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2009年5月24日

《キリストの昇天》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書24:44〜53

復活節第七主日、讃美歌22,159、352、交読文38(イザヤ書40章)
聖書日課 エレミヤ10:1〜10a、エフェソ4:1〜16、ルカ24:44〜53、詩編93:1〜5、



 教会の前、駐車場の周囲のつつじが綺麗に咲いています。適度な雨のおかげか、大変色鮮やかです。さわやかな風とよくマッチしているように感じられます。

 復活された主イエスは、40日の間、弟子たちと一緒に居られました。そしてその間に復活について、これからの世界のことなど教えられたようです。今年のイースターから40日目は、前週の木曜日21日でした。その日から最も近い主日に、昇天を記念した礼拝を捧げます。プロテスタントの諸教会は、余り昇天日には関心を持って来ませんでした。
余り昇天の意味が判らなかったのかもしれません。
確かにある神学者は、昇天の記事は神学的には無意味である、と書いています。
私たちは、自分の目で読みましょう。そして、自分にとってどのような意味を持つか、考えましょう。

さてそれでは、昇天に関する聖書を概観してみましょう。
先ずマルコ福音書16章です。ここでは、1〜8節に復活が描かれます。続いて「結び一」としてマグダラのマリアへの現れ、二人の弟子への現れ、14〜18節に弟子たちの派遣、となり、19節以下が「昇天」となります。口語訳では、19、20節でした。1〜20節は、最も重要な写本に欠けています。内容的にもマタイ、ルカ、ヨハネ、使徒の寄せ集め、感じられます。
新共同訳では、これらの次に、「結び二」を置きました。これも重要な写本には見られません。明らかに、後の時代に付け加えられたものです。

ルカ福音書では、24:50〜52が、昇天の記事です。主に紀元三世紀のボドマーパピリに拠っています。これは、残されている写本の中では、最も古い世代に属します。

ご承知のように、ルカ福音書は、その第二巻を使徒言行録としています。ルカ福音書の終わりが、使徒言行録の始まりとなります。言行録1:6以下に昇天の記事があります。繰り返されている、と言って宜しいでしょう。

本日の聖書としては44節以下となっています。弟子の派遣命令などを含むものです。
目に見える主イエスから、宣教への派遣を命令されました。

イエスが昇天された、天に昇られた、と書いているのは、マルコとルカだけである、となります。そして両者共に、昇天の場所と時を明確にしていません。
ルカだけが、ベタニアの辺り、としています。ベタニアは、エルサレムの東、オリブ山の中腹にある村です。

昇天、主イエスの姿が次第に消えて行く。再び、この目で見ることはないだろう。
実に悲しいことです。ちょうど、私たちの愛する者が息を引き取り、葬られた時のように。

先週は、家内の父親が亡くなり、その葬儀のため田園調布教会へ行かせていただきました。
私にとって、遺族、家族の席に座り、説教を聴くのは、初めてのことでした。愛する者と、この地上で顔を合わせることは出来ない、これは悲しいことです。悲しむ者たちに説教者は何を語れば良いのか、そんなことを考えながら、席についていました。

弟子たちにとって、主イエスの昇天は、折角甦られた主イエスが、再び、しかも決定的に失われることです。喪失です。邪魔なものであれば、それが無くなれば喜ぶでしょう。しかし大事なものがなくなるとき、愛する人が視界から消える時、誰でも悲しみます。
言い表しがたい、深い悲しみに胸が一杯になるでしょう。

ところがマルコとルカの福音書は、主イエスが天に上げられたことは記しますが、その時の、弟子たちの悲しみには少しも触れていません。当たり前のことだから推測しなさい、というのでしょうか。どうもそうではなさそうです。マルコ16:19が、天に上げられ、神の右の座に着かれた、と記した後、20節はこのように記します。
「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」

主が昇天されたことを悲しんではいません。むしろ力を得て、宣教しています。

ルカ福音書では、24:51が天に上げられた、と記します。そして52・53節を。
「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」

 弟子たちは讃美・告白し続けています。ユーロゲオー、感謝する、感謝の言葉を捧げる、讃美する、祝福する。それは、私たちとは違う所もあるでしょうが、主なる神を礼拝した、ということです。キリストの教会は、礼拝を大事にします。大切にします。それは礼拝そのものが宣教だからです。

福音書記者ルカは、大変感情が豊かな人だったようです。彼の文書、福音書と使徒言行録には、情緒・感情の動きを表す言葉がよく出てきます。
「大喜びで」、凄い言葉を使っている、と感じ入りました。

イエスの昇天は、私たちの考えとは違う効果を弟子たちに与えました。

私たちは、わが身と引き比べ、弟子たちは喪失感に襲われ、悲しみにくれるに違いない、と考えます。十字架につけられ、死んで、葬られた。あの時の喪失感、悲しみ。それをもう一度感じることはありませんでした。

イエスが見えなくなったことの結果、大きな喜びが生まれ、讃美告白、礼拝する力を獲得しました。
昇天が意味することは何でしょうか。
弟子たちの目の前で、弟子たちの目の前にあることを止められたことです。
目に見える限り、主はそのところにおられます。見えなくなることで、イエスは何時でも、何処にでも居られるのです。

これはイエスの新しい存在の形です。
弟子たちはそのことを教えられ、知っていたからこそ、喜ぶことが出来、讃美と告白のうちに日を過ごすことが出来たのです。証人となることを喜んだのです。

これは、現代の私たちにとってきわめて重要なこと、意味のあることです。
なぜなら、この時代にあってはキリストが全く見えていないからです。
見えないのか、見ようとしないのか、見えない振りをしているのでしょうか。
以前御紹介したことがありますが、もう一度。

「伝道者の寂しき極み夫に見ぬ 人賢くて神を求めず」(斉藤たまい・高崎)

 この歌は、日本聖公会斎藤章二司祭の奥様が詠まれたものです。朝日歌壇に投稿されて、1974年8月11日に掲載されました。そして当時29歳の佐高信さんの心を捉え、およそ20年後、『人生の歌』という一冊の過半を占める論考となります。佐高さん得意の評伝となっています。歌壇の選者は、この歌を風刺の歌と考えたようです。詠み手の斉藤さんは、愚直なまでに信仰の道、伝道の道を歩まれた自分たち夫婦を見詰めておられました。 

74年といえば、学園紛争も沈静化し、社会全体が無気力症状を見せた頃でしょうか。
宣教活動に応えようともしない世間を見る。教会的に考えても世渡りべたのお連れ合い、地方都市の小さな教会を伝道・牧会して来られた。その努力は少しも報いられない。
こうして年老いてきた、と詠っています。

自分たちのように愚直な者、小さく弱い者は、人に知られず、ひたすら神を頼むしかない。
神だけは、私たちを見ていてくださる。斉藤さんの多くの歌から、そのような信仰が見えてきます。

 イエスは天に上げられました。弟子たちの目からは消え去りました。
そこに喪失感はありませんでした。喜びと力がありました。讃美告白が生まれました。
見えない存在となったからこそ、いつも共に居られる方になりました。
見えない存在である故に、イエスは私たちの全てを見て下さっています。
声が聞こえないからこそ、全ての人が語り合う主イエスとなられました。手で触れることが出来なくなったから、何時でも一緒にいることが出来るようになりました。
喪失感はありません。終わりは始まりだからです。

昇天があるから聖霊降臨があります。
これは何と大きなことでしょうか。

最後に?コリント8:2をお読みいたしましょう。
「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならないことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」

見えることは、その対象を知ること、うちに取り込み、支配することです。
愛することは、相手の状態如何に関わらず、それを大事にし、いつくしむことです。

神に知られる者は幸いです。

感謝しましょう。