり、うつ状態が強くなる、と伺いました。

 この一ヶ月、説教と聖書研究から離れるように努めました。前半は痛みがありましたが、後半は痛みもなく、日常生活へ復帰する期間としました。多くの方々のご高配をいただきました。
申し訳なく感じながら、甘えさせていただきました。本当に有難うございました。
この間、家族と共に二泊三日の旅行をしました。一人旅も一度。もったいないほど優雅な期間だった、と振り返っています。

 この間、いろいろ感じることがありました。
これは何だ、この痛みは何だ。こんなものは予定にはないぞ。痛みと一緒に年老いて行くとは考えもしませんでした。周囲には、リューマチやガン、骨粗しょう症などのため日夜痛みと戦っている人がいます。見ているのに、自分のことになる、とは考えてもみなかったのです。そんな自分に気付いた時、悲しかった。このまま痛みが続いたほうが良いのかもしれない。そうして他の人の痛みが解る者になれ、と言われているようにも感じました。

 これは神の警告だ、と感じました。明日も今日と同じではないぞ。この日の連続の明日が保障されてはいない、ということです。明日は明日の風が吹く、それは私たちには知ることが許されていないのです。同じように、明日の朝、目を覚ますか否かも解らない、ということです。それだからこそ、私たちは朝の目覚めの時に、この新しい朝を感謝します、と祈るのです。

 そして八月の終わり、そろそろ準備をしなければ、と考えようとした時、考えることを苦痛に感じる自分を発見しました。これで説教を出来るのだろうか。一生懸命続けている時は、大丈夫、何とか続きました。しかし一度止まってしまうと、倒れて立ち上がれない様に感じました。結局自転車操業と同じだったようです。
自分を励まし、説教に立ち向かいました。

 励まされ、役に立ったのは、家内の父親からかつて聞いた言葉でした。
「田園調布教会では、牧師の夏休みは長老が代わって説教をします。これには判決を書くのとは違う難しさがありました」。
 大変優れた人物であり、良い判決を書いているし、短歌ではアララギの同人でもありました。そのような人が、説教を書くことは難しい事だ、と言われている。
自分程度の者には、もっと難しいことであって、少しもおかしくはないだろう。このまま説教の講壇に復帰できなくても良いではないか、ただ召命だから頑張るぞ。

 そして、多くの皆様が、休養中の私に対し、さまざまな形で励ましてくださいました。
一昨日はある方が、信徒が出来ることは私たちがやります。説教は私たちには出来ません。
先生が百までやってください、とおっしゃいました。そして、教会の内外をきれいにしてくださいました。これまた励まされました。

 このようにして、自分自身の原点に回帰・復帰してきたように感じています。
 召命を受け、牧師・伝道者となったのは自分が優れているからではなく、このような力弱い者を召したもうた主が、必要な知恵と力を与え、お導きくださるからだ。これが私の原点でした。忘れるわけもありません。しかし意識が薄くなってしまうことはあります。
 病気になると、自分の力弱さを最もよく感じさせられます。気持ちも弱くなり、このまま終わりへと続いて行くのではないか、などとも考えてしまいます。

 パウロは、「わたしは弱い時にこそ強いからです」と、?コリント12:11に書きました。
彼は随分強い人だと思います。それでも弱さを感じるときがありました。同じ6章や11章に記されています。パウロは、その弱さの中から回復します。
「誰かが弱っているなら、私は弱らないでいられるでしょうか。誰かが躓くなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」。これは、11:29。

 彼は周囲の人たちと共感します。弱い人には弱い人のように。理解し、同じ土俵で感じ、考え、伝えようとしています。
それだけではありません、心を燃やします。ルカは、エマオ途上の弟子たちの言葉を書き残しました。甦りの主イエスと語り合うことができた二人の弟子は、「わが心うちに燃えしにあらずや」と語り合い、確認しました。単に情熱が燃えるのではありません。使命を与えられ、そのために必要な知恵と力が与えられる確信が燃え上がることです。

 パウロの苦難は、?コリント4:7以下にも記されます。(329ページ)
8節、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」

 パウロは苦難の中から、不死鳥のように立ち上がります。しかも以前に増す力と望みに溢れています。これはパウロにとって、自らの復活です。
私自身、一ヶ月間の休養から講壇への復帰、大げさかも知れないが、復活する、というのが率直な感じです。

 パウロのもとには、コリントの教会の信徒から、たくさんの手紙が書き送られたようです。
その中には、信仰内容に関する質問などもあったようです。
?コリント15:35などもその一つ、と考えられています。「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」という質問に答えようとします。

 彼は、すべての人間が土の器であり、その内に、貴重な宝・種を与えられ、抱いていることを知っています。死とは土に帰ること、そして宝でもある種が芽生え、成長する始となる時である、と語っています。死の向こうで新しい命が芽生え、育って行くのです。
 本日の説教題は《究極の希望》。これは、シューベルトの《冬の旅》の影響かな、と感じました。その第16曲は、『いやはての望み』、最後の希望、と題されています。
ご紹介しましょう。ヴィルヘルム・ミューラーの詩です。
Letzte Hoffnung 『最後の希望』シューベルト作曲 歌曲集《冬の旅》第16曲

  木々は色づき  ここに立ちぬ
  われらは思いに沈み そをば見ぬ
  ひとひらの木の葉に望みをかけば
  風は木の葉をなぶりて過ぎぬ

  木の葉は地に落ちぬ
  希望(のぞみ)も消えぬ
  この身もなげうち 涙せん
  失せし望みに

一枚の葉に、それでも希望をかけて若者は木の枝に見入る。しかし風はその最後の一枚を無常にも吹き落としてしまった。木の葉は落ち、そして若者の最後の希望も同時に消え去ってしまった。失せて行った希望に思い切り若者は声を上げて嘆くのだ。
 23曲はDie Nebensonnen『幻の太陽』若者は空にかかる三つの太陽を見た。そのうちの二つはすでに沈んだ。「さらば沈み行け  第三の太陽よ」とうたう。
ここに歌われる三つの太陽とは、希望、愛情、生命と解釈して間違いあるまい。幸福な時代には、常にこの三つが若者を照らしていた。その二つはすでに沈み、最後の太陽に自ら別れを告げている。なんという厳しい歌であろうか。
 次の第24曲Die Leiermann『ライエルマン』は全曲の余韻が響いてくる。

                   (音楽の友社版)

 この若者は、愛と希望を失い、最後、残された命に自ら別れを告げています。ここでは、「最後の望み」とはすでに失われ、消え去っています。

 文学、芸術の世界と信仰の世界の違いがここにあります。聖書に基づく信仰は、すべての望が消え去った時になお、望がある、と語ります。
 命が絶えたところに新しい命が生まれることを教えます。
 すべての愛が偽りであることが解った時にも、イエス・キリストは、その真実の限りをもって、私たち一人びとりを愛してくださっていることを指し示します。

 これが福音です。感謝し、讃美しましょう。