棕櫚の主日、受難週、復活前第一、四旬節第六、役員任職式(338)
讃美歌85,130,261、交読文39(イザヤ53章)
聖書日課 ゼカリヤ9:9〜10、マタイ21:1〜11、哀歌5:15〜22、
?コリント1:18〜25、マタイ27:32〜56、詩編118:19〜29、
ラッパ水仙がほぼ終わりました。韮は白い綺麗な花をつけています。黄色いフリージヤは今が盛り。甘い香りが漂っています。
桜は丁度八分から満開に、牧師館の桜は遅れています。
桜を見ていると、ヒヨドリが来て蜜を吸い、花を落とします。
春を満喫しているのでしょう。チョッとお行儀悪な小鳥です。
石鉢の金魚は例年どおり、ニ匹が冬越ししました。悠然と泳いでいます。
門の傍らでは芝桜と早い皐月が開こうとしています。
先週は、31日、2日、外出しました。子供連れの姿が目に付きました。
正装なのでしょうか、着飾った若い人も多く感じました。入社、入学の喜びが感じられます。すっかり春だなあ、でも風は寒く、憂き世の風が身に沁み込みます。
自然界は春、その時期が毎年のことながら受難週になります。私たちに『春や、春』と浮かれさせないものがあります。
本日の聖書日課は、マタイ福音書21章、「エルサレム入城」の記事です。
同じ記事がヨハネ福音書12:12以下に記されます。その12、13節、
「祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、ナツメヤシの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた」。シュロの主日と名付けられる基です。
口語訳がシュロと訳した言葉を、新共同訳はナツメヤシ、と訳しています。同じヤシ科の植物ですが、1属1種。ナツメヤシはメソポタミヤ全域から北アフリカで大切にされる有用樹木です。大きな日陰を造ります。その実は栄養価も高く、日常の食品として重んじられています。財産としても高く評価され、何本持っているかで、結婚できるかどうか分かれるようなこともあるようです。
外見は、会堂の南にあるフェニックスと似ています。特にその葉は、よく似ています。シュロのような扇状に広がってはいません。フェニックスの幹を細くし、その花の後に鈴なりの実が付いたものがナツメヤシです。高さ8〜13メートルの常緑樹。羽のように長い羽状複葉は長さ3メートル近くに及び、その先端は重さのため垂れ下がっています。その優美な美しさから、へブライ名『タマル』は、女性の名として好まれました。
ナツメヤシは、イチジク、ブドウ、オリーブと比べても、より温暖で乾燥を好みます。それは特に、実が付いてから熟すまでの期間に認められる特性です。この木は、塩気のある土地でも育ちます。一本の木は年間15〜25kgの実をもたらします。
砂漠のオアシスには、この木が群生します。遠くからでも見付けることが出来、旅人に希望を与えるものでした。
この数年、戦場となったイラクの映像がたくさん放送されました。その中にナツメヤシの畑がありました。オーナーは一所懸命に守り、手入れを続けていました。平和の象徴でもある、と感じました。
ナツメヤシは、優美、端麗、勝利、祝福のシンボルとされています。
旧約の中でどの様に認められているか、一箇所だけ御披露しましょう。(詩92:13)
「神に従う人はナツメヤシのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます」。
神への信従と祝福の象徴とされていたことが解ります。
この日、主イエスは、ロバの子に乗って入城されます。
ロバは、古くから家畜として用いられてきました。従順でおとなしく労働に耐える動物です。物を運び、人を乗せる。稀に農耕にも使われたようです。ヘブロンの近くで少年がロバの練習をしている姿を見ました。乗る練習なのか、ロバを馴らしているのか、両方だったかもしれません。
ロバが最初に現れるのは、創世記22:3です。アブラハムは、主が命じるままに息子イサクを連れてモリヤの山に向かいます。犠牲を捧げるために薪などが必要だったはずです。それらを運ぶ役割をロバが果たしたようです。
創世記42:26,27では、ヤコブの息子たちは穀物をロバの背に積みました。
ヨセフは、父ヤコブへの贈り物を20頭のロバに負わせます。
申命記22:10は、牛とロバを一つのくびきに付けてはならない、と命じます。同じ家畜であっても、その能力、性格、生活のリズム、歩調が違います。決して同じにすることは出来ない、と経験から知っていたことでしょう。ロバは鋤を引いたり、石臼を回わしたりしています。
珍しい事ですが、士師記15:15ではロバの顎の骨について触れられています。
サムソンは、迫ってきたペリシテ人をロバの顎骨をもって殺した。その数1000人とあります。また、ロバの乳を飲むことは許されましたが、その肉を食べることはモーセの律法が禁じています(レビ記11:1〜8)。ロバは反芻しますが、ひずめが分かれていません。
引照付き聖書あるいはコンコーダンス(聖書語句辞典)を用いると、ロバが現れる箇所を追うことが出来ます。
ロバはさまざまな場面で用いられる有用な家畜でした。地位の高い人たちもロバに乗りました。しかし、戦場で軍事指導者が乗るものとしては決して使われていません。
従って、エルサレム入城に際し主イエスがロバの子に乗っておられたことは、征服者として来られたのではなく、平和の訪れをもたらす方としてこられたことを示しています。
この入城の光景は、ゼカリヤ書9:9の預言がそのまま実現しています。(p1489)
メシアの到来預言として知られ、人々は待ち望んでいました。主イエスの中にこのメシアの姿を見出したのでしょう。このときエルサレムに居合わせた人々の大部分は、過越しの祭りをこの都で守ろう、過ごそう、という諸国から来た信仰熱心な人たちです。民族主義の傾向も強かったようです。
彼らにとってメシアとは誰か。勿論信仰の面から考えたでしょう。そしてそれ以上に、ユダヤ民族をローマ帝国の支配から解き放つ解放者でした。また、異邦人ヘロデの支配から救い出す者です。政治、軍事、経済的な自立こそイスラエルの神ヤハウェの支配が回復される時であり、イエスはそのようなメシア・キリストと期待されていました。
新しい王の到来として理解され、期待され、歓呼をもって迎えられました。
ゼカリヤ書では、詩編46編を想わせる言葉が続きます。
「私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」。
エフライムは北王国です。すでに滅亡した国が回復される預言と考えられます。
エルサレムの軍馬は、時代によって異なります。ある時代には、ユダの軍事力であり、他の時代には、エルサレムを屈服させようとする征服者たちの戦力の象徴でした。
詩編46:9〜10も同じようなことをうたいます。(p880)
「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
地の果てまで、戦いを絶ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」。
戦争のための武具がなくなり、諸国に平和が告げられます。盾といえば、攻撃よりは防衛のための武具です。守ることも考えなくてよくなる。本当の平和です。
エルサレムの人々は、イエスを征服者であるかのように歓迎しました。
その歓声を聞きながら、イエスの胸のうちは苦渋に満たされていました。永遠の都エルサレムを、その不滅を信じ、安心している人々を見ています。主はこの後、エルサレムとその神殿の崩壊を預言されます。すでにご自身の受難と復活を予告されておられます。人々の期待が、二重に裏切られるのです。ここにも主の苦しみが、十字架が見えています。
シュロの主日によく読まれ、受け入れられているもう一つの旧約があります。イザヤ書に四つある『主の僕の詩』です。本日の交読文がそのうち最後の53章でした。
実際は、52:13から続いています。
52:13では、栄誉に満ちた王の姿が語られます。神の約束です。
この王は、かつて、人々が顔を背けるような酷い姿であったことが14節から53章にかけて語られます。これが苦難の僕です。それが誰であるか、諸説があります。
私たちにとっては、まさに主イエス・キリストです。それ以外は考えられません。
11,12節をご覧ください。P1150
苦難の僕は、罪人のために身代わりの死を遂げられます。その結果、救いの道、平和の道を開かれます。これが、神のご意志である故に、ふさわしい仕方で結果を結びます。
主イエス・キリストの十字架への道とは、まさしくそのような歩みでした。
すべての罪人を愛し、自己犠牲によって、救いの道を開かれました。
自分に背く者たちのために、その罪の赦しを獲得するために、自ら苦しむ道。
これが主イエスの十字架の道でした。
この十字架を信じる者は、キリストの弟子と呼ばれます。キリストに従う弟子は、平和の使者として、それぞれの生活の場へと派遣されています。
感謝しましょう。