聖霊降臨節第二主日、讃美歌76,238,514、交読文39(イザヤ書53章)
聖書日課 イザヤ6:1〜8、エフェソ1:3〜14、マタイ11:25〜30、詩編99:1〜9、
前週は、御殿場の神山教会の予定でしたが療養所側から、新型インフルエンザ予防のため外部の人には出入をご遠慮願いたい、との要請で、行くことが出来ませんでした。新型インフルは、こんなことにも影響するのか、と少々驚きました。このため人生が変わってしまう方が出ているかもしれません。
研修日に振り替えていただきました。かねて関心のあった丹後宮津教会の礼拝に出席して参りました。教会員の山岸さんご夫妻の母教会で、最近牧師が辞任され、ようやく後任が決まり、赴任したばかり、とのことでした。JRの駅から5分ほどの閑静な場所に教会はありました。門や垣根もなく、会堂が立ちます。右側に玄関が扉を開いて迎えてくれました。靴を脱ぎ左へ、礼拝堂の後部の一室へ案内されました。牧師と役員が打ち合わせをしておられました。お邪魔にならない様に礼拝堂の長椅子に席を求めました。
大きさは、玉出教会を一回り以上小さくしたような感じでした。60人ほど入りそうです。前の方がステージになってその右側に説教壇があり、中央にはこちら向きに開かれた聖書が置かれています。左側に司会者の台があるはずですが何もありません。中央手前の低い机の上に聖餐器具が用意されています。
やがて定刻、牧師の声で礼拝が始まります。礼拝堂左側後部にオルガンがあったはずですが、鳴っていません。説教壇の辺りから音楽が流れてきます。オルガンを弾く人がいなないのです。私も40年間で五つ目の教会ですが、奏楽者がいない、ということはありませんでした。当たり前のことのようですが、実は大変恵まれていたのです。最初に主任となった教会は15名前後の信徒数、礼拝出席数でした。そこでも最初はお一人、その後数が増えて行きました。奏楽者がいるのは当たり前のようでした。釜石鈴子教会での夏期伝道実習の時はいませんでした。
この日、出席者は合計10名。年齢層は、玉出と余り変わりません。牧師が50前後、そして40台と感じられる女性がお一人。後は60以上です。この群れに神の恵みが豊かに与えられるように願います。
今回の研修で一番の収穫は、教会と牧師・伝道者の初めに還ったことです。
小さな規模の教会で、奏楽者もいない礼拝を守る。御殿場では、夕礼拝のときは奏楽もありません。出席者も「十字の園」があるのでいるはずなのですが、ゼロで始まり、途中から一人だけ来た、ということがありました。
そうした状況の中でも続けるには、大変な気力、努力が必要です。
現在夕礼拝を続ける教会が大変少ないのは、この気力、体力、努力が続かないためです。責めるつもりはありません。大事な力を補給することが出来ないのですから、やむをえない決断だったのでしょう。この教会の夕礼拝が続いているのは、決して意地っ張りや痩せ我慢ではありません。教会の皆が力を出し合い、支えあっているからです。力が続く限り、そのことを感謝しつつ、礼拝を続けて行きましょう。
牧師が研修することの意味は何でしょうか。それは、先ず初めに牧師が神の富に触れ、次いでそれを教会の皆様と分かち合い、共に豊かになるということです。
さて本日の聖書は、マタイ11;25〜30です。
その一部26・27節は、ルカ福音書10:21〜22にあります。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」新共同訳は全く同じです。
そしてマタイ13:16〜17には、この続きと言いたいものがあります。
「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることが出来ず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
併せて考えると良く分かってくるのではないでしょうか。「これらのこと」、とは何でしょうか。それは、その時の人たちが現に見ていること、聞いている言葉です。
イエスにおける福音の出来事全てです。イエスが教えたもう事ども、そして行なわれる奇跡。そうです、イエスが居られること自体を奇跡と感じた人も多かったでしょう。
救い主の到来を予言した預言者は、その成就を見ることも、聞くこともできません。
義人だから、ということでこの時に出くわすことは出来なかったのです。
「幼子のような者」、これは誰でしょうか。知恵ある者や、正しい人ではない、ということが分かります。幼子は、自分自身は何の力も持っていません。道を決めることも出来ません。物を持つことも出来ません。聖書の時代であれば判別する力も、認知する力もない、と考えられていたかもしれません。
主イエスはご自身の時代の人々は、隠されていた奥義、ミステリオンを見、聞くことが出来た、と仰っているのです。
人々は、イエスを見ることで神の秘密を見る。イエスの教えを聞くことで神の言葉を聞くことができた、と言われるのです。そして今、同じことが私たちにも言われます。
あなたがたは、この聖書によってみ子イエスを見、その言葉を聞いています、と。
そして28節からは、『キリストのくびきへの招き』、となります。
最近の木曜集会で質問が出ていたと記憶します。列王記上12章です。旧約聖書551ページ。
王国が分裂することになる会談の様子です。ソロモンの息子レハベアムに対し、北10部族は、あなたの王位を認めるための条件、もっと緩やかな統治にしてくれ、と申し入れます。その時レハベアムは、長老たちの言葉を退け、若者の言葉を受け入れた、父が与えたよりもっと厳しいくびきにしよう、と答えます。
スタディ版11:29に説明があります。
くびきは、牛や馬など家畜がすきや四輪車を引けるように、首にかけられる木製の棒や枠のこと。くびきは服従や辛い仕事を象徴する。
ある学者は書いています。
伝説によれば、イエスはこの地方随一のくびき造りの名人。そして彼の店の看板には
『私の頚木は負いやすい』と書いてあったかもしれない、と。
負いやすいとは、体に良くあっている、フィットしているということです。
私の母教会の牧師夫人、小林悦子先生は神戸女学院の出身で、戦後、フルブライト奨学生でアメリカ・アーラム大学へ留学されています。大手前女子大学で哲学、英文学を講義されたこともあります。保育、心理学、英語教育学の学会のメンバーです。
アーラム大学の恩師のお一人はエルトン・トゥルーブラッド博士、熱心なクエーカー教徒です。後に学長もつとめられます。博士が、大学で始められた運動がヨーク・フェローシップ、『くびきの友』です。信仰の交わり、聖書を読むこと、祈ること、奉仕をすることを若い人に教え、互いに励ましあいながら実践しようとするものでした。
アーラム大学は、クエーカーの学校です。良心的兵役拒否者(パシフィスト)が大勢でたようです。信仰と生活というような二分法は、自分自身に許すことが出来なかったのです。当時のアメリカの大学には、多くの帰還兵も、学んでいました。少し前まで、戦場で銃を手に、人を殺すことが善である、と聞き、教えられ、実践していた人々です。
教育者は、そのような学生を、そうした価値観から解放しなければならないはずです。ヴェトナムやカンボジア、ラオスの少年兵、パレスティナ、タリバン、イスラエルなど同じ問題は続いています。
トゥルーブラッド博士は、問題解決の一つの方法を見出したのではないでしょうか。
神の富とは何を指しているのでしょうか。
富は私たちの求めるもの、溜め込み、手放そうとはしないものです。
神の富は、神ご自身を豊かにするものではありません。
ご自身の愛する民を豊かにし、幸せにするものです。
民の側からは、神の恵となります。
これを受けるためには、先ず神の子となることが必要です。
ローマの時代にも養子縁組によって、子としての権利を獲得することができました。
相続者とされ(エフェソ1:11)、父の財産、富を与えられます。
法律上の父親の豊かさに与ることができました。
養子であっても権利は全く実子と同じです。そして権利には義務が伴います。
父の名誉を汚すことのない様に生きることです。
主イエスは、そのことを「くびき」という言葉で表しています。
負い易く、あなたの体にフィットしている。背負う荷物も軽く感じられるだろう。
オーダーメイドのスーツを着ると良く分かる、と聞きました。
完全にバランスが取れていて、重く感じられないそうです。私の吊るしのスーツもさほど重く感じませんが、だいぶ違うものなのでしょう。
父の名誉を汚さないように生きる。
困難なことのように感じます。しかしその人には、父の力が伴うのです。私たちが、父を背負うのではありません。必要な時には、父が私たちを背負ってくださるのです。
イザヤ46:3、4「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出たときから担われてきた。
同じように、私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。
私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す。」
ここに神の富があります。恵の福音があります。
感謝し、讃美しましょう。