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2009年6月28日

《生涯のささげもの》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マタイ5:21〜37

聖霊降臨節第五(三位一体後第4)主日、
讃美歌26,166,290、交読文41(マタイ伝5章)
聖書日課 申命記26:1〜11、?コリント8:1〜15、マタイ5:21〜37、詩編14:1〜7、

6月最終主日です。これで一年の半分が、ほぼ終わったことになります。梅雨の真っ只中のはずですが、降雨量は十分とは言えないようです。御殿場は富士山の雪解け水が伏流水となって湧き出すものを水道にします。小川となって流れるものが田に引かれます。都市部はたいてい、河川の上流からの取水と水源ダム湖に頼っています。冬にはそれなりの雪の量が必要です。何十年も経ってから、あの頃は雪が少なかったから、今頃の伏流水が細っているようですよ、ということにならないとも限りません。四季折々、それなりの特徴が生きて、一年が祝されます。違いがあって、豊かなのです。

さて、本日の聖書を読みましょう。マタイ5:21〜37は、小見出しによって分けられています。
21〜26は『腹を立ててはならない』和解しなさい
27〜30は『姦淫してはならない』罪を犯させるものを切り落としなさい
31〜32『離婚してはならない』罪を犯させるな
33〜37『誓ってはならない』然りは然り、否は否と言いなさい

禁止の勧告と積極的行動が組み合わされています。静と動、消極と積極、バランスが取れています。
これだけでは本日の主題への繋がりが見えてきません。他の聖書日課も読んでみましょう。

使徒書は、?コリント8:1〜15『自発的な施し』です。
この手紙は使徒パウロがコリントの教会宛に書いたものとなれます。その統一性に関しては、異論が呈されているようです。ある学者は五つの書簡が交じり合っている、と主張します。それほど細分化しないまでも大きく二ないし三に分かれると考えられています。
1〜9章が第一の部分。10〜13章が第二の部分。そして6:14〜7:1は別内容の手紙の一部であろう、とされます。

マケドニアは、有名なアレキサンダー大王の出身地。現在のギリシャの北に連なる広い地方を言います。BC168年にローマ帝国の一部となりました。アレキサンダーの父親フィリポス王がこの町を大きくしました。その後、アウグストウス帝の頃に、ローマ軍の退役兵士(ヴェテランス)が植民され、市民権が与えられました。テサロニケがマケドニア州の首都であり、フィリピは有名な植民都市です。
この都市フィリピそのものが、特権を有するローマ都市となりました。

マケドニア地方はパウロの伝道した舞台であり、フィリピ、テサロニケ、ベレアの教会は彼が開拓したものと伝えられています(使徒16:12〜17:13)。使徒言行録は、16:16〜40でパウロがフィリピにおいて投獄されたことを、また17:1〜8でもパウロがテサロニケで妨害を受けたことを伝えています。

パウロは、マケドニアの諸教会に与えられた恵みを明らかにし、共に感謝、讃美しようとしています。その恵が何であるかは、2節で語られますが、何と艱難に関わることでした。
おそらくこの地方一帯を何らかの災害が襲ったのでしょう。

 そのためにマケドニアの諸教会は、大変な苦しみを担うようになり、経済的にも困窮したようです。そのさ中に、彼らは、力相応に、また力以上に、パウロ一行の「聖なる者を助けるための慈善と奉仕に参加させてほしい」と願い出ます。更にパウロは書いています。

 この時の彼らの働きは、私たちの期待以上でした。「彼らは先ず主に、次いで、神のみ心に沿って私たちにも自分自身を捧げたので、私たちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました」

 マケドニアの教会の人々は、激しい試練を経験しました。パウロは書いています。

「その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさになった」。

マケドニア教会の人々は、パウロの伝えたキリストの福音を信じています。その福音信仰は、艱難の中にも、神の恵みを見出すものでした。多くのものが奪われた、としてもその中に与えられる神の恵みを見出しました。

 悲しみ、苦しみ、貧しさを経験した者は、他の人が同じことを経験していると、とてもよくわかります。勿論経験がなくても、想像する力が豊かな人は悲しみ、苦しみを理解できます。分かります。マケドニアの人達は、想像力も豊かだったのでしょう。その上に、キリストの福音を信じていました。この弱い兄弟の一人のためにもキリストは死なれたのだ、と信じていました。艱難の中にある時に、主にある兄弟たちの苦難を思い、自分たちに出来る限りの支援をしようとしました。それはパウロによって、「自分自身を献げた」と言わしめるほどのものでした。自分の自由になる限りのものをささげたのです。

 私たちは、教会用語として「献身」という言葉を用います。勿論聖書がそのもとになっています。ローマ書12:1でしょうか。
『こういうわけで、兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる、聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。それがあなたがたのなすべき礼拝です』 テーン ロギケーン ラトレイアン フモーン

 パウロは一方で、神への捧げものとしての自分自身を語ります。自分の生涯全体は神へ捧げられています、と。
もう一方で、マケドニア教会の人々は、神と並んで、地上の兄弟たちへ捧げられた生涯である、と認めています。言葉は不適切です。兄弟へ、捧げることはないからです。然しそれでもパウロは、「神のみ心にそって捧げた」と認めています。手元に残しておけば自分のものと言えるでしょう。しかしそうはしないで、自分の全てを神のものとしたのです。

 献身は、神のみ心に沿ってなされるものです。限定付けようとする条件は認められません。神の御心だけが成就されます。
人間の側で思い描いた献身は、神の計画に従うものに変更されます。

コンビニストアーの見切り販売が問題になっています。一部上場企業である本部は、一物二価になるためブランドへの信頼を失うので許せない、と主張します。個別店の店主は、廃棄するために大きな社会的損失が生じる、本部はそのリスクを負担すべきだ、と主張します。本部が一部負担することで収めようとしていますが、簡単ではありません。

一物二価と言いますが、そうでしょうか。廃棄寸前の商品は、出荷された時とは明らかに値打ちが違います。売り手にとっては損失になるものに変わりつつあります。買い手にとっては、手元に置ける時間はどんどん失われ、なくなる寸前です。そのために、他の店で見切り販売をしても混乱が起きなかったのです。

本部は小売価格を指定して、それを崩さないように強要しているように見えます。昔レコードや家電製品で同じようなことがありました。値崩れを防ぐためにメーカーがさまざまな規制を掛けた頃のことです。基本は、売値を決定するのは需給の法則であり、最前線の小売店だ、ということです。メーカーや本部が、その上位の力を利用して売値を強制してはならないのです。希望価格が適正であるか否か、消費者にも決定権があります。

供給側は、その優れた力を利用して、利潤を確保しようとします。計画的に品薄の状況を作り出す。そうしたことが起こらないように監視し防止するのが政治、行政です。ところが政治献金や賄賂などによって癒着が起きています。互いの信頼はありません。

価格の問題だけではありません。アジア・アフリカで飢えに苦しむ人たちが大勢いるときに、これほど大量の食品を捨てることが許されるのでしょうか。どの様にすれば食品を廃棄しないで済むか、有効利用できるか、考えるべきではないでしょうか。一人勝ちを勝利とする考え方は、格差社会を作り上げます。貧窮層の長い尻尾を引きずっているのが見えるでしょうか。

近江商人の間には、『三方徳』という考えがあるそうです。作り手、買い手、そして売り手の三方が共に満足するような商いをすることを重んじる考えです。一方だけが利益を独占するようでは、その商いは長続きしません。利益を適正な水準に抑えて、世の中全体が潤うようにすることです。

30年ほど昔、埼玉の小川町に、小さな家電のお店がありました。構えは小さいけれど繁盛していました。その店のおばあちゃんが言っていました。
「せがれに良く言い聞かせています。売るだけじゃあいけないよ。買ってくださったお客様に感謝して、故障があれば何時でも修理に伺うのだよ、と」

今風に言えばアフターサ−ヴィスの徹底となります。利益を独り占めしない、皆で分かち合う、という心でしょう。現代日本の大企業も大事にするべきことです。

今や世界は、三方徳に収まらず、商いに関わることも出来ない者たちのことを考慮するように求めています。食料や資源を失い、生活様式の変化を余儀なくされ、ホームレス状態になって行く人々。産業革命の時代、英国の農家が陥った状況はこういうものだったのか、と知るようになりました。エンクルージュア・ムーブメントと記憶しました。牧羊業に囲い込まれた農家は、農地を手放し都会へ出て行く。工場労働者になろうとするがなりきれない。都市のスラムが形成されました。産業資本だけが肥え太りました。ロバート・レイクスの日曜学校運動は、こうした環境で展開されました。同じようなことが地球規模で起こっているのが現代です。

マタイ福音書5:21以下には、さまざまな教えがあります。他の人を馬鹿と言ってはならない。反感を持たれていることを知ったら、供え物をする前に和解しなさい。
これらは、現代の私たちの状況そのものではないでしょうか。この国の中で、世界の中で起きていることです。貧しいのはお前たちが無能だからだ。自己責任だ。当然反感をもたれるでしょう。それに対して目、耳、口をふさいではいませんか。知らぬぞんぜぬを決め込んでいるのです。貧困はあらゆるテロの温床です。病気や戦争のもとにもなります。

献身は、私たちの本当のささげものは、神から与えられた大きな恵みを独り占めしないことです。多くの者たちと、分かち合うことです。決して足らなくなることはありません。

分かち合い、共に生きることが出来るのです。恵の豊かさを信じましょう。
泉のように尽きることのない恵みに感謝しましょう。