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2009年5月17日

《イエスの祈り》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マタイ6:1〜15

復活節第6主日(復活後第5)、
讃美歌73,322,354、交読文22(詩95篇)
聖書日課 列王記上18:20〜39、マタイ6:1〜15、ヘブライ7:11〜25、詩編95:1〜11、



 先週は二日を費やし、古屋さんが庭の草刈をしてくださいました。またすぐに生えてくるはずですが、それにめげず、雑草にチャレンジ。隋分と綺麗になりました。感謝いたします。春の花はその務めを終え、今は夏の花色に変わりつつあります。赤や紫のように情熱を感じるような濃い色になります。「こいいろ」で恋愛の「恋」を思い出す方はお若い、と感じます。

大変さわやかな季節を迎えました。一方政治は、霞ヶ関の論理で勝手に動いているようです。補正予算などは目を覆いたくなるほど、惨澹たるものを感じます。そうした環境の中、間もなく裁判員制度が実施されます。従来、職業的裁判官だけに許されていた裁判に、一般人が臨時に加わる。民間の視点を加えることで良い裁判が期待される、と考えるようです。反面、人が人を裁くことが出来るのか、許されるのか、というようなことが論じられるようになりました。

私たちが裁判員制度について考えることも有益でしょう。現在の論調は、一般人が死刑を選択することができるか、その心理負担・精神衛生をどうするか、というような問題に偏っています。誰が裁くことができるか、裁くとは何か、このような問題は法哲学の課題です。残念なことに私が受講した法哲学講座は、それを扱いませんでした。法制史講座もこのような問題を歴史哲学的に扱うことが出来ます。しかし哲学プロパーの領域を避けていることは許されないはずです。不十分ではありますが、裁判員制度に反対する立場の考えを、幾つかの点を挙げて申し上げてみましょう。

 まず、諸外国と同じ司法制度を持とう、ということが言われました。
外国とは、わが国以外の諸国ですが、この場合欧米諸国を限定的に意味しています。
私は、西欧の陪審員制度のマネをする必要はない、と考えています。優れた裁判官が審理を尽くしています。勿論、完全ではありません。その不完全さを裁判員制度が補完するとは考えられません。更に混迷の度を加えるでしょう

欧米人が我が国で裁判を受けることになると、必ず言うことがあります。「陪審制度のないような野蛮な国」。駐留米兵の事件でよく聞かされました。それなら法を犯さなければ良いのです。この言葉に驚いて裁判員制度を作ったわけではない、と思いたい。でも難しい。まるで明治維新の頃と同じです。欧米と同じ制度、法律を持たなければ、未開の野蛮国とされてしまう。
脱亜入欧、富国強兵策がとられました。一時期、陪審制度も採られました。
消費税導入時も同じ論調、主張でした。欧米では何処も消費税をかけているからわが国も導入すべきだ、と。憐れむべき政治家、官僚、惨めな国民・一般大衆。

司法に民意を導入する
専門家である司法官が事実を誤認する。それを裁判員が防ぐことが出来るだろうか。
専門家が出来ないことの責任を一般人に負わせるな、と言いたい。
民意と言う語には多数決の意味があります。裁判で重要なことは事実の認定である、と聞きました。事実あるいは真実は、決して多数決によるものではありません。多数の意見に寄らず真実を見抜くためには厳しい意志の力が必要です。資質のある者が訓練され、適正な支援を受けてなし得ることです。

一般人の視点で見ることの大切さ、というのなら専門家の再訓練こそ大切ではないのか。そのために生活と地位の保証が与えられ、更に敬意と政府からの褒賞が用意されています。
司法官の採用と訓練の問題をすり替えては居ませんか。

法治国家である、ということは法律を基準とし、そのほかのものを基準としない、ということです。ある国では政党の綱領、基準、規約が優先します。更に政党の創設者の言葉・語録、あるいは権力者の発言が優先されたりもします。事件が起こってから、それを取り締まる法律を作るようなことも聞きました。民意を導入する、という時、法治主義がないがしろにされることを恐れます。民意はマスコミの誘導に弱いものです。リンチ・私刑にするようなものです。最近、そのような事例を見ていませんか。警察が逮捕、家宅捜査までしたが不起訴処分。くさなぎ事件、おざわ秘書逮捕事件はこれらの一例です。司法の側がマスコミを操作しようとして情報を漏らします(意図的なリーク)。民意を利用するようになると、次には、時の権力に都合の良い操作がなされるようになります。

基準は民意ではなく法律だけです。

人が人を裁くことは、出来るのか
家内の父が14日朝亡くなりました。田園調布教会の長老であったこともあります。
裁判官を退官し、東京第一弁護士会に弁護士登録、東海大学で教鞭をとりました。
その娘は、結婚前、私に語りました。人が人を裁くことが出来るのだろうか、と。
今日の裁判員制度の論議でもしばしば取り上げられています。司法制度の中で裁判官も人です。その判事が人を裁いているのです。もっと論じられるべきです。

旧約聖書には「裁き司」が登場します。士師とも呼ばれます。英語ではJUDGES
神は、裁きの器として人をお用いになられます。

出エジプト18:13〜26は、エジプトを脱出したモーセをしゅうとエテロが訪問した記事です。そこでエテロは、モーセが一人で民を裁くことの困難さと、その重荷を選ばれた者たちに分担させなさい、と教えます。選ばれる資格も記されます。「神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び民の上に立てなさい」とあります。
裁く者には、厳しい資格が必要なのです。

 そこには何を裁くかが記されていました。犯罪もあったでしょう。掟を破ることもあるでしょう。民は、神の正義を求めてやってきます。彼らには、掟と指示が与えられます。
神の前に人として歩む道を示すことでした。

裁くとはどういうことでしょうか。つい最近、ある芸能人が逮捕されました。元法務大臣、現在の総務大臣が『最低の人間』と発言しました。さすがにこれは翌日撤回されました。人間として立ち入ってはならないところでした。
主イエスは、マタイ福音書7:1で『人を裁くな』と教えられました。
裁くとは人間の価値を決定することではありません。罪は裁き、人間を守ることです。
この故に裁判官の必要を認めます。人を守る判事に対し敬意を抱きます。裁判官はこれに支えられ、応えて歩み、働きます。

当然裁判員はこの埒外です。裁判の重荷に耐えろ、と言う事は出来ません。

量刑を決定するのは判事、新しい制度にはその責任の所在を曖昧にする効果がある。
その分、裁判員が心理負担を強いられる可能性が強い。カウンセラーの支援が必要とされる。これなども反対する大きな理由になります。

裁判員制度という司法改革は、不必要なことに時間と能力と財力を費消しました。
本来、選抜と教育、待遇に向けられるべきものだった、と考えています。

「改革」の二文字には魔力があります。葵の紋章のようなものです。全ての人が、ひれ伏さねばならない、と感じるような力を持っています。しかし、全ての改革が正しい、とは言えません。正しい改革だけが良い改革です。見極めねばなりません。

本日の主題は《イエスの祈り》、与えられた聖書は、マタイ福音書6:1〜15です。これは小見出しによれば、施しをするときには、祈るときには、という二つの部分からなっています。そしてこの中に9節以下の『主の祈り』が入っています。直感的には「イエスの祈り」とは「主の祈り」を指すものだから、今回「主の祈り」を説教する、と感じます。そうであれば、最初から「主の祈り」とすれば良いものを、何故「イエスの祈り」なのだろうか、と疑問を感じました。その上、裁判員制度についてお話しする機会でもあった、ということを考え合わせると、単純に「主の祈り」ではない、と考えるに至りました。 

主イエスはその他の機会にも祈っておられます。それらを含んだ「イエスの祈り」を知るように求められているようです。それにしてもいわゆる「主の祈り」は、主が弟子たちに祈りを教えられたものですから、模範的なものです。これを繰り返し学び、絶えず祈って行きたいものです。

祈りには、前提になるものがあります。それが6:1〜4であり、5節だと感じます。
簡単に言えば「偽善者たちのようにするな」ということです。人の目に付くことを求める施し、祈り。それは、すでに人々からの賞賛を受けているから、隠れたことを見てくださる神は、何らお応えくださらないでしょう、ということです。祈りは、ことさら人目に付かないようにすることが大事です。

祈りには、二つの形、機会があると考えられます。

ひとつは密室の祈りです。私的、個人的に、一人でする祈りです。プライベートな祈りです。そこではどのようなことでも祈ることが出来ます。

他のものは、公同の祈りです。公開の場で、多くの人が聞こえるように祈るものです。当然、聞く人々も一緒にアーメンを唱和します。アーメンは、私もそのように考えます、感じますという意味です。祈りの内容、言葉、感情に対する賛同を表します。ですからその祈りは、聞く人にも解る、理解し、同意できる言葉を持たねばなりません。独断専行、独善高踏は無用です。分かりやすい言葉で、同意できる内容であることが求められます。

祈りは、神への讃美・祈願です。決して説教ではないし、演説、奨励、報告ですらありません。神以外のものに聞かせよう、という意志が働きやすいものです。たとえ個室で、一人祈っていても、このような意識が働くなら、本当の祈りとは言えなくなります。この祈りを認めて欲しいと願うことがあります。最も聖なる時は、最も卑俗な時となります。

主の祈りによって教えられることはたくさんあります。そこではこんなことも祈ることが許されている、と感じさせられます。「日毎の糧を今日も与え給え」daily breadです。
豪華なディナーを求めてはいません。その日を生きるために必要な食物を与えてください、と祈ります。それをお与えくださるのは、主なる神である、という信仰告白でもあります。

本来祈りは、自由をもたらすものであり、自由になったからこそ祈れる、とも言えます。
神の名を崇めることは自己中心や自己絶対化、自己神化から解放されることです。
御国の到来は、神の御支配が到来することです。この世の言い慣わしや、価値観、権力からの支配からの脱出を教えます。
日毎のパンを求めることは、その供給者があることから、正しい共有の経済を学ばせます。
独占と浪費、過剰な利益等から離れるべきことが理解されましょう。

裁判所は、権力機構のひとつとして畏れられます。しかし本来は、民の自由を守るものです。最高裁の建物をどの様に造るか、という時、権威の象徴となるものが求められました。国民に親しみを感じさせるもの、という論議は聞こえてきませんでした。

主はマタイ5:38以下で、「目には目を、歯には歯を」という古代の法を引用されました。
古バビロニア王国のハムラピ王の同態報復法rex tarionisです。残酷、苛酷と言われます。
古代においては、力ある者はどのような報復も出来ました。それをハムラピは、同じ程度の報復で我慢しなさい、と定めました。権力者、力ある者の恣意的な力の行使を止めさせ、法に基づく秩序を立てようとしました。法治主義です。
主イエスはそれを越えて愛の法をもって裁くことを教えました。愛を掟とし、指示としたのです。

「御心の天になる如く、地にもなさせたまえ」と祈ることを教えられました。
御心は、愛がなされることです。

私たち人間の愛は、完全なものではありません。うつろいやすく、変わりやすく、自己中心的なものです。これを完全なもの、絶対なものと考えてはなりません。神の愛を指しておられます。変わることのない神の愛なら、裁きの基準ともなるでしょう。
愛は人を生かす力です。聖書的に考えても、裁きは、人を守り、生かすものです。
正しい裁きは、愛がなされる時です。まことの裁きは、イエスの祈りの実現に他なりません。

そして最後に、イエスは、神と人との仲保媒介者となって、神に執り成してくださる方です(ヨハネ14:13)。父なる神の独り子という最高の方が、私たちのために執り成してくださいます。

だから私たちは、この方の名によって祈るのです。そしてその祈りは、祈るときにすでに叶えられることを知っています。確信をもって祈ろうではありませんか。

そこからは喜びと感謝が生まれます。祈りましょう。