復活主日、讃美歌54,154,199,146、交読文4(詩篇16篇)
聖書日課 エゼキエル36:16〜28、マタイ28:1〜10、ローマ6:3〜11、詩篇66:1〜9、
洗礼式、墓前礼拝並びに納骨式
桜は満開、山吹の白い花が開き、皐月が咲き始めました。花の命は短い、と申します。次々と主役の座は代わります。若葉の美しい時、太陽がきらめく時がきています。
先週木曜は、洗足日礼拝、外に出ると満月と桜。土曜日、暖かい初夏の陽気の中、桜は静かに舞うように散り始め、花びらと競うように紋白蝶が舞っていました。その下ではラベンダーの紫とポピーのオレンジ色が鮮やかでした。
先頃驚き、感動したことがあります。牧師館の庭に大きな石の鉢があります。水を張り、金魚を飼って来ました。春先に10尾ほど買ってきます。メダカも入れます。秋から冬にかけて数が減って行きます。この四月、金魚は二尾、生きていました。メダカは、冬中、一匹も姿を見せませんでした。全部死んだものと考えていました。ところが先週初め、二尾が無事に泳いでいました。メダカの復活だ、いささか不謹慎ですが、主の甦りに事寄せた感慨を抱いたものです。
深いところに身を沈め、身じろぎもしなかったのだろうか、それにしてもヤゴなどの虫に食べられなかったとは素晴らしい、と感じました。メダカごときものの復活に心動かされ力付けられました。キリストの復活は如何でしょうか。
春になると、命に関わるドラマがたくさん繰り広げられ、私たちも感動させられます。
同じ時に主イエスの甦りという命の出来事を耳にし、目にもします。私たちはどれほど心を動かされているでしょうか。存外さめていたりするのではないでしょうか。
説教者の責任は大きいと言わざるを得ません。
本日与えられている聖書は、マタイ福音書28:1〜10です。
週の初めの日の朝早く、主は甦られた、と告げる箇所です。
安息日は土曜日、その頃のかぞえ方では、金曜日夕刻、日が落ちて星が三つ空に輝くと安息日が始まります。そして夜中を越えて、空が白み染めて、鶏が鳴くと朝です。
マグダラのマリアともうひとりのマリアが、墓の様子を見に行きます。
主イエスが十字架の上で息を引き取ったのが金曜日の午後3時過ぎでした。
その夕方、サンヘドリンの議員でもあったアリマタヤのヨセフが、ピラトに願い出てイエスの亡骸を引き取りました。そして自分の新しい墓に葬りました。
この時、この二人のマリアが其処に残り、墓に向かって座っていました。
当然の事ですが、夕日が落ちると安息日になります。安息日はいかなる労働も許されません。
墓に葬ることも出来なくなりますから、人々は急いだことでしょう。香油を塗ることは出来たのでしょうか。
マルコ福音書は、亜麻布を巻くことはできた、と記します。そして安息日が明けて、週の初めの日の朝早く、マグダラのマリア(ルカ8:2)、ヤコブの母マリア(アルファイの子の母、3:18)、サロメの三人が、イエスに油を塗りに行くために香料を買った、と記します。この三人は、マルコの教会ではよく知られた女性たちだったのでしょう。この程度の紹介で十分でした。残念ながら、私たちには不十分です。
それでも、このマルコの記事によって、金曜日には亡骸に油を塗ることが出来ず、日曜の朝早くになった、という事情を知ることが出来ます。
安息日には、歩く距離も厳しく定められていました。二人のマリアが、何処に住んでいたか分かりませんが、この新しい墓までの距離は、到底安息日に許されるものではありませんでした。そこで初めの日の朝早く、となりました。
当時、エルサレムでは、石灰岩質の岩をくりぬいて、洞窟風の墓を用意したものです。
そして多くの場合、入り口には、溝を掘り、円盤状の大きな石を落としこみ、ふさぎました。
落とし込むときは小さな力で十分ですが、これを開けようとして蓋石を取り除くのには、大きな力を必要としました。マルコは、女たちがそのことを心配しながらやってきたら、すでに取り除かれていた、と記します。
マタイは、そこで地震が起こったこと、主の天使が石をわきへ転がしたことを記します。
地震の結果、石が転がったのではありません。私たちは、そうであっても神の御力が働いたのです、奇跡です、と言うでしょう。マタイは、主の天使が降って来て、石を転がし、その上に座った、と語ります。地震の結果と言った方が人々は受け入れやすかったでしょう。マタイは、ここには人間の力が介入する余地は全くなかったことを告げています。
この天使が女性に語りかけます。マルコは、入り口の右手に天使がいたように記します。
それは、遺体が置かれるベッド状の部分と思われます。天使は告げます。
「恐れるな。イエスはここにはおられない。主は甦った。遺体の場所を見なさい。弟子たちに告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。あなたがたより先にガリラヤに行かれる。
そこでお目にかかれる。』たしかにあなたがたに伝えました」。
二人のマリアは、このような天使の言葉を聞いて、驚いたでしょう。「恐れながらも大いに喜び」、遺体の置いてあった場所を確認もせずに、弟子たちに知らせるため走ります。
その道で、イエスが立っていて、「お早う」と言われます。これは「喜びがあるように」という意味の言葉が用いられています。主が甦られたことを言い表しているようです,多岐な言葉と感じます。「カイレテ」というギリシャ語で、一般的な挨拶の言葉、とされます。
新共同訳が「お早う」と訳したことは決して悪くありません。
でもその中に、「喜べ」という意味が潜んでいることを知ることにも意味がありましょう。
復活の主は喜びそのものです。
恐れつつ走ろうとする女性二人、主は、これを慰め、励まされます。
彼女たちは、ごく普通のユダヤ女性、格別の訓練すら受けていません。それが、弟子たちに主イエスの甦りを知らせ、そのメッセージを伝える働きに用いられるのです。これが、全てのイエスに従う者に与えられる使命であり、召命なのです。そして彼ら、彼女たちには慰めと励まし、そして望みと喜びが与えられます。
天使が告げたこと、そして主イエスが自ら顕れて伝えたことは、おおざっぱに言えばこの程度です。甦られたこと、ガリラヤへ行くように伝えなさい。そこで会えること。
主イエスの甦りは、キリスト教信仰の核心です。これを合理化して、お話したり、水で薄めたりしたら、キリスト教ではなくなります。
キリスト教系の新興宗教があります。矢張りキリスト教会であるか否か見極めなければなりません。キリスト教も最初はユダヤ教の新興宗教のように考えられました。しかし、主イエスの甦りが最も大切であることを主張した時、神殿、シナゴーグから出てゆくことになりました。
礼拝を土曜日・サバスから日曜日・サンデイに移しました。
基準は、甦りの主を告知しているかどうか、という点です。
日曜日は主イエスのよみがえりを記憶する日です。この日を主日として礼拝日とする
ことは、甦りを告知することに他なりません。
聖書を教え、学び、大変高い水準に達している人たちもあります。深く高い学識があり、面白い話がなされます。学問の集団、グループとして評価します。
しかし甦りの主イエスを信じていないなら、キリストの教会ではありません。
どれほど立派な葬儀、結婚式を行うことができても、甦りの主を告知していないなら、それは冠婚葬祭業です。
現在のような復活日が定められたのは325年の二ケア会議です。
<春分の日の後の満月の後の最初の日曜日に復活祭を守る>
安息日は、ユダヤ教では土曜日・サバス、イスラムでは金曜日・シャバト
多くの宗教があります。さまざまな教えがあり生活の戒め、掟があります。
そうした中にキリスト教特有のものがあります。それが主キリストの復活です。
古くから人々は、日曜の朝早く「主は甦られた、まことに主は甦られた」と言い合い、言い交わし、喜びを深めてきました。
主イエスの復活は、あの女性たちに力を与え、望みを惹き起こしました。
エジプトの勢力も、ファラオの権勢も、アッシリア・バビロンのいかなる権勢も、
ユダヤの大祭司、律法学者、ファリサイの権力も、ローマ帝国のすべての力も、
死に勝つキリスト・イエスには及びません。
その父なる御神は、すべての力に勝ります。
主イエスの甦りは告知されました。二人の女性が、それを弟子たちに告げ知らせる務めを与えられました。そこから始まって、世界中に、時間を越えて伝えられました。私たちも同じように招かれています。主イエスの甦りを告げ知らせなさい。
最終の敵である死に打ち勝ちたもうたイエスを宣べ伝えましょう。