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2009年6月14日

《悔い改めの使信》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マタイ3:1〜6

聖霊降臨節第三(三位一体後第2)
讃美歌16,352,259、交読文40(イザヤ書40章)
聖書日課 エゼキエル18:25〜32、使徒17:22〜34、マタイ3:1〜6、詩編25:1〜11、

いつの間にか入梅です。平年より遅いとか。道理で早明浦ダムの貯水量が不足、というニュースがあったわけです。例年は梅雨の中休み頃に、空梅雨の傾向のため、という形で伝えられました。入梅前に異変が起きているようです。ニュースの価値ありでしょうか。

教会の庭の枇杷は昨年たくさん実をつけて、小鳥が一日のうちに全て取ってしまいました。今年は気がついたら、ひとつも実っていません。万代池の近くの家では、昨年同様たくさんなっています。小鳥に取られても良いから実って欲しいのですが、一体どうしたのでしょうか。春先に小鳥が花芽を食べてしまうと、実が付きません、と聞いたことがあります。ザクロの花が咲きました。綺麗な赤ですね。目に沁みるように感じました。梅雨空に美しく映える感じです。一年前、御殿場から貰って来た「ネジ花」が二本咲いています。こちらは薄いピンクが可憐です。何処にあるかお捜しください。

本日の聖書は、マタイ福音書3章の初め、洗礼者ヨハネの登場場面です。
この人は、イエスとは親戚関係になるようです。母マリアの親戚の女エリザベトが夫である祭司ザカリヤとの間に、不思議ないきさつで産んだ男の子がヨハネです。この間の経過については、ルカ福音書1:5〜25、57〜80、に記されています。
1:80「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた」。

ルカは第2章を、御子イエスの誕生物語に充てています。そしてマタイ同様第3章をヨハネの登場で始めています。マタイが「その頃」としか書いていない部分を、ルカは明確に書きます。
「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファが大祭司であった時、」

これほど丁寧に書いていただくと、世界史の流れの中でおおよその位置が分かりそうです。この辺りに、ルカの歴史家としての感覚があるのでしょう。それと較べるとマタイは、神のご計画の「その頃」、といった感覚のように感じられます。

 この年代確定についてはスタディ版が説明しています。とてもコンパクトで、良い説明内容です。ただここでお話しするには長過ぎるので、そのまま引用するのは避けましょう。
簡単に言えば、およそ紀元28年か29年の出来事とされます。更にこのことから、イエスの死は紀元30年ごろと推測される、とします。

 「洗礼者ヨハネが現れて、荒野で宣べ伝え」と語り始められます。ここで用いられている言葉はケリュソーン、後に教会で福音宣教というときに用いるケリュセインと同じです。
ヨハネがここで語ったことは福音そのもの、とまでは言わないまでも、その先駆、導入の教え、と初めの弟子たちによって理解されたのです。

その言葉は「悔い改めよ。天の国は近づいた」というものでした。悔い改めは、方向を転換すること、生活態度の根本における変更をなすことです。これまでの方向が間違っていることを認めた時、人は初めて、その向かう所を変えるものです。正しいと思い、考えている限り、変えることはありません。

この同じ言葉が、マルコ福音書1:15では、主イエスの宣教の第一声として記されています。同じ言葉をマタイはヨハネの言葉とします。そして、交読文38、イザヤ40:3の言葉を、ヨハネの身元証明として引用します。新共同訳では次の通りです。
「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え  
私たちの神のために、荒地に広い道を通せ。
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
主の栄光がこうして現れるのを  肉なるものは共に見る。
主の口がこう宣言される。」

イザヤ書40章から55章は、第二イザヤと呼ばれ、若い詩人預言者によるもの、と考えられています。時代はバビロン捕囚の頃、服役の時は終わり、エルサレムへ帰還する時が間もなく来る、希望を抱け、と語ります。この40章も具体的には、バビロンからエルサレムへの帰還の道を整備しなさい、ということでしょう。それが福音書では、栄光の神、救いの主が恵みをもって来たりたもう時への備えをしなさい、となりました。

マタイは、ヨハネこそ「荒れ野で叫ぶ声」である、というのです。
彼の風体が書き記されています。
「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」
この時代の普通の生活をしている人のものとはだいぶ違うようです。議員や長老、祭司や学者、役人、商人、職人、兵士たち。どのような身分でも、もっと柔らかく気持ちの良い衣類、また形の良い物を使用していました。ファッショナブルな生活です。

 それに較べると、ヨハネのスタイルは、きわめて禁欲的です。当時、エッセネ派のクムラン宗団があった、と知られています。その姿は、規則や会計記録などを含む死海写本によって、戦後、知られるようになってきました。彼らは禁欲的と考えられ、ヨハネもその一員ではないか、と言われます。しかし、このスタイルは、エッセネ派の考えを超えています。あるいは、ヨハネはエッセネ派を飛び出したのかもしれません。

 荒れ野で叫ぶヨハネの声を聞きに、多くの人々がユダの地とヨルダン川流域全体から出てきました。そしてヨハネの言葉に従って、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けました。
人は、多くの時にたいへん利己的であり、自分の正しさを主張するものです。なかなか自分の悪や間違いを認めようとはしません。人の悪や間違いをしきりと指摘、指弾し、叩こうとするものです。正しいこと、正義を口にしますが、それは自分の考える正義でしかないことがしばしばです。それなら、指弾されている相手も、同じように主張できます。
ここに登場する大勢の人々は、別種の人間なのでしょうか。自分の罪を告白しています。悔い改めています。何故でしょうか。

心理学の世界なら、こんなことを言うかもしれません。

  大勢の人たちがやって来たために集団催眠状態になった。
貧しい人たちで、律法も守ることが出来ず、何かするしかない極限状態だったのだ。
そうかもしれないが、そうではないかもしれません。
聖書はもっと多くを語っています。イザヤの預言は、荒野に叫ぶ声に続いて救いが、神の栄光が現れることを語ります。人々はそれを受け入れ、それを希望としたからこそ悔い改めることが出来ました。

私たちは、先行きにもっと大きな光が見えなければ、自分の闇を認めようとはしません。

最近、目に付いた言葉があります。『友愛』です。
有力な政治家の兄弟お二人が、政党の違いにも拘らず、共に使っています。

元は、彼らの祖父である政治家が用いたものです。その夫人薫子さんは東京の一ツ橋にある共立学園の園長として有名なクリスチャンでした。麻生太郎総理の祖父は吉田茂氏。二人とも戦前から戦後にかけて保守系の大政治家であり、大変仲の悪いお二人、と記憶します。その孫同士が手を結んでいました。これからどうなるのか、興味はあります。
話を戻しましょう。問題は『友愛』です。

もともとは、薫子さんの影響で聖書的なフィレオー、友愛を知って使ったものでしょう。しかし今の方たちのことは知りません。頭脳明晰な方たちですから、さまざまな学びの中から出てきたのかもしれません。お小さい頃から身に染み込んだ言葉を、満を持して解き放ったのかもしれません。それなら素晴らしい、と申し上げましょう。

同じ家庭で育った兄弟であっても、必ずしも同じ考え、同じ理解を持つとは言えません。
一方で友愛を語り、他方で御自分の考えだけを、これが正しいとして貫徹しようとする。
この辺で「何かおかしいぞ」という違和感を持ちます。祖父である政治家はどの様に用いたのか、調べてみたいものです。だいぶ違っていたのではないでしょうか。

 聖書から随分離れてしまうようですが、私の中では繋がっています。
ヨハネは悔い改めを宣べ伝えました。人々が悔い改めたことは、自分の間違いを認めていることになります。悔い改めを促したものは何でしょうか。

それが、「天の国は近づいた」という言葉です。
いつの時代でも、人間の世界は混乱しています。多くの者が、自分の正当性、正しさを主張して、分かれ争うからです。ヨハネはそのような只中に現れました。そして「神の御支配が、其処までやって来ている」と告げました。

ヨハネの特徴は、自分のことは何一つ語っていないことです。その時代の多くの人々はその違いに気付いたのでしょう。彼の言葉をそして、神の御支配を受け入れ、悔い改めました。教会はこの神の御支配を先取りしている集団です。礼拝共同体となります。
世の中の集団とは異なる基準を持ちます。
この世の政治家は友愛を語り、自分の義を貫くことを選び、信念に従った自己を誇ります。
現代の政治家は、自分こそ正義であると語り、主張します。これを振りかざして、自分と違うものを不義であるとして断罪します。違和感が生じます。

教会が宣べ伝えるイエス・キリストは、世界を救うために御自分の義をなげうち、十字架にかけられる罪人になりました。ここに神の愛が現れています。
ヨハネは、天の国、神の御支配を語り、悔い改めを促しました。今も語ります。
自分の義を誇ることは止めなさい。あなたの罪の身代わりとなってくださった方を受け入れなさい、と。

ヨハネは神の支配を語りました。告げました。
彼とその時代の民衆にとって正義の神は、同時に愛と真実の神でした。
他の人間に代わって、この神が愛と慈しみをもって統治してくださる、というならその民となりたいものです。

感謝して、祈りましょう。