集会のご案内
所在地・交通
教会のあゆみ
牧師紹介
教会カレンダー
教会暦・行事
説教ライブラリー
フォト
リンク集
玉出教会 説教ライブラリ [一覧へ戻る]

2009年8月28日

《憐れみの福音(8月02日(日)礼拝説教)》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
?コリント5:14〜6:2

聖霊降臨節第10(三位一体後第9)主日
讃美歌20,256,294、交読文1(詩1篇)
聖書日課 ホセア6:1〜6、?コリント5:14〜6:2、マタイ9:9〜13、詩編107:1〜9、


この一週間、孫たちが居て賑やかでした。そうした家の内を更に賑やかし、爽やかにしてくれたのは鈴虫の鳴き声でした。朝もセミの合唱に負けず、響き渡ります。

 教会員の大西さんが、毎年丹精して作出して下っています。日曜日にいただきました。
大変有難いことです。実は毎年、今年はどうだろうか、と心配しながら期待しています。今年の鈴虫は、時間に関わりなく四六時中ないてくれています。なく、と言って良いのだろうかと悩んでいます。鈴虫は羽を打ち震わせて綺麗な音を出します。鈴虫の音は美しい、という表現が正しいのでしょうか。

 本日の聖書は、大層気になる言葉で始まります。「なぜなら」です。
すでに提示され、語られた事柄の理由・原因を説明する文章の始まりを示す言葉です。
ここまでの文章をよく読まないと、勝手な解釈をしてしまうことにもなりかねません。
今朝は、はじめに5:11〜13をご一緒に読むことにしましょう。

 パウロは、永遠に存続する目に見えないものに目を注ぐと語ります。この肉体は、私たちの地上の住処であり、やがて滅びてしまう。その時は、神によって備えら、与えられる住処を上に着ることになります。

 目に見えない永遠のことを話し、納得させるのは、大変困難なことです。政治資金という分かり易く、納得させることが出来ることについて、この国の人たちはその説明を放棄しています。パウロは「説得に努めます」と言います。この間の違いは何処から来るのでしょうか。パウロは、「主に対する畏れを知っている私たちは」と示します。

 パウロはどのような「主」を知っていたのでしょうか。全ての罪人の罪を贖う主、十字架に死に、甦りたもうた主イエス・キリストです。
この主の前にパウロは恐れおののき、ひれ伏します。この方の前でのみひれ伏します。
他の者が、同じことを要求するなら、敢然と拒絶します。ただ十字架のイエスのみがパウロの「主」なのです。この主は、いかなる代価も求めず、罪人を愛し、罪を赦し、新しい命へと招いてくださいます。裁きの主が赦しの主であるから、ここに「畏れ」が生じます。
この『畏れ』は、恐怖とは違います。恐怖の恐れは、人の心を鷲づかみにして、もてあそび、叩きつけ、引き裂きます。畏敬・畏怖の畏れは、目には見えないけれども人の心を崇敬と憧れに満たし、その前でひれ伏させるものです。

 主が愛し、その命の代価を支払っていただいた人々を、パウロも同じように愛そうとします。それが説得です。説明し、理解され、納得されることを求めるのは愛があるからです。説明、説得は、自分は正しいと繰り返すことではありません。相手にとって解らない所を把握し、それを隠そうとするのでなく、判るように語り、示すことです。
主が愛し、命を与えた故にパウロも彼らを愛し、ひとりの主を分かち合うことが出来るよう、努めるのです。

 11節の後半部は、パウロの、神に対する信頼の表れと言って良いでしょう。
「私は、神にはありのままに知られています。」良いところも、悪い所も、すべて掛け値なしに知られています、ということです。本来、人の親は、わが子のことをこのように知りたいものです。ところが過剰な期待で押しつぶしそうになったりします。それでは期待しないで置こう、という方もいらっしゃいます。ご注意申し上げなければなりません。
「子どもは親が期待するとおりになって行きます」。
過剰な期待は子供を押しつぶします。全く期待されない子供は、行く先がわからなくなり、右往左往して、無駄な時間を過ごしやすくなります。

 パウロはコリントの教会の人々からも、ありのままに知ってもらうことを期待している、と語ります。人間は悪心、悪意をもっています。敵意や害意になります。そうしたものによる理解は、一体どんなものになるでしょうか。コリントの人たちの良心によって知られることを求めます。そしてこれは、決して自己推薦ではない、と言います。今風の言葉では売り込み・アピールでしょうか。そうではなく、パウロのことを、この世的力を誇っている人たちに対して、誇る機会を与えようとしてのことです、これがパウロの考えです。
コリントには、パウロに反対する勢力があり、彼らはこの世的権力も持っていました。それに対抗するために何が必要か、パウロは適切な配慮を巡らします。

 このようなパウロは、反対する者たちの目には、正気ではない、と見え、そのように批判されていたようです。一つの事に熱心になると、多くの場合、気違い扱いされます。

『釣りキチ三平』は最近の作品で、良く知られています。あるいは、「くるい」という言葉にもなりました。骨董、ヤットゥ、やわら、浄瑠璃、女、政治、宗教などに狂い、家屋敷まで手放し、裏長屋で人生を終わる、こともあります。

 主イエスも、身内の者から『あの男は気が変になっている』と言われました(マルコ3:21)。パウロもまた、ローマ総督フェストゥスに『パウロ、お前は、学問のし過ぎで頭がおかしくなった』と言わせています(使徒26:24)。評価と言うものは、それぞれその基準があります。全く異なった基準を用いるなら、お互い、おかしく見えるのが当たり前でしょう。この世的な基準で福音の出来事、例えば「献身」を見るなら、何も評価できないし、お前、気が狂ったか、というしかないでしょう。福音の基準でこの世の出来事を見れば、おかしな事だらけ、と言うことは出来ます。まことの神様を知らないからだ、と。

 パウロは、非常に大胆の時があります。基本的には注意深く、慎重です。しかし、福音の進展に関わるときは大胆不敵になります。このところがそうです。気違い、おかしい、と言われても構わないのです。狂っているのなら、神のためです。冷静・的確であるなら、それはあなたがたのためである、と断言します。

 ようやく本日の部分に入ってきます。13・14節
(文語訳)我等もし心狂えるならば、神のためなり、心確かならば、汝らのためなり。
キリストの愛我等に迫れり。我等思うに、一人すべての人に代わりて死にたれば、すべての人すでに死にたるなり。

(口語訳)もし私たちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。

(岩波版)もしも私たちが正気ではなかったとするなら、それは神に対してなのであり、もしも私たちが冷静であるとするなら、それはあなたがたに対してなのである。
事実キリストの愛が、(次のように)判断している私たちを、しっかりと捕らえている。
(すなわち、)一人の人がすべての者のために死んだのであり、それゆえにすべての者は死んだのである、と。

 パウロは何故、心狂っている、気が狂っている、と言われても立ち向かって行けるのでしょう。殆んどそれを無視することが出来るのでしょうか。それは、自分が選んだものではないし、自分の好みの問題でもありません、と言いたいのでしょう。彼は言います。気が狂っていても、確かであっても、どちらにせよ、それは「キリストの愛が強く迫っているからです」と。キリストの愛は、値打ちのないものを愛する愛です。愛は、本来惜しむ意味である、と読みました。
その場合悲しむ、という意味で使うことのある『哀』と同じものになります。哀愁、哀悼、愛惜など。

 キリストの愛に迫られ、捉えられると、たいていの場合、いわゆる計算を忘れてしまいます。後になって計算を思い出すことがあり、その場合進路を変更することがあります。
他人の目には狂ったように見えても宜しい。キリストの愛に確実に捉えられているなら、キリスト馬鹿、と呼ばれようとも、それを感謝しようではありませんか。

 キリストの愛は、私たちを捉え、和解の言葉を委ねられました。委ねられたものは、口先だけではなく、全人格的に和解を伝えなければなりません。歌舞伎の舞台ではありません。仮面をつけて演じれば良いのではありません。それはそれなりに難しいことです。言葉を伝えるものは、その言葉にふさわしい人格となり、その見栄えを身に付け、人々を神との和解へと招き入れなければなりません。

 1895年8月2日にお生まれの方のおひとりに、十二代・田辺南鶴さんがおられます。
私は殆んど存じ上げませんがクリスティアンの講談師として、門下生を良く育てたそうです。
そもそものきっかけは、キリスト教視聴覚教育センターからの依頼だったそうです。
小川総主事でしょうか。なんと『十二人の証人』と言うシリーズ・タイトルで、代表的キリスト者を講談にして語って欲しい、というものでした。頼む側もたいしたものです。お引き受けになった南鶴師匠もたいしたものです。それを引き受け、完成させ、放送されましたが、これを契機にクリスティアンになる決心をされたと言います。

 ある若者が入門しました。熱意はあるけれども、門人たちの見るところ、とてもではないがものになりそうもない。師匠、あいつにはよっく言い聞かせて、他の道へ進ませたほうが当人のためにもいいんじゃないですか。それでも師匠は、この見所なしとされた門人の世話を見て、一流の講談師に育て上げ、送り出したそうです。

 此処にもキリストの愛に迫られたひとりの姿があります。
 そして和解の言葉を伝え続けた人がいます。

 憐れみを受けた者として、キリストを仰ぎ、共に歩ませていただきましょう。