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2009年3月15日

《受難の予告》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マタイ16:13〜28

復活前第4、四旬節第3、讃美歌67,142,241、交読文32(詩139篇)

聖書日課 ヨブ1:1〜12、?ペトロ4:12〜19、マタイ16:13〜28、詩編86:5〜10、

先週は御殿場へ行かせていただきました。新幹線で静岡に入ると市の西部、安倍川の近くで支流の土手が黄色に染まっていました。菜の花のようでした。木蓮も咲いていました。大阪よりも暖かいと見えます。帰って来ますと、庭のラッパスイセンが見事に花開いていました。君子蘭も色付いて来ました。陽射しも明るくなりました。日一日と春が近付いてきていることが、感じられます。

金曜日は雨、牧師館の庭の、桜の木の下にはいろいろなものがあります。キリシタン灯篭はそのひとつです。昨年まで、そのそば、西の塀際に木瓜が一本あるのは知っていました。花を見たことがありません。今年は花芽がついています。綺麗な色を楽しめそうです。

昨日は南港通りで、こぶしの花が開き始めたのを見ました。間もなく桜、この人生で、後何回のお花見か、と感じました。ぜひ造幣局も歩きたいものです。吉野も見たい、と欲が出てきました。芝桜も一株、ピンクの可愛い花がつきました。

本日の聖書はマタイ16章、13〜20節は『ペトロ、信仰を言い表す』、そして21〜28節は『イエス、死と復活を予告する』という小見出しがあります。
舞台はフィリポ・カイサリアの地方です。ガリラヤ湖から北へ40キロの町、とあります。私は行ったことがありません。大変、風光明媚なところのようです。この町には泉が湧き出る洞窟があって、ヨルダン川の水源のひとつとされます。其処は、聖なる場所と考えられ、ギリシャ神話の神パンの名を付けてパニアスと呼ばれています。ヘロデ大王の息子フィリポは、ローマ皇帝と自分の栄誉を表すため、フィリポ・カイサリアと名付けました。ここは徹底的に異教的な町と言えるでしょう。

異教的な舞台で、主は信仰告白を受け、受難予告をなさいます。重要なことです。それでも環境が整えられなければできないことではありません。むしろ整えられていない所こそ、最もふさわしい環境なのです。

まずペトロの信仰告白を読みましょう。主は、これまで共に歩みを進めてきた弟子たちに問いかけられました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。
同じことを私たちが言うと、それは周囲の人の思惑を気にしている、周りの人に取り入ろうとしているに違いない、と受け取られそうです。

主イエスの質問は、周囲の人たちの言葉を超越しています。実は、人々の思惑に関係なく、弟子たちがどの様に理解しているかを聞こうとしています。
弟子たちを代表するようにペトロが答えました。
「洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだ、預言者の一人だ、と言う人もいます」。
ここから、当時の人たちが考えていた事は何か解ります。
『今や救い主、助け手が到来するときだ。その先駆者こそこの人ではないか』。これがイエスにかけていた期待、希望です。
それは同時に、この時代が、如何に閉塞感を強くしていたかも示すものです。今日的な言葉を使えば、格差社会、非民主的な時代、封建的な身分社会、流動性を欠く時代、生存権すら保障されない社会などでしょう。しかも、そうであって当然と考えられていました。

主イエスは、ペトロに答えられます。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。弟子たちの理解は何か、問われました。これに対して、弟子たちの代表格、ペトロが答えます。16節です。これは覚えていただきたい言葉です。「あなたはメシア、生ける神の子です」。
主は、この答えを求めておられました。これを導き出すために、人々が何と言うか、お聞きになったのでしょう。しかし、この答えに満足してはいません。

ペトロに言われます。17・18節。簡単に申し上げましょう。
あなたの答えは正しい。しかしそれは、あなたの人間的能力によるものではありません。天の父が、この告白へと導かれたのです。だから私も言う。あなたはペトロ、岩である。
この岩の上に私の教会を建てよう。そしてあなたに天の国の鍵を与える。

シモン・バルヨナはヘブライの名前、ペトロはギリシャ世界の名前です。名は体を顕す、と言います。諸民族に共通する考え方です。新しい名前で、世界に出て行くことになるでしょう、というイエスの考えが読み取れます。

「この岩の上」という言葉を、ペトロ個人の人格とするのはローマ教会です。ですから歴代の教皇はペトロという人格の後継者である、と主張します。人格を継承している、と考えるのです。これに対して、改革者たちは反対しました。
岩は、ペトロが行なった信仰の告白を指している。教会は、個人の人格の上ではなく、ペトロの信仰告白の上に建てられるのだ、と主張します。これが私たちの教会の、信仰の立場です。

そして20節では、ご自分がメシア・キリストであることを、誰にも話さないように、命じられます。これも不思議なことです。私たちは何故だろうか、と考えます。誰にもわかりません。ただ、神様の定められた時が来るまで、すべては秘密にされるのだろう、と推測するだけです。そして、今やその時が来ています。イエスこそ主キリスト、救い主です、と高らかに告げることが許されています。

 さて後半に入ります。エルサレムで殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちにお話しになります。彼らはどの様に聞いたでしょう。
弟子たちの代表格ペトロが出てきます。大変熱心で、積極的で宜しいのですが、彼はどうも「一生懸命間違ってしまう」、という傾向があります。熱意の暴走で、横道へ逸れてしまいがちです。そうした者でも主はお用いになります。ペトロは、経験を重ね、悔い改め、成長し、使命を達成します。

ペトロは、主をいさめて申します。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。
それに対し、イエスは言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。愛する弟子に対して随分冷たく、厳しい言葉です。ペトロも、自分の善意を無視するとはあんまりだ、とでも思ったでしょう。しかし、ペトロのこの時の言葉は、まさに神のご計画の成就を邪魔するものでした。それは悪霊の働き、サタンのなせる業でした。

主が十字架につけられる、ということはその弟子たちにとって重大なことに違いありません。余りにも重大過ぎて、そのことが呑み込めなかった、理解できなかった、かもしれません。
イエスが来られたことによって弟子たちは、その人生に希望を抱くようになりました。これまでは決まりきった流れであり、其処から逸れることは出来ないし、許されないような社会を生きてきました。身分制と家柄、出自によってがんじがらめになっている出口なしの状況。その閉塞感。
イスラエルの社会は、信仰によって平等な世界が実現していそうなものです。
律法を守り、割礼を受けていれば、皆等しい権利と明るい将来が開ける、そんな社会を想像し、期待する。

昔々のことかも知れませんが、ユダヤ教信仰の国であっても、信仰がすべてではありません。信仰の抜け道を作ります。信仰によって、正しい社会が作られるわけではありません。主イエスが、当時のユダヤ教の指導者たち、律法学者やファリサイ人たちを厳しく非難したのも同じ理由です。言い伝えや慣わしを大事にしている。今でも同じです。

キリスト教でも、イスラムでも同じです。アッラーの慈悲を語り、バクシーシ、バクシーシという物乞いに気前よく与える。何故、その貧富の差を是正しないのでしょうか。
貧困こそ諸悪の源泉です。王族に生れた者は、石油からの収入を懐に入れる。その国民は働かないで暮らせる。それは怠惰に生きることを保障し、支配に反対させないためではないでしょうか。人はさまざまな形の労働を通して自己実現を図ってきました。

イスラエル南部、スデ・ボケールのキブツでの経験を少し話させてください。

キブツの中で、若い人たちと話しました。自由で平等なのが良い、と陳べると、反論がありました。「東ヨーロッパ系(イディッシュ)、北・南ヨーロッパ、アラブ、アジア、という序列が決まっている」。明らかに差別があり、疎外されている。強い閉塞感がある。

10代後半の健康な女性の眼差し、体全体から発散される生命力、それは将来への希望に溢れていました。しかしその言葉は、何ら望みを持っていなかった。自分たちの置かれた状況を的確に分析し、先行きは知れたこと、同じことを繰り返すしかない、と語っていました。生まれながらに肌の色が違うことで、全てが、将来までも決定されていることの不合理さを、あの眼差しは語っていました。明るく振る舞う中で、だれもこのおかしさを正すために働いてはくれない、と主張していました。告発を聞くようで、話を聞くのが辛かったことが記憶にあります。

このまま穏やかな生活を続けるのだろうか、と疑問を抱きました。少し北へ行くと、そこはヘブロン。空色に塗られた家に住むアラブ人が多く生活しています。更に西へ行くとガザ。現在も自爆テロと戦闘が繰り返されている町・地域です。
南はアラブゲリラが往来している荒野。そうしたスデ・ボケールに安住し続けることが出来るだろうか。

一つの解決の道を見つけたようです。それは観光です。ベン・グリオン首相が居住した所があり、記念館となっています。最南端のキブツで、果樹園と養鶏が盛んで、芸術活動にも力を入れています。子供を中心部の保育所に集め、共同生活をさせます。幼児教育の新しい試みがなされました。こうした特長を生かし、観光客を集めることで、閉塞感を打ち破ろうとしているようです。ある種のパイロットファームです。
政治経済における救済の道です。人間にはそのために必要な知恵と力が与えられています。其処に向かうために全ての人間は平等であるという指針が必要です。

この方向を明確にするのが十字架と復活です。聖書の『救い』には、癒やす、解放する、自由にするという意味があります。人間は罪において平等です。救いにおいて、復活に与ることにおいて平等です。十字架という自己犠牲によって実現される道です。

十字架と復活によって、私たち全ての者は、自由と平等を実現することが出来るようになりました。

受難が予告されたのは、預言者と呼ばれた多くの人の中で、ただ主イエスだけがご自身のことを預言できた真の預言者であることを知らせるためです。ことが起きた時、弟子たちがイエスを信じるものとなるように予告されました。私たちも信じる者とされました。

感謝と讃美を捧げましょう。