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2009年7月12日

《祈 り》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
?テモテ2:1〜8

聖霊降臨節第七(三位一体後第六)主日、
讃美歌88,286,330、交読文45(コリント前書13章)
聖書日課歴代誌下6:12〜21、?テモテ2:1〜8、マタイ7:1〜14、詩編143:1〜6、

 前週、7日・火曜の朝、短い時間でしたがクマゼミが鳴きました。9日には抜け殻が一つ。
今朝も抜け殻二つ、そしてこの庭ではなく遠くで鳴いているのが聞こえました。
いよいよ夏本番、梅雨明けも近いことでしょう。暑さに負けないようにしたいものです。とは言うものの、関東よりも暑いから参るなあ、と弱音が出てきそうです。そこで、この夏も頑張らなくちゃあ、と言いたくなります。カウンセリングの世界では、「頑張りという言葉は、たいていの場合使わないほうが良い」、と言われることが多いようです。ところが実際の生活では、頑張らなけりゃあ何も出来ない、始まらない、ということもあります。

 その辺のことを考えると、大阪の言葉は面白い、なかなか良いところがあります。
間違っているかもしれません。『ボチボチ行きまひょか』という言い方です。頑張らなければ何もできない、頑張り過ぎたらこちらが潰れる、この間を通っているのではありませんか。ボチボチ行きましょうか、と言うと少しニュアンスが変わります。四角四面かな。

 さて、本日与えられた聖書は、テモテへの手紙その?、2:1〜8です。
テモテへの手紙は、パウロが、その愛弟子テモテに書き送った手紙です。
実際は、後の時代の人が、パウロの名を用いて書いたもの、と考えられています。
テモテは、すでに一つの教会を託せられ、その責任を担っています。多くの人から愛され、敬意を受けていますが、なおパウロは心配しています。伝道・牧会者としての心構えを書きました。牧会書簡と呼ばれる理由です。

「牧会」とは、何を意味するのでしょうか。近年、ある神学者の指導により『魂への配慮』という言葉が知られ、用いられるようになりました。「魂」は、キリスト教だけの言葉ではありません。これだけでは、一般的な心理学、カウンセリングなどの世界の用語と区別がつかない惧れがあります。

 だいぶ古い言葉ですが、「共に礼拝することが出来るように整える働き」という文章がありました。これは、明治時代の牧師、宮川経輝先生の著書『牧会百話』にあった言葉、と記憶します。なかなか含蓄に富む言葉です。ちなみに宮川先生のお孫さんかと存じますが、おひとかた大阪の牧師になっておられまして、ある席で同席し言葉を交わしました。

『魂への配慮』が、キリスト教会のものであることも指し示してくれています。礼拝によって立てられるキリスト教会の営みである『牧会』の意味を良く教えています。
さまざまな人々が一緒に、礼拝することが出来るように、一人一人のみんなの魂に配慮することが、キリスト教会の牧会です。

 宮川先生の文章を知ってからは、いつもこのように説明することにしています。

「先ず第一に勧めます」と、このところは始まります。テモテへの一般的な警告、感謝の奨励を書き終えて、いよいよ本格的に教えを書き綴ろうとします。その第一が、「全ての人のために祈りなさい」ということです。

具体的には、「願いと祈りと執り成しと感謝」と書かれています。デエーシス、プロスエウケー、エントエウクシス、エウカリスティア、それぞれ異なる言葉が用いられています。
私自身は、これらを一括して祈りの中身、または形と考えます。

 祈りは、神との対話である、と言われます。おしゃべり、世間話ではありません。それでは何を話すのでしょうか。父親とふたりっきりになると、何を話したら良いか分からなくて、お困りになったことはありませんか。異質であったり、馴染みがなかったりするためでしょう。神と人とは、天と地よりも隔てられ、遠い存在です。通常では全く質が異なります。パウロはそのことを知り、若いテモテとその教会のために心配しました。そして祈りについて教えることを優先しました。

 祈るときには、自分自身の求めを率直にお話しなさい。自分の内には、いつも欠乏があるはずです。それをそのまま神の御前に携えて行きなさい。神と顔を逢わせる思いで、大胆に進み出なさい。自分のことばかりでなく、すべての人のために祈りなさい。とりなしの祈りが必要なのです。そして祈ること、主なる神と語り合うことができる、許されているのですから、感謝しましょう、と教えています。

本日の聖書日課のひとつ、マタイ福音書は7:1〜14、「人を裁くな」で始められます。
求めなさい、そうすれば与えられる。狭い門から入れ。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。

 これは確かに祈りに関する教えです。主の祈りでは、「日毎のパンをお与え下さい」とあります。これほどに卑俗なことも祈ることが許されています。
私たちは祈りにおいて、どのようなことも言葉も許されています。求めも許されています。
ただ聖霊を汚す言葉は許されません。聖霊は、私たちを生かす神の力です。私たちを福音の恵へと導く神の風です。この聖霊を拒む者は、救いに至ることも出来なくなってしまうのです。

 確かにどのようなことでも祈ることが許されています。どのような言葉で祈っても神は聞き入れてくださいます。然し、それは一人だけのときの祈りにしましょう。密室の祈りです。多くの友と一緒に祈るときは、皆がともにアーメンと唱和できる言葉を選び、文章としましょう。公同の祈りはアーメンに向かって、整えられるでしょう。

私たちは他の人のために祈る時、更に大きな恵みを受けるようになります。
私たちは、教会に連なる全ての人のために祈ることは当然、と考えます。弱い者たち、苦しみ、悲しむ者たちのためには祈るでしょう。然し、富める者たち、力ある者たちのためにはなかなか祈りません。

 この手紙の記者は2節で、「全ての人たち」の中身を明らかにしています。「王たちや全ての高官たちのためにも」ささげなさい、と書いています。彼らのことを忘れたり、落としたり、拒絶してはなりません、と言っているようです。
この部分について、スタディ版は次のように書いています。

 2:2 「王たちやすべての高官のために」権力者へ敬意を示すことは揉め事を避けるために大切であった。そうすることで権力者にキリスト教の信仰を尊重してもらうこと、新しい信徒を獲得すること、迫害の危険を減らすことが出来た。

 聖書の時代は、古代の身分制社会でした。さまざまな壁、目に見えない壁が、人と人を隔てていました。この壁は、自分自身を守るために役立ちました。と同時に、他の者たちを退け、傷付け、倒すような攻撃でもありました。相手に対する呵責のない攻撃は、しばしば自らを傷付けましたが、たいていは気付かない振りをするのです。ローマ帝国も、ユダヤも厳しい身分制が敷かれていました。

 この手紙は、王や高官たちのために祈ることを求めています。教えています。
書き手は、その目的は「私たちが平穏で落ち着いた生活を送ることが出来るため」と言います。この手紙が書かれた頃、すでにパウロは殉教しているとすれば、帝国はユダヤ人、キリスト教に対して大変厳しい時代となっています。王や高官の好意を得るなら、平穏であり、信心と品位を保つことが出来る、と教えます。

 迫害の中で生きることは、多くの困難を生じます。キリスト教信仰を隠して、引き篭らなくてはならない時もあるでしょう。ある時には、逃亡を余儀なくされるでしょう。
『見ざる、聞かざる、言わざる』の生活になることもあるかもしれません。これは、信仰者にとって不本意なもの、そして決して品位のあるものではないかもしれません。

 最近、日本人の品格とか、政治家の品位が話題になります。たいていは、それを欠いている者が多い時に問題となります。その割には、品位・品格とは何か、はっきりしていないように感じます。この手紙は、キリストを信じる者の品位、キリストの教会の品格がある、と考えています。スタディ版を見ましょう。

品位は、指導者が持つべき風格や威厳のこと。

 歌舞伎役者・六代目(当代)沢村田の助は、名女形、重要無形文化財保持者(人間国宝)で横綱審議委員会委員です。横綱の品格に関して、昨日の朝日新聞朝刊で次のように言いました。
「歌舞伎には名優は数多くいますが、(大日本相撲協会の)横綱は69人しかいないんです。
その重みを良く考えてもらいたいですね」。
これなども品格、風格に関する一つの考えです。自他共に認める地位・身分から滲み出る良質の雰囲気、影響力を品位と考えています。信仰者にもあります。

 テモテへの教えは、人間の実相を率直に認めています。平穏な生活の中で保つことの出来る信仰者の品格も、迫害の中にあっては脅かされる。
だから祈りなさい。王や、高官の好意を得られるように、彼らのために。

今迫害の中にいない私は、この教えに反発します。自己中心の論理だ、と。然し、厳しい迫害を経験した人たちが、一生懸命に発信しています。私は、これを間違いだ、とは言えません。
「平穏で落ち着いた生活」こそ、主イエスが言われる「シャローム」という挨拶にふさわしいものではありませんか。「平安・平和がありますように」 ?編讃美歌202参照。

 私たちは、日毎のパンを求めて祈るように、平和な生活を求めて祈ることも許されています。それが全ての人、とりわけ王や高官のために祈ることの意味です。王や高官は国の政治を統べる者たちです。現代の政治家たちです。本来、国民を守る者たちです。本来の使命を自覚し、果たすよう祈ることが勧められました。彼らの短所、失敗を指摘することはしますが、彼らのために祈っているでしょうか。
彼らのために祈ることは、世界の平和を求めて祈ることです。決して自己中心な祈りではありません。主イエスの言葉、シャロームを実現すること、世界平和を求める祈りです。

 清い手をあげて祈るように勧められています。当時は、両手を上げて祈ったようです。
膝まずいても良し(エフェソ3:14)、立って祈るも良し(マルコ11:25)、形式はさまざまです。平和を祈る清い手は、先ず行って和解します。何よりも赦すことです。

 日本文学は伝統的に、赦しを知らない、と聞きました。シェークスピアーなど欧米の文学は、最後に希望がありますが、日本文学では怨念が残るのです。そのためにお宮を造り、怨霊を鎮める必要があります。

 キリストは私たちのために死に、甦って、永遠の命のさきがけとなられました。
十字架の上で罪人を赦されました。罪人の命の代価を、ご自身の命を以って支払われました。
私たちはこの赦しの希望と慰めを、多くの人々と分かち合うことが出来ます。

 感謝しましょう。