復活前節第三(四旬節・受難節第四)主日、
讃美歌66,214,374、交読文
聖書日課 出エジプト24:3〜11、?ペトロ1:16〜19、マタイ17:1〜13、詩編145:1〜13、
教会の庭にたくさんの花が咲いています。折角芽を出した草花の名を知らないことに気付きます。ほんの僅かしか知りません。花たちに申し訳なく感じられます。御殿場には「おおいぬのふぐり」という奇妙な名の小さな花がありました。紫色の可憐な花をつけます。林冨美子先生は、これをベロニカと呼んで可愛がっておられました。御自分の著書の標題にも付けられました。『野に咲くベロニカ』、何冊も戴いたのに、全て差し上げたり、貸したりして今は一冊もなくなってしまいました。『名も無い雑草なんてないのよ』と教えてくださったのもこの先生でした。懐かしく思い出されます。
洋蘭が開き始めました。そしてシュン蘭も。これは日本の在来種とのことです。
君子蘭は、大北さん・渡辺さんがお手入れしてくださるせいか、昨年より多く、四本花が咲きました。ラッパスイセンは満開、まとまっているので黄色が見事です。桜の芽が膨らんできました。皐月、ツツジの花芽も見えてきました。温かな陽射しと雨のおかげでしょうか。お手入れしてくださる方々の御労苦を忘れてはなりません。感謝します。
本日の聖書は、いわゆる『変貌山のキリスト』です。
そこで何が起こったのか、そして私たちに何が語りかけられるのか、ご一緒に読み、学ぶことに致しましょう。
まず「六日の後」とあります。これは、意味不明の日付である、とされます。16章の続きではなく、別のある日、と考えましょう。
「イエスは、ペトロ、ヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて高い山に登った」。ここに二組の兄弟が記されますが、ペトロの兄弟アンデレの名が見えません。他の福音書も、順序は違っていますが、アンデレの名はありません。四人のうち、一人だけ除いた理由はわかりません。私は十人兄弟でした。上から四人目まで男の子が続きました。次が女の子、男の子、女の子四人と続きます。少なくとも上四人の男子はいつも同じように経験させられました。できる限り平等にする、という考えでした。その点からは、どうも一人だけいない、というのは気になります。それでも、ここは何か事情があったのだろう、と言うことで納得させます。
「高い山」に登った、とあります。これも具体的に同定することは出来ません。
昔からの伝説では、タボル山とされてきました。
その頃、この山には大きな要塞と城があったそうです。そこである人たちは、ヘルモン山であろう、と考えました。ガリラヤ湖から、更に北へ行きます。これは確かに高い山です。およそ3000メートル。ヨルダン渓谷からだと3400メートルほどの高さになります。
この山の頂上まで、五時間は越える、と学者は書きます。
富士山は海抜3776メートル 、新五合目からだけでも4時間半から6時間はかかるとされます。普通7・8合目まで登り高度馴化したほうが宜しい、とされます。無理して一気に登ろうとすると、船酔いのような高山病になるそうです。寒さと気圧の低下、気象の急変は行動の自由を奪います。ヘルモン山頂は無理なように感じます。
そこである学者は、この山の中腹と考えました。しかし私は、前後の様子から、余り遠くへ行ったようには感じません。イスラエルの中央部に連なる山々のどこか高いところ、と考えることにしています。
その目的は何だったのでしょうか。福音書には、何回か、山へ行かれたことが記されます。マタイは山の上で教えられたことを記しました。あるいは、祈るために山に登られたことを記します。このところでも、祈るために行かれたに違いありません。26:36以下、ゲツセマネでもそうであったように、弟子たちを連れて行かれるが、祈るときは、唯一人はなれたところでなされます。このときも、今回と全く同じ顔ぶれです。彼らをあるところに留めて、「少し進んで行って、うつ伏せになって祈った」とあります。
さて主はこの時、何を祈られたのでしょうか。教えを語り、奇跡をなさり、人々と弟子たちが人の子をなんと言うか確認されました。ペトロの口から望ましい告白を得ました。
そして受難の予告をなさったのです。次第にイエスが本来的に定められた道へと進んでおられることが、私たちには解ります。それでも主イエスは、それぞれのステップを上がる時に、この道で宜しいのでしょうか、確かめずにはいられなかったのではないでしょうか。
許されるなら、違う道を進みたい、という願いも込められていたように感じます。
祈りは、日本では祈願とされているように、願い事を言上することのように考えられているようです。初詣や、七五三などを思い出すとお分かりいただけるでしょう。しかしキリスト教では、そうしたことから離れたところでも祈りが成立します。あなたのみ旨、あなたのご計画をお示しください。ある種の願い事と考えることも出来るでしょう。しかしそれ以上に、主なる神とのコミュニケーションなのです。
主イエスは、十字架への道筋に、次の一歩を進めるに当たって、御旨を確認されたのです。私たちも自分の都合ではなく、神の御旨を確かめることを忘れないようにしたいものです。
三人の弟子たちの目の前で、主のご様子がすっかり変わります。
「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」。これは、それ自体が太陽のように光源となっていることを示す、と言われます。私には、直視できないことを表現している、と考えられます。
子供の頃、皆既日食があり、小学校で観察しました。目の網膜が焼けてしまうから太陽を直視してはなりません。ガラスを煤けさせて、それを通して見たことを思い出します。ここに記されているような輝きは、直視できないし、モーセやエリヤの顔を識別することは出来ません。当然、会ったこともないのです。
人はいつでも、あると思うものを見出し、いると思うものと出会うものです。
弟子たちは、イエスが来るべきメシア・キリストであると信じています。メシア到来の先駆けに相応しい人物がまだ来ていない、と感じていたようです。朧に見える姿を、モーセとエリヤであろう、と考えてもおかしくはありません。
スタディバイブルは、次のように記します
「モーセとエリヤ」は、イスラエルの中で重要な指導者たち。神の民に新しい生き方をするように求めた。ここで彼ら二人は、(旧約)聖書の二つの主要な書物群を象徴する。マタイ福音書は、イエスが旧約聖書の成就者であることを示唆している。エリヤはイエス誕生の800年以上前のイスラエルの預言者。後の預言者の中には、神の裁きを警告するために神がエリヤをこの地上に再び遣わすと期待した者もいた(マラキ3:1〜4、3:23,24)。
「先ずエリヤが来るはずだ」イエスの時代の多くのユダヤ人は、メシアが現れる前にエリヤが戻ってくるに違いないと信じていた。この根拠は旧約聖書の預言であった(マラキ3:23,24)彼らは、もしイエスがメシアなら、何故エリヤが来なかったのだろうと怪しんだ。
弟子たちは、光に包まれて現れた三つの姿を、イエスとモーセ、そしてエリヤである、と信じ喜びました。そしてペトロは語ります。
「仮小屋を三つ建てます。あなたのため、モーセのため、エリヤのため」。
これは解り難い箇所です。何のために小屋を建てるのでしょうか、しかも一人にひとつ。
一般的に、この栄光をこの所に留めるため、と解されています。すると、受難の予告の時にペトロがイエスをいさめ始めたことと似て、真に主のことを考えているのではなく、人間的な欲求である、ということになるようです。自分もこの栄光に与りたい、ということになります。
ペトロが話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆いました。「輝く雲」は、伝統的に、神顕現の付随現象。彼らは、イエスを中にした三人です。光をうちにはらんで、光り輝き続けたのでしょう。
そして、雲の中から声が聞こえてきます。「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」。ここでマタイ3:17をご覧ください。
ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマを受けられた後のことです。
「『これは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」。
「彼に聞け」は、申命18:15をお読みしましょう。
「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者を建てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない」。
イエスは十字架につけられることを予告し始められました。そのイエスを神は、我が愛する子、心に適う者と呼ばれました。そして弟子たちに対し、これに聞け、と命じられました。私たちは、分かれ道に立たせられると、自分の都合を、自分の利得を第一に考え、判断し、選び取ろうとします。そうした時に神の愛するみ子イエスに聞け、と命じられています。
これは、私たちに何を告げるのでしょうか。父なる神による、子なるキリスト・イエスへの全的な承認、その歩む道への完全な承認です。そして、イエスの弟子たちが全く従うようにとの声です。イエスに聞いて、それに従いなさい、との声です。ある方は、『聴従です』、と言いました。神に従うことは、イエスに従うこと、と告げています。
昔存じ上げていた一人のクリスチャンは、よく言っておりました。「私は毎朝家を出る時、玄関で靴を履いてから、お祈りします。主イエスに聞くのです」と。若い日の私の耳に鮮烈な印象を与えました。主イエスに聞くのです。
無教会の指導者のおひとり、塚本虎二はその卓上語録『友よ、これにて勝て』で語ります。「分かれ道に立って選択に迷うような時には、自分にとって都合の悪いほうを選びなさい。そうすればたいていの場合、神様のみ旨に適うでしょう」。
私たちはイエスの弟子、そして自由の民です。選び取ることが許されています。
感謝して、良い道を選び取りましょう。