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2009年3月29日

《十字架の勝利》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マタイ20:20〜28

復活前節第二、四旬(受難)節第五主日、定時教会総会開催日
讃美歌79,332,515、交読文27(詩118篇)
聖書日課 創世記25:29〜34、ローマ8:1〜11、マタイ20:20〜28、詩編118:1〜9、


庭のフリージャが黄色の花をつけました。キリシタン灯篭の西側のボケも花が咲きました。
桜は数輪、開いた程度。柿や枇杷・アジサイの葉が芽を出し急速に大きくなっていきます。
春本番、時に風が冷たく感じられます。ストーブを使うかどうか、判断に難しい時期です。
嬉しい悩み、というところでしょう。

本日も日課に従い、御言葉を学びましょう。
マタイ20:20以下です。『ヤコブとヨハネの母の願い』という小見出しがあります。
これは、三度目の受難予告に続くものです。
ゼベダイの子、ヤコブとヨハネの母がイエスに願いました。
「王座に就かれる時、私の息子たちを、その右と左に座れると仰ってください」。
特権的な地位につくことを予約しよう、確約を貰おうとしたのです。

マルコ福音書は、ヤコブとヨハネ自身がそれをイエスに願ったと記します。
なぜか、マタイは、子供たちを思う母親に注目しているようです。
他の弟子たちの手前、二人の母親のしたこととしたのかもしれません。
後の人たちが、弟子であるヤコブ、ヨハネの権威を傷付けない様に工夫した可能性もあります。そうした結果、マタイは大事なことから目をそらさせることになりました。

「その時」という言葉です。これは17節以下をさしています。主イエスが、ご自身の受難と復活を三度目に予告なさった時です。やがてゲツセマネの園で、このためにお祈りされます。26:36以下参照。「私は死ぬばかりに悲しい」。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と。これほどに辛く悲しいこと、その時が着々と近付いています。主の胸中には何があったでしょうか。深い苦悩がありました。
「その時」とマタイは書きました。マルコには見られない言葉です。

主が苦しみ、悲しみの中で、ご自身の十字架への道のりを進んでいる「その時」、弟子たちの母親は何を考えていたか、弟子たちもまた何を考えていたでしょうか。ヤコブ、ヨハネだけではなく、他の弟子たちも同じことを考え、願っていたようです。24節は、そのことを示しています。十人は、二人が願い出たことを怒っています。彼らも主が王座につくことを信じ、その時、王の右左に座ることを夢見ていました。
新しいイエスの王国の高位高官になろうと願っていました。

少し先走りしてしまいました。もとに戻しましょう。
母親が願い出たことは、世の親たちがしばしば示すことです。
「我もよけれ人もよけれ、されど我は人よりちとよけれ」
古人の言葉、人の子の親の気持ちをよく表しています。
自分自身のためなら決して下げない頭も、我が子の為なら下げてしまいます。

人生を競争と捉えて、我が子が勝利を収めることを求めます。
最初のハードルは公園デビュー、そして幼稚園・小学校の門をくぐること。
これは繰り返される。中学・高校・大学・大学院・更に就職。
お父さんのように安定した職場を確保するのよ、お父さんのように。
お父さんは失敗したけどあなたは出来る、頑張れ。

キリスト教学校に関係していましたので、入学の口利きを頼まれたこともあります。
私は、そのような有力者、権力者ではありません、と言ってお断りします。そうした時の親たちの気持ちをうかがいました。「人生の最初の競争で負けさせたくない。初めから挫折では可哀想だから」というものでした。
「子を持って知る親心」というようです。その切実さは、そのとおりでしょう。

「何を願っているか、求めているか、分かっていない」これが主のお答えでした。
人は幸福を求めます。しかし幸福は、人それぞれ違うもの。人生に求めるべきものは何か。それは幸福でしょう。人生の勝敗・幸福とは何でしょうか。なかなか答えにくいことです。

22節で主の言葉が続きます。「私が飲もうとする杯を飲むことができるか」。二人が答えます。「できます」。恐らくこれは、やがて王宮で王の杯を戴くことだ、と考えたに違いありません。そして23節、「確かに、あなたがたは私の杯を飲むことになる」、このところで、主はヤコブとヨハネの殉教を暗示しています。やがて、ゼベダイの妻が愛するヤコブはヘロデ・アグリッパ王の命により殺されることになります。言行録12:2参照。

一切の最終決定は、父なる神が決められます。

さて25節からは、この所の後半部分になります。腹を立て、言い争う弟子たちに対する、主イエスの教えです。簡単に言えば仕える者になりなさい、ということです。大事な箇所でしょう。簡単に言うのではなく、もっと詳しく話しなさい、と言われそうです。

ユダヤ人、これは旧約聖書の民です。異邦人は、律法と割礼を知らない者たち、あるいは否定する者たちのことです。

 これを読むと、異邦人は、ユダヤのヘロデ王家を指しているように感じられます。ユダヤで支配する者たちの有様は、サムエル記上8章に記されます。いわゆる「王の慣わし」です。439ページをお読みください。あるいは、エゼキエル書34章(P1352)からも知ることができます。イスラエルの牧者という語は、イスラエルの支配者、指導者、王を指しています。彼らは皆、民のため、民を守るためではなく、自分のために民の持つ良いものを奪い取って、自分を養い、肥え太るものだ、と語られます。

25節以下が、「異邦人の支配者は」、と語りますが、実は、イスラエルの支配者が、同じ状態なのです。その上、ヘロデ王家は、ユダヤ人ではなく、外国人扱いが当然とされるイドマヤ人でした。したがって、この所は二重の意味で、ヘロデ王を指している、と考えます。
彼らは自分の王位安泰を最優先課題と考え、行動しました。それこそが幸福への道でした。

主は、其処に幸いはありません、と教えられます。事実、ヘロデ家の者たちは、王位を保持するために殺戮を繰り返します。有力な者たちがいることに神経を尖らせ、彼らを取り除こうとします。

主の教えは、全く正反対でした。仕える者、僕になりなさい、と言います。それこそ主がこられた姿です。弟子とは、この主イエスに倣う者たちです。ここに幸福への道があります。

一つの映画が、私たちの幸福観について考えさせます。
フランスの女性監督アニエス・ヴァルダが1965年に作った映画『幸福』。全編その背後にモーツアルトとブラームスのクラリネットの音楽が流れる。色彩感覚と短いカットが印象的な芸術的映画。美しい妻、可愛い子供達、幸福な家庭に恵まれた平凡な男フランソワに、 郵便局員の愛人が出来てしまう。彼は二人の女性を愛し愛されることに全く罪悪感を持たない。
 ―(愛人に)君は動物的だ。妻は植物的だ。どちらも愛している・・・・・・
 そして、家族で湖畔にピクニックに出かけた日、 彼女の存在を妻に告白する。
 ―僕は幸せだ。そして、幸せが二つになった。
 ―私の他に誰かいるのね。
 ―僕は幸せだ。それを君にも喜んでほしい・・・
 (以上の台詞は字幕を見ての記憶だが、記憶違いかも知れない)
 妻はそれを受け入れたかのように見え、二人は太陽の下、咲き乱れる草花の中で愛し合うが、フランソワが目覚めたとき、妻は既に湖に身を投げていた。映画はそこで悲劇的に幕を閉じるわけではない。妻の死後、フランソワは若い彼女を家に呼び、子供達と共に幸福な日々を送る・・・・・・。というハッピーエンドである。

とても悲しいハッピーエンドである。しかし、タイトル「幸福」の示す通り、やはりハッピーエンドなのである。この結末でフランソワの幸福は欺瞞ではない、彼は真に幸福なのである。
 人は生きていく限り、幸福でなければならない。

この映画を見たのは、新宿か渋谷の名画座。そこで友人とばったり会って、お茶を飲みました。問題点についても話したはずです。
ひとつは、二人を同じように愛することが出来るのか。
そしてこの男の身勝手さ。妻の愛情を理解していない独善。
この映画は、全てを肯定したのか、それとも問題提起なのか。
一人の女性を死なせておいて「幸福」になれるか?
妻という身内を傷付け、踏みにじり、幸福と言える無神経は信じられない。
映画としては高く評価できました。「幸福」って何か、という問題提起と理解しました。

今、主イエスの言葉をわが身の前に置いて考えます。
自分だけの幸福ではないぞ。他の人と連動する幸福を考えなければならない。主イエスはそのためにこられ、命を与えてくださった。私の杯を飲む中に幸福がある、と言われます。

主は、これまでの「幸福観」を変えられました。世俗的な満足を幸福と考える私たちに、主イエスの杯を飲めるか、と問われます。信仰者である個々人の生活態度が問われます。

そして今日は、教会総会が開催されます。実は教会そのものが、問われているのではないでしょうか。教会の歴史は、世俗の権力との戦いの連続です。教皇と世俗の国王とどちらが上か、厳しい戦いが繰り広げられました。あるいは、社会の中で教会は名誉ある地位を獲得しよう、と活動しました。現代日本のキリスト教会は、ふさわしい姿を現すべきだ、と考えたのでしょうか、実に立派な会堂を建て、威容を誇るようになりました。そして教会の実力が上がった、と喜びます。教会自体が、あのゼベダイの子らの母となっている。ヤコブ、ヨハネとなっているのです。キリスト・イエスにふさわしい教会でしょうか。

私たちは、偉大な教会になる必要はありません。キリスト・イエスだけを誇りとする教会、信仰者でありたいのです。小さくても、古くても立派なまことの教会です。

私たちは、「主の杯」を分かち合う者、どのような結果であれ、私たちは主の杯を飲み合う者です。苦しみを、自己犠牲を、愛を、そして喜びと慰めを分かち合う者とされました。
このことを感謝しましょう。